第2話
第2話
翼の音は、小屋の真上でいちど高く響き、それから、思いのほかあっさりと、東の尾根の向こうへ遠ざかっていった。
リーナはしゃがんだまま、自分の肩がいつの間にか小さく縮んでいたことに気づく。両の手のひらが、月白草の銀の光を庇うような形のまま空に浮いていた。苔のひんやりした湿り気が、指の甲にまだ残っている。風が一筋、耳の後ろを撫でて通り過ぎ、そのあとで木立の奥から小さな鳥の羽ばたきが三度だけ聞こえた。
「……行ってくれた」
声にしてみると、思ったよりも弱々しくて、誰に言い訳しているのだろうと自分で可笑しくなった。もう、この声を聞く者はいないはずなのに。
月白草は、何事もなかったように岩陰で呼吸していた。花弁の縁の震えも、今ならただ春の湿り気に揺らいでいるだけに見える。リーナは膝をそろそろと起こし、岩のそばに朽ちた板切れを立てかけて、通りすがりの目から銀の光をそっと覆い隠した。いま抜いてしまうには、心の支度がまだ追いつかない。
太陽はもう西の木立のあいだに半分沈み、林の奥から薄く青い夕暮れが流れ出してきている。小屋へ戻って竈の火を掻き起こそうとして、ふと、庭先の音に手が止まった。
かり、かり、と、湿った落ち葉を踏む音。それから、喉の奥で抑えきれずに漏れたような、甘えにも痛みにも似た、低い鳴き声。
戸口から首だけを出して覗くと、垣根の破れ目の向こう、夕闇の縁に、一匹の細い野犬がうずくまっていた。
灰色の毛並みは泥と乾いた血で固まり、右の後ろ足を地面につけようとするたび、体が斜めに傾いた。耳の先が欠け、脇腹に浅い切り傷が二、三本走っている。狼ではない。おそらく猟師に置き去りにされた猟犬の成れの果てだろう。琥珀色の目が、迷いながらリーナの長靴の先を見上げた。近づけば逃げ、離れれば縋りそうな、中途半端な距離のまま、尻尾だけがかすかに地面を掃いた。
リーナは戸口の敷居に腰を下ろし、両手を膝の上に置いた。立ち上がらない。近づかない。祈りの形に手を合わせない——前世でいつの間にか身についていたそれらを、今夜は一つずつ、自分の側からそっと降ろした。そうしてただ、犬の息が整うまで、同じ夕暮れを一緒に見た。木々の輪郭が溶け、空の端で雲の腹だけが橙に染まり、やがて色を失っていく。
「……お腹、空いてる?」
返事のかわりに、尻尾のつけ根が、ほんのわずかに揺れた。
棚の奥から、昼に包み直しておいた干し肉の切れ端と、麦粉を練っただけの堅いパンを出した。水は雨水の残りを素焼きの器に少しだけ注ぐ。器を手のひら一つぶんだけ犬に寄せ、自分はすぐに敷居まで下がる。犬は鼻先だけを伸ばして匂いを確かめ、しばらく迷ってから、顔を伏せるようにして食べた。噛むよりも、飲み込むに近い食べ方だった。食べ終えると、また元の距離まで下がり、垣根の内側で、片方だけの耳を忙しなく動かしながら身を丸めた。
リーナは土間に戻り、壁にかけた銅の薬研の前に立った。指が、無意識に教典の頁を繰る動きをする。第七章十二節——〈月白草、瀕死の獣に一匙、脈に銀を通さしむ〉。古い時代、戦で翼を裂かれた竜にこの草を煎じて飲ませ、一晩で立ち上がらせたという、たった一行。新人の頃に諳んじられるまで読まされた薬学書の挿絵が、目を閉じるとそのまま瞼の裏に浮かんだ。
あのときは、強い兵を取り戻すための薬だった。
「……でも、今夜は、違う」
呟きに、薬研の縁がかすかに鳴った気がした。
外へ出て、岩陰の板切れを外す。銀の光は、夕闇の底でまた静かに脈打っている。花の蕾をひとつ、葉を二枚。いちばん細い茎の節から、指先でゆっくりと折った。折ったそばから、月白草は残りの茎にそっと光を集め直し、分けた分を惜しむふうもなく、またまっすぐに立ち直る。そのさまを目にして、胸の奥で何かが、〈許される〉という言葉に似た温度を持った。
葉を薬研にかけると、鉄でも銅でもない、夜明けの空に似た青い匂いが、ふわりと立ちのぼった。粉末は挽くうちに銀から乳白に変わり、湯に落とすと、湯の表面にひと筋の光の道ができて、ゆっくり溶けていく。リーナは器の縁に息を吹きかけて湯気を散らし、人肌より少し温かい程度まで冷ました。それから垣根の内側に戻って、犬から二歩ほど離れた場所に、そっと器を置いた。
「ひとくちだけ、飲んでみて。苦くはないから」
犬は耳を伏せ、後ずさりしかけ、それでも鼻先が湯気の匂いに引き寄せられるのを止められなかった。舌先がためらいがちに湯へ触れ、一舐め、二舐め、それから、ゆっくり、ゆっくりと、器の底まで飲み干した。飲み終えると長く息を吐き、今度は前足のあいだに顎を乗せて、目を閉じた。
その夜、リーナは毛布を一枚肩から羽織って、土間と垣根のあいだに低い椅子を置いて座っていた。月は細く、雲に見え隠れしていて、あたりは銀よりも灰色に近い光で満たされている。犬の胸は、呼吸のたびに規則正しく上下した。ときおり、浅い眠りのなかで足先が宙を掻くように動いたが、そのたび、新しく湧いた温もりが下からそれを押さえつけるようにして、また静かに伸びていった。
リーナはほとんど眠らなかった。眠れなかったのではない。眠ってしまうのが惜しかったのだ。一つの命が、薬研で挽いた銀の粉から、自分の目の前でゆっくり立ち直っていく夜を、今生で何度経験できるのか分からない。前世では、結果だけが神殿の記録簿に残り、過程は常に次の患者のために捨てられていった。今夜は過程しかなかった。誰にも報告する必要のない、ただの、一晩。
やがて東の空が鉛色から白みへ変わり、木々の葉先が縁から明るくなっていく。朝霧が低く地を這い、小屋の庇のあたりで柔らかくほどけた。
犬は、目覚める少し前に、すこしだけ尻尾を動かした。それから、長いあくびを一つして、前足を揃え、ゆっくり立ち上がる。
右の後ろ足が、地面を、踏んだ。
リーナの喉で、何かが、短く鳴った。
泥で固まっていた灰色の毛は、夜のあいだにどこかで濯がれたように艶を取り戻し、脇腹の切り傷は薄い桃色の新しい皮に変わっていた。耳の欠けだけは、そのまま残っている——それは、古い時間の記憶までは消さない、というこの草の律儀さのようにも思えた。犬は四つ足でしっかり地を踏み、一度、二度、その場で軽く踏み変えるようにして、自分の足が確かに自分のものであることを確かめた。
そして、垣根の内側をまっすぐに、リーナのもとへ歩いてきた。
怖くはなかった。犬は敷居の前で一度だけ立ち止まり、鼻先をリーナの膝の上に、ほんの触れる程度に押し当てた。湿った、温かい鼻だった。琥珀色の目が、まっすぐにリーナを見た。礼を言う目ではなかった。ただ、お前を覚えた、という目だった。
それから犬は、ゆっくりと身をひるがえし、垣根の破れ目を抜けて、朝霧の向こうへ歩いていった。振り返らなかった。リーナも、呼び止めなかった。振り返らないこと、呼び止めないこと——そのどちらにも、もう祈りの作法は要らなかった。
犬の灰色の背が霧に溶けきるのを見届けてから、リーナはようやく大きく息を吐いた。そして、自分の膝の上に、犬の鼻先の湿りがまだ小さく残っているのに気づき、そこを手のひらでそっと覆った。
「……私、まだ、何かを治せるんだ」
涙は出なかった。昨日よりもっと手前の、穏やかな場所で、心が小さく震えていた。
立ち上がると、膝の関節が、昨日ほど木のようには軋まなかった。朝の空気が、昨日より一段深く、胸の底まで入ってくる。裏の畑を、一坪だけでなく二坪にしよう、と思った。自分のためのカブと、もしまた誰かが通りかかったら、そのための麦粉と。
鍬を取りに土間へ戻ろうとして、
——森の奥で、また、あの音がした。
昨日より、近い。
翼の音は一つではなかった。重く、規則正しく、二対か、三対か——大きなものが、低く、森の梢すれすれに飛んでいる。そのあいだを縫うように、地を蹴る蹄の足音が、湿った土の上をこちらへ進んでくる。前世で何度も戦場の空に聞いた羽音と、神殿の馬場で覚えのある蹄の響き。二つが、同じ方向に、そろってこの小屋へ近づいてくる。
リーナは鍬を握りかけた手に、一瞬だけ力を込めた。それから、その手をそっと緩める。祈らない、と決めた朝だった。逃げない、とはまだ、決めていない。
岩陰の月白草のほうへ、視線だけを一度送る。板切れの陰で、銀の光が、昨日よりもほんの少しだけ明るく、こちらに応えるように脈打った気がした。
リーナは鍬を土間の柱に立てかけ、泥で汚れた前掛けを手早く直して、垣根の破れ目のほうへ、一歩、踏み出した。
朝霧のいちばん深い場所から、黒く大きな影が、ひとつ、輪郭を帯びはじめていた。