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大聖女やめました、辺境の薬草畑で

第3話 第3話

第3話

第3話

朝霧の向こうから現れた黒い影は、思っていたよりも、ずっと、ゆっくりと進んできた。

翼の音は、もう上空にはなかった。羽ばたきは一度、二度、力なく空気を押したあとで、重いものを地に下ろす気配に変わっている。蹄の音は一頭ぶんだけ。それが、霧の帳を割って、小屋の手前、垣根の外の草地でぴたりと止まった。

リーナは垣根の破れ目に手をかけたまま、迂闊に駆け寄らない程度の距離で、相手の輪郭が朝霧のなかから剥がれてくるのを待った。掌に触れる枝は露で濡れ、冷たさが袖口まで這い上がってくる。自分の心臓の音が、耳のすぐ裏で鳴っている。その鼓動を、いつものように数えて落ち着かせることはしなかった。落ち着かせる必要が、今朝は、まだ、わからなかったからだ。

最初に目に入ったのは、黒い鎧の肩だった。次に、銀を冷やしたような髪と、それを汗で濡らしたまま掻き上げる手。若い。自分より、一つか二つ、年が上くらいだろうか。黒い騎士は、馬の手綱を片手に握ったまま、もう片方の腕で、自分の肩よりずっと大きなものを支えていた。支える、というより、もう自分の重心の半分を、そちらに預けてしまっているように見えた。

竜だった。

仔竜ではない。けれど、成竜と呼ぶには、まだ肩の骨の張りが少し足りない、若い竜。濡れた鱗は本来ならば深い藍色だろうに、今は夜明け前の泥のような色に沈んでいる。右の翼が、関節の一つ下で嫌な角度に折れ、その翼の付け根から、細く黒い筋のような瘴気が、夜の川のようにゆっくり流れ出していた。流れる先は、竜自身の脇腹の鱗を、一枚ずつ、内側から曇らせていくようだった。

騎士は、竜の首のすぐ下に頬を寄せ、自分の呼吸の速さで竜の鼻先を温めようとしていた。汗と土と、竜の血の鉄の匂いが、朝霧に混じってここまで届く。血の匂いは古いものと新しいものが混ざって、ひと晩ぶんの距離を、そのまま連れてきていた。

「……頼む」

擦れた声だった。命令ではなく、祈りに似た形をしていた。喉の奥で、何度も何度も、言葉にならないまま練られていたものが、ようやく外に出てきた——そういう擦れ方だった。

「家の者か。誰でもいい。火があるのを、見た。煎じられる器があれば、水があれば、なんでもいい」

リーナはまだ、垣根の内側から動かなかった。

「この子の、熱が、下がらない。もう三刻、翼に光が戻らない」

若い騎士が、はじめてこちらを見た。銀の睫毛の奥の瞳は、夜明けの薄青で、その奥で、疲れが薄い膜になって張っていた。リーナの顔を見ても、彼は一度も、驚かなかった。見知らぬ娘が朽ちた小屋にいること、それ自体は、彼の視野の外だった。彼が見ていたのは、煙の筋と、湯気のにおいと、ただ、それだけだ。——その眼差しに、リーナは、自分が長いあいだ忘れていた種類の安堵を、ひとつ、胸の奥でそっと拾い上げた。自分が「誰であるか」を、見られていない朝。それは、前世の十八年のあいだ、一度も、なかった朝だった。

リーナは、自分の喉の奥で、古い癖が一度だけ鎌首をもたげるのを聞いた。〈両手を差し出して、聖印を切って、低くまっすぐ呼吸しなさい〉——神殿の詠唱教育が、骨まで染みていた。ふっと息を吐いて、その癖を、もう一度、自分の側へ引き戻す。引き戻した拍子に、奥歯がかすかに鳴った。

「……水と、薬研と、火は、あります」

聞こえるだろうか、というくらいの小さな声だった。それでも、騎士の肩が、ほんの少し、跳ねるように下がった。張り詰めていた弓の弦が、半分だけ緩むような、そういう下がり方だった。

「竜を、垣根の内側に入れられますか。無理なら、私が湯を、そちらに運びます」

騎士はうなずいた。うなずきながら、瞳の奥の薄い膜が、一度だけ、ちゃんと剥がれてこちらを見た。

「——ヴァイス、という。北方竜騎士団、副隊長。相棒は、リュート。この子の名だ」

名乗られても、名乗り返さない、と決めた朝だった。リーナは、一度だけ頭を下げた。

「戸口まで、お連れください。朽ちた庇ですけれど、霧は凌げます」

竜は、敷居の手前で長い首をゆっくりと折り畳み、半身だけを庇の下に滑り込ませた。鱗の冷たさが、小屋の土間までひんやり届く。ヴァイスは鎧の手甲を外し、濡れた布を竜の鼻筋に当て直しながら、リーナの手元を、見ないようにして、見ていた。手甲を外した指先は、爪の際まで泥と血でくすみ、それでも布を当てる動きだけは、ひどく慎重だった。重い鉄を振る手が、こんなに柔らかい触れ方も覚えているのか、とリーナは、ほんの一瞬、視線の端でそれを受け取った。

リーナは、竈の火を掻き起こした。昨夜、犬のために残しておいた熾に、細い枯れ枝を足す。湯が沸くまでのあいだ、外に出て、岩陰の板切れをずらした。月白草は、昨日よりわずかに背が伸び、三輪のうちの真ん中の花が、今朝はいちばん強く銀に脈を打っていた。脈は、リーナの指が近づくと、ほんのひと呼吸だけ、速くなった——ように感じた。気のせいかもしれない。気のせいでないのかもしれない。今朝の自分には、どちらでも、よかった。

分けた分を惜しむふうもなく、またまっすぐに立ち直る草——その佇まいを一瞥して、リーナは、葉を一枚、花を半分、昨夜より少しだけ多めに、指先でそっと折った。折った茎の切り口に、銀の雫がひと粒だけ浮かんで、苔にぽとりと落ちた。

「ごめんね。今日もまた、分けてもらう」

草は答えない。けれど、返事のかわりに、葉先の霜がひとつ、風もないのに、こぼれるように地に落ちた。

薬研に葉をかけると、夜明けの空の匂いが、もう一度土間に立ちのぼった。ヴァイスが、竜の首に額を押し当てたまま、その匂いのほうへ、顔の向きだけをわずかに傾けた。粉末は挽くうちに銀から乳白に変わり、湯に落とすと、湯の表面にひと筋の光の道が走って、ゆっくり溶けていく。湯気が、朝の冷えた土間に、青く細く立ちのぼった。石臼の底で葉脈がほどける小さな音、湯が土鍋の縁を舐める音、竜の浅い呼吸の音——三つの音が、土間のなかで、ひとつの拍子になっていくのを、リーナは耳の奥で聞いていた。

リーナは器の縁に息を吹きかけて、人肌より少し温かい程度まで冷ました。両の手のひらで包むと、指の先までじんわりと温度が伝わる。前世では、この温度を確かめるより先に、詠唱の声を張り上げていた。今朝は、声を張らない。聖印も、切らない。張らないでいるだけで、両の手のひらに、湯の温度が、こんなにも正直に返ってくるのかと、少しだけ、驚いていた。

敷居をまたぎ、ヴァイスの斜め前、竜の鼻先から二歩ほどの場所に、ゆっくり膝をついた。

「……これを、一杯だけ、飲ませてあげてください」

ヴァイスは、器を受け取る前に、一度だけ、訊いた。

「毒では、ないのだな」

「毒ではありません」

「効能を、訊いてもいいか」

リーナは、自分の膝の上に置いた空いた両手を、ほんの少しだけ、握った。

「古い時代から、瀕死の獣に一匙、と伝わっている薬草を煎じました。……それだけ、です」

〈大聖女の癒し〉とは、言わなかった。〈奇跡〉とも、〈神の恵み〉とも。言えば、神殿に届く。神殿に届けば、今日の朝は、今日で終わる。

ヴァイスは、リーナの瞳の奥を、ほんの一瞬だけ見つめた。その視線は、身分を検めるものではなく、ただ、嘘かどうかだけを確かめる、騎士の視線だった。やがて彼は、ゆっくりと頷き、両手で器を受け取った。器を受け取る指は、まだ少し震えていた。熱のせいか、疲れのせいか、それとも、ここまで辿り着けた安堵のせいか——リーナには、どれとも判じられなかった。

「名を、聞かせてもらっても」

竜の口に湯気を寄せながら、低い声が落ちた。

リーナは、一拍だけ、迷った。迷ったあとで、前世の聖名ではなく、神殿が付けたあの長い称号でもなく、いちばん短い、いちばん古い、自分の名前だけを、口にした。

「……リーナ、です」

「リーナ」

彼は、名を、ただそのまま繰り返した。称号もつけず、様もつけず。二音の、軽い、何も背負わされていないその響きを、リーナは、自分の耳で初めて、他人の口から受け取ったような気がした。風が一筋、庇の下を抜けて、青い薬湯の湯気を、竜の鼻先へ、静かに運んだ。

竜の長い舌が、ためらいがちに、器の縁に触れた。一舐め、二舐め。銀の雫が、ゆっくりと、喉の奥へと落ちていく。

ヴァイスは、息を、止めている。リーナも、いつの間にか、息を止めていた。

庇の外では、朝霧が、少しずつ、白さを増していく。折れた翼の付け根から流れ出ていた黒い筋が、湯を一杯飲み終えたころ、ほんのひと筋だけ、細くなった——ように、見えた。

ヴァイスが、空になった器を両手で捧げ持ったまま、小さく息を吐いた。

「……夜明けを、ここで待たせてもらっても、いいだろうか」

リーナは、頷いた。

頷いてから、自分の膝の上で、指先がほんのわずかに震えていることに気づいた。怖いのではなかった。ただ、朝日が竜の翼に差す瞬間を、今年の春、この小屋の庇の下で見ることになるなど、昨日の自分には、一文字も、書けなかった。

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