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大聖女やめました、辺境の薬草畑で

第1話 第1話

第1話

第1話

朽ちかけた庇から落ちた水滴が、しゃがみ込んだリーナの指の甲で冷たく跳ねた。

苔の匂いがする。湿った石と、若い葉と、軒下のどこかでひっそり咲いている名も知らぬ花の匂い。前世で最後に嗅いだ、鉄と火薬と濡れた包帯の匂いではなかった。

「……ほんとうに、ここでいいんだ」

声に出して、自分の喉に響かせてみる。詠唱の癖がついた喉は、祈りでない言葉を口にするとどこか頼りなく揺れた。それでもいい。揺れていいから、もう祈りでない言葉だけで一日を満たしたい。

リーナは膝をつき、足元の土に指先を埋めた。指の腹が三寸ほど沈んだところで、湿った冷えとその奥に眠っていた温かさが指先にぶつかる。耕されないまま長く眠っていた土の手触りだった。前世で最後にこの感触を知ったのはいつだろう、と考えかけて、すぐに考えるのをやめた。十二で神殿に拾われ、十八で大聖女と呼ばれ、二十四で前線に立ち、三十一で力尽きた——その年表を、今日からは持ち歩かないと決めたのだ。

朝の光が、傾いだ屋根の隙間から斜めに差し込んでいる。光の道の中で、埃の粒がゆっくり浮き沈みしていた。庭の方から雀の声がして、それから、また静かになる。誰かに名を呼ばれることのない静けさが、まだ少しだけ怖い。それでも、この朝は誰のためでもなく、私のためにあるのだと、リーナは口の中で噛みしめた。

立ち上がると、膝の関節が乾いた木のように軋んだ。前世の身体は二十代でとうに摩耗していたが、この身体はまだ二十歳になるかどうかという軽さで、痛みのないことが奇妙に懐かしい。指先で頬に触れると、火傷の痕も、聖水で爛れた痣もない。代わりに頬骨の上にあるのは、薄い春の冷たさだけだった。

小屋の戸は半分外れたまま、蝶番が一本だけ残ってかろうじて柱にぶら下がっている。中に入ると、土間の隅にひびの入った竈、棚に欠けた素焼きの鉢が三つ、片隅に煤けた銅の薬研。

「……薬研があるんだ」

思わず笑ってしまった。前世の神殿の地下でも、こんな型の薬研を使ったことがある。違うのは、あの薬研で挽いた粉末が一晩で千人分の鎮痛薬になり、それでもなお足りないと祭壇の前で叱られたことくらいだ。今日からこの薬研で挽くものは、自分が飲む一杯のお茶でいい。それだけで、心臓の奥にあった硬い小石が、ふっと一つ転がり落ちた気がした。

竈の灰を掻き出し、戸の外の薪小屋から枯れ枝を一抱え運んでくる。火打ち石の火花が三度目でようやく藁に移り、細い煙が立ちのぼった。煙は天井の隙間に吸い込まれ、外へ抜けていく。誰かに見つけてもらわなくていい煙だった。

水瓶の底に少し残っていた雨水を鍋に空け、湯を沸かす。湯の表面に現れる細かい泡を、リーナは飽きずに眺めた。前世では、湯がたぎる前に駆け出さなければならない朝が多すぎた。

棚の奥から、誰かが置き忘れた乾いたミントらしき葉が出てきた。指で揉むと、鼻の奥に青い香りが抜ける。前世の薬学書で〈ピルスミント〉と呼ばれていた、平凡だけれど確かな葉。煮出して茶にすれば、寝過ごした朝の頭をやさしくほどいてくれる。注いだ素焼きのカップを両手で包むと、指先まで温度が伝わってきた。一口含む。舌の奥に苦みが、それから、思いがけない甘みが、静かに広がった。

「……おいしい」

誰にも報告しない感想だった。だからこそ、本当の味がした。

茶を飲み終えて外へ出ると、日はもう小屋の屋根よりずいぶん高くなっていた。前世なら祭服の襟を直し、聖印を確かめ、第一礼拝の始まりに駆け込んでいる時間だ。今日はかわりに、欠けた鉄鍬を一本、土間の柱から引き抜いて担いだ。柄の木目に手のひらの汗が馴染むまで、ほんの数歩で済んだ。

裏庭は、長らく人の手を離れていたらしく、伸び放題の野草とイバラに覆われていた。それでも、根を広げきる前のうちに刈っておけば、夏までには南向きの一画だけでも畑にできるだろう、と目で測る。一坪ぶん。それだけで自分一人なら足りる。一坪ぶんの春菊と、一坪ぶんのカブと、それから——

「……あれ、何」

足が止まった。

裏庭の奥、北側のひんやりとした日陰に、ひと抱えほどの古い岩がうずくまっている。岩の表面には地衣類が幾重にも層を成し、長い年月のあいだ誰の目にも留まらず、ただそこに在り続けてきたらしい風格があった。その岩の根元、苔がいちばん厚く張り付いた窪みに、薄い銀の光がにじんでいた。陽の角度が変わるたび、光は呼吸するようにふくらんだり縮んだりする。

最初は、雨上がりの水滴が日を反射しているだけかと思った。けれど、銀の光は水のように流れず、むしろゆっくりと一点に留まり、内側からじわりと脈打っていた。光そのものが、生き物のように息をしている。

リーナは鍬を地面に置き、ゆっくりと近づいた。息を、止める。鍬が土に倒れた音さえ、その光の前では憚られた。一歩、また一歩。長靴の底が湿った苔を踏むたび、足裏から伝わる柔らかさが、現実とそうでないものの境を曖昧にしていく。岩に近づくほど、空気が一段ひんやりと締まり、肌の産毛がそよいだ。

七、八寸ほどの細い茎の先に、五枚の葉と、三輪の小さな花。葉の縁は霜のように白く、花弁は内側だけが銀色に光っている。土の中の湿り気を吸い上げて、まるで地下の星を地表に咲かせたような佇まいだった。

茎は細いのに、揺るぎなく直立していた。葉脈は人の血管に似た網目を描き、その奥でかすかに光が脈打っている。花の中心には金の蕊が三本、まるで小さな炎のように立っていた。風がないのに、花弁の縁だけが、ほんのわずかに震えている。

——〈月白草〉。

前世の薬学書、第七章十二節の挿絵を、リーナはまだ覚えていた。古い時代に瀕死の竜を一晩で立ち上がらせたという、伝説の霊薬草。自生地は失われ、神殿の温室にすら一本も残っていない。三百年以上、文献の中だけで生き延びてきた草。

教典の余白に、かつての写本師が震える筆で書き残した一節が脳裏をよぎる。「月白草、見し者は世を知らず、知る者は二度と見ず」——出会えたなら、それは祝福か、あるいは呪いか。どちらでもいい。今のリーナには、ただ目の前にこの花があるという事実だけが、信じがたく、けれど確かだった。

——それが、私の借りた小屋の、裏庭の、岩陰に、ひっそり生えている。

膝が、勝手に折れた。指先で、葉に触れる。冷たい。指の腹に小さな霜が降りる感触がして、けれど痛みはない。生きている、と確かに分かる微かな脈動が、葉脈の奥から伝わってきた。それは前世で何千回と握った祭壇の聖石より、ずっと素直で、ずっと正直な命の音だった。鼓動と鼓動のあいだに、リーナ自身の呼吸の音が、初めて聞こえた気がした。

笑い出しそうになって、慌てて口元を押さえた。それから、目の奥が、急に熱くなった。涙が一粒、頬を滑り落ち、苔の上にぽとりと落ちる。その雫を吸って、苔がほんの少し色を濃くした気がした。

前世のリーナなら、たぶんこの瞬間に思っただろう。神殿に持ち帰れば、これを使って何百人を救える、と。けれど今の私は、しゃがんだまま、ただこの草に話しかけたかった。

「……勝手に、ここにいてくれて、ありがとう」

声は、揺れた。揺れていいと、もう知っていた。

風はないはずだった。それなのに、月白草の銀の光だけが、ふっと一度、強くまたたいた。まるで、誰かに呼ばれたかのように。あるいは、こちらの声に応えるかのように。

リーナは摘もうと伸ばしかけた手を引いた。今日は、この草と一緒にもう少しだけ春の日向にいたい。そう決めて、土に膝をついたまま、両手をそっと膝に揃えたとき、

——森の奥で、低い、空気を切る羽音がした。

重く、規則正しく、ゆっくりと近づいてくる。地を踏む足音より、ずっと高い場所から響く翼の音。前世で何度も、戦場の空にそれを聞いたことがある。背筋の奥が、覚えのある冷たさで一瞬だけ強張った。

リーナは銀の花をそっと背に庇い、森の奥へ視線を向けた。土の匂いの向こうで、何か大きなものが、こちらへ降りてこようとしていた。

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