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穀潰しと呼ばれた単騎の剣

第1話 第1話

第1話

第1話

鉄の味が、舌の奥に残っていた。

アレンは井戸の縁に両手をついて、三杯目の水を口に含んだ。吐き出した水が、石畳に赤い線を引く。指先が震えている。昨夜、北の峠で仕留めたトロールは三体。牙が肩当てを掠めた傷から、血がまだ滲んでいた。夜明けの霜が、革鎧の継ぎ目で白く固まっている。

「おい、穀潰し」

広場の石畳を打つ軍靴の音。顔を上げるまでもなかった。辺境警備隊長ガスパルの声だ。

「また寝坊か。昨夜の巡回日誌、書いたのは俺だ。お前の名前なんぞ一行も入ってねえぞ」

「……はい」

「はい、じゃねえ。礼の一つも言え」

隊員たちが、遠巻きに井戸端を囲んでいた。十七人。誰ひとり、アレンと目を合わせない。兵舎から抜け出して単騎でトロールを屠った男が、この砦に一人いる──そのことを知っている者が、この輪の中に少なくとも四人はいる。だが誰も口を開かない。

ガスパルが革の手袋で、アレンの頬を軽く叩いた。

「今日もお前の仕事は厠掃除だ。槍を握るな、血を拭け。Eランクの屑が、戦場に出ようなんぞ百年早い」

「了解しました」

アレンは一礼して、兵舎の裏口へ回った。肩の傷が、脈打つごとに熱を放つ。包帯を巻き直す余裕もない。──別に構わない。毎度のことだ。

振り返らなかった。振り返れば、何人かが慌てて視線を逸らすのが見えるはずだ。見たくなかった。彼らにとって、アレンは目を合わせたくない罪悪感そのものなのだ。

厠の床に屈むと、鉄錆の匂いに混じって、夜のうちに凍った雑巾の腐臭が鼻を突いた。ブラシを握る指の関節が、霜で赤く腫れている。ブラシを前後に動かすたび、肩の傷が裂ける方向に引き攣った。息を吐けば白く濁り、すぐに壁の石にぶつかって霧散する。夜明け前から空腹のまま働き続けた胃が、絞られた雑巾のように縮んで軋んだ。膝を這う冷気が、腿から腰へと登ってくる。

「……アレンさん」

背後から、小声。新兵のリュカだった。入隊半年。まだ十五。

「昨日の峠、三体でしたよね」

「知らないな」

「俺、見たんです。烽火塔から。隊長が酒で寝てる間に、あんたが一人で──」

「黙れ」アレンは手を止めずに言った。「聞こえたら、お前も消される」

リュカが息を呑む音が、狭い石造りの厠に響いた。バケツの水面が、子供の指ほどに小さく波打った。その波紋が、若い兵の本当の動揺を正直に映している。

「……どうして、反論しないんですか。あんたが戦わなきゃ、この砦はとっくに落ちてる。隊長もそれを知ってるくせに──」

「反論して、どうなる」

「どうって」

「俺の顔に唾を吐いた奴が、昨日ガスパルに肩を叩かれて笑っていた。あいつらは知っている。知っていて、何も言わない。反論は、反論を聞く耳を持つ奴の前でしか意味がない」

自分の喉から出た言葉が、他人の声のように遠く聞こえた。舌の奥には、井戸の水を三杯重ねてもまだ消えない鉄の味が残っている。喋るほど、血の匂いが濃く立ち上ってくる気がした。

アレンはブラシを置き、バケツの水を床にぶち撒けた。汚水が排水溝に吸い込まれていく。

「お前も、聞かなかったことにしろ。今すぐ忘れて、隊長に媚を売れ。そうすれば、この砦で生き延びられる」

「……そんなの、嫌です」

「俺が楽になるから、忘れろと言ってるんだ」

リュカの唇が動きかけて、止まった。

そのとき、広場の方で怒号が聞こえた。続いて、兵たちが走る足音。

アレンは厠の小窓から外を覗いた。備品庫の扉が開け放たれ、ガスパルが顔を真っ赤にして副隊長を怒鳴りつけている。

「俺の銀の短剣がねえ! 親父の形見だぞ、あれは! 誰だ、持ち出した奴は!」

副隊長が青ざめて頭を下げる。隊員たちが備品庫の中へ雪崩れ込んでいく。

アレンは小窓から視線を外した。床に残った最後の汚れを擦り落とす。ブラシの毛先が、音を立てて摩耗していた。

「アレンさん、今のって──」

「関係ない」

「でも、もし濡れ衣を──」

「俺には関係ない、と言った」

嘘だった。予感はあった。いや、予感ではない。確信に近い何かが、胸の奥でじわりと温度を下げていく。

昨夜、トロールの三体目を両断した瞬間、剣が軽すぎるのを感じた。藁束を断ったかのように。自分のものではない力が、腕の内側で脈打っていた気がした。

──気のせいだ。俺はEランクだ。十二の年、王都の鑑定官にそう告げられた。魔力量は村娘以下、才能ゼロ。書類を一瞥もせず、結論だけを押し付けられた。

ブラシを置き、立ち上がる。汚水で濡れた膝が冷たい。

広場に戻ると、空気が変わっていた。朝霜は陽に炙られて石畳の上で小さな光の粒に変わり、その光が妙に静まり返っていた。誰の靴も鳴らず、誰の鞘も軋まない。息を殺した集団の沈黙が、耳の奥で低く鳴った。

隊員たちが半円を作って、一点を見つめている。半円の内側には、わざと用意された空白があった。アレンが歩いて入ってくるべき穴。舞台装置のように整えられた沈黙。中央にガスパルが立ち、足元には──アレンの寝台から引きずり出された藁布団と、その下に隠されていた銀の短剣があった。柄頭に、隊長家の紋章。

「お前だったのか、アレン」

ガスパルの声は、異様に落ち着いていた。勝ち誇っている、と直感した。

「俺はやっていません」

「じゃあ、なぜお前の寝台の下にある」

「仕組まれたんです。昨夜、俺は外で──」

「外で、何をしていた?」ガスパルが一歩踏み出す。「厠掃除の男が、真夜中にどこへ行った? 言ってみろ」

アレンは口を閉じた。

単独で峠へ出ていたと言えば、無断の越境。それはそれで死罪になる。証言してくれる者はいない。リュカは、門柱の陰で震えている。他の隊員は、一人残らず、視線を地面に落としていた。

「王都から査問官が来る。三刻後だ」ガスパルが短剣を拾い上げ、布で丁寧に血糊を拭う仕草をした。「お前の素行については、俺が正式に報告する。覚悟しておけ、穀潰し」

「……」

「Eランクの屑が、俺の形見に手をかけた。それだけの話だ」

アレンは短剣を見た。柄の意匠に見覚えがある。先々月、ガスパルが自慢げに広場で振り回していた品だ。あのとき隊長は「これを盗もうとする奴は首を刎ねてやる」と笑っていた。

誰かが、俺を使ってガスパルに恩を売ろうとしている。あるいは、ガスパル自身が仕組んだ。邪魔な雑用係を葬るために。いずれにせよ、舞台は昨夜のうちに組み立てられていた。トロールを追って単騎で駆け出した、あの瞬間から。

どちらでも、結果は同じだ。

アレンは静かに息を吐いた。

「──了解しました」

ガスパルが目を見開いた。

「それだけか?」

「それ以外に、俺が言うべきことがありますか」

隊長は一瞬だけ言葉を失った。それから、苛立った様子で吐き捨てた。

「石蔵に入れておけ。査問官が来るまで、飯も水もやるな」

兵たちがアレンの両腕を掴んだ。肩の傷が裂けたが、声は出さなかった。石畳を引きずられながら、アレンは一度だけ広場を見渡した。

十七人。誰ひとり、目を合わせない。顎を伝い落ちる砂埃が石畳に小さな点を打つ。それすら、誰も見ていないふりをしていた。

──ああ、そうか。

俺はもう、この砦では人間として数えられていないのだ。

石蔵の鉄扉が閉まる。差し込む光は、天井の通気孔から落ちる一筋だけだった。藁の湿りと、古い獣脂の饐えた匂いが鼻を打つ。壁の石が呼吸ごとに体温を吸い取っていく。鉄扉の向こうで、兵たちの足音が遠ざかっていった。

冷たい石壁に背を預けて、アレンは目を閉じた。肩の血が、乾いた藁にじわりと染みていく。呼吸を整えるほどに、傷の奥で何かが脈打っている気がした。血ではない、熱でもない、もっと深いところで鳴る低い音。耳の奥の鼓動と、少しだけ拍がずれている。

昨夜、トロールを断ったときの感触が、指先に残っていた。剣が軽すぎた。あの重さは、Eランクの腕に馴染むものではない。

──気のせいだ。そう言い聞かせて、もう何年になる。

通気孔の外で、遠い馬蹄の音がした。三刻後に来るはずの査問官の馬車が、予定より早く、砦の外門を潜ろうとしていた。

アレンは、ゆっくりと目を開いた。

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