第2話
第2話
受付の女は、グレンが差し出した羊皮紙を指先で押し返した。
「高等級依頼は、現段階ではお受けいただけません」
声に抑揚はない。だが、目の奥には僅かな同情めいたものが覗いた。この手の無等級の傭兵崩れを、彼女が幾度となく同じ台詞で押し返してきたからだろう。女の指が、板の隅から別の紙を抜き取って差し出す。
「ですが持ち込み依頼として保留は可能です。規定上、戊等級の実績が一件あれば、受注資格が発生します。——カルディア南郊、角兎の間引き。五頭。金貨三枚」
グレンは無言で受け取った。額も依頼内容も、どうでもよかった。無等級という鎖を外すための手順だ。十五年の戦歴は海に捨てた紙屑と同じく、ここでは何の重みも持たない。ただ、羊皮紙の端を指で折る感触だけが、旧大陸でも新大陸でも変わらずそこにあった。
ギルドを出て、南門へ向かう。門衛に登録証を提示すると、男は灰色の目を細めて短く言った。
「無等級で単独か。角兎は群れで跳ねかかってくる。侮るな」
「心得ておく」
石畳を外れ、草地の踏み分け道へ足を踏み入れる。空には灰の薄雲が広がっていた。時折落ちる陽光が、草地を斑に染めている。風には、やはりあの奇妙な甘さが混じっていた。旧大陸のどの土地にもなかった、蜜と鉄の入り混じった匂い。指先に触れた草の葉は、旧大陸のそれよりほんの僅かに硬く、噛み潰せば金属質の苦味が走りそうな気配があった。
角兎の群れは、半刻と経たずに見つかった。
草地の窪地、膝ほどの丈の雑草に埋もれるようにして、七、八頭が蹲っている。耳の代わりに額から一対の捻れた角を生やし、背には鈍い灰色の毛並み。角の先端は黒く、磨き上げた鉱石のような光沢を帯びていた。旧大陸の獣の図鑑では、そのどの頁にも載ってはいない。
グレンは腰の剣を抜いた。鞘走りの音に、群れが弾かれたように跳ねる。一頭が真っ直ぐに飛びかかってきた。跳躍の軌道は直線——戦場で見た矢の弾道に似ている。グレンは半歩だけ体を捌き、剣の腹で角を逸らしざま、返す刃で首筋を断った。角を受け止めた瞬間、手首に伝わった衝撃は奇妙に重い。骨ではなく、鉱石を叩いた手応えだった。柄を握る掌に、冷えた火花のような痺れが這い上がる。獣を断った手応えではない。鉱脈に鑿を打ち込んだ職人が、帰り道まで指先に引きずる残響——そういう類の振動だった。
二頭目が側面から。三頭目は背後から迫る気配。グレンは一拍で振り向き、身を低く沈めたまま剣を薙いだ。二頭が同時に胴を裂かれ、地に転がる。四頭目は脚を刈り、倒れ伏したところに切っ先を落とした。残りは逃げ散るように草地の奥へ消える。
五頭。依頼の数は満たした。
剣を振って血を払い、最初に斬った一頭の前にグレンは屈んだ。そこで、初めて異変に気づいた。
首を断った断面から、血が流れていない。
代わりに、毛並みの下で鈍い光が点っていた。淡い紫色——港で見たあの鉱石と同じ色調だ。光は傷口から内側へ広がっていき、毛と肉が結晶の光沢に置き換わってゆく。微かな軋みが耳に届いた。薪が爆ぜる寸前に似た乾いた音の粒が、毛並みの下で幾重にも重なり合い、やがて鉱物特有の澄んだ余韻へと変わってゆく。角から始まった硬化は数拍のうちに全身に及び、兎の骸は拳大の結晶の塊へと変じた。
グレンは手の中の結晶を持ち上げた。重い。生き物の骸だったとは思えぬ密度で、掌に微かな熱が伝わってくる。
「おい、旦那。それ、持ち帰るのか」
振り返ると、小柄な若者が草地の縁に立っていた。革の採集袋を肩から提げ、腰の帯には短い鉈を差している。冒険者というより、素材採りを生業にしている類の男だ。
「……生き物が、石になるか」
呟くように言うと、若者は呆れたように笑った。
「旦那、旧大陸から来たばかりだな。こっちじゃ当たり前だよ。魔獣は死ぬと魔素が結晶に凝る。そいつは角兎だから、核は魔鉱石になる。ギルドに持ち込めば討伐の証にもなるし、買い取りもつく」
「魔素」
「大陸中に流れてる、魂みてえなやつさ。この大陸の獣は皆それを腹に溜めて生きてる。溜めた分が、死に際に形を変えるってわけだ」
若者はそう言って、地面に転がる残りの結晶を指差した。グレンは無言で頷き、結晶を革袋に収めた。
旧大陸で戦ってきた獣は、死ねば肉と骨を残した。解体し、売り、糧にした。この大陸の獣は、死の様式からすでに違う。——常識が食い違っているのは、街の規模や冒険者の顔ぶれではない。その底にある、生と死の骨組みそのものが、別物なのだ。
剣の柄に残る、角を逸らした際の微かな手応え。それだけが、旧大陸から持ち越した唯一の重みだった。
日が傾く頃、グレンはカルディアに戻った。
結晶五つをギルド受付に差し出すと、女はわずかに目を見開いた。金貨三枚の他に、魔鉱石の買取代金として銀貨が数枚追加される。
「——戊等級への昇格を申請します。初回実績としては上々です」
木製の登録証に、新たに「戊」の刻印が押された。それだけだった。女は次の依頼書を示そうとはせず、グレンも訊ねなかった。あの北東密林の張り紙は、胸元の内懐にまだ折り畳まれたまま入っている。
ギルドの一階酒場に腰を下ろした。黒パンと、塩漬けの豚肉と、根菜を煮込んだ粥のような一皿。酒は麦の匂いが勝つ安物だが、長い航海と戦闘の後には十分だった。
近くの卓では、三人の冒険者が声を落として話し込んでいた。革鎧の男、杖を立て掛けた若い術師、頬に細い傷の走った女剣士。酒杯を重ねるより、話すことの方に熱が入っている様子だった。
「——だから、もう三組目なんだよ。帰ってこねえのは」
革鎧の男が低い声で呟いた。
「ヴェルトの隊も、先月マルグの組も、今度のリーネたちの班も。全部、北東の方角だ」
「リーネって、治癒術師のか。あの子、まだ若かっただろうに」
女剣士が眉を寄せる。
「十日前に出て、それきりだ。ギルドは何も動かねえ。表向きは『行方不明』ってだけで、捜索の指令も出ちゃいねえ」
「それで、依頼板の一番上にあの羊皮紙ってわけだ」
術師の若者が皮肉を滲ませた。
「『北東密林地帯・実地調査』。報酬は金貨五十枚。単独可。——消えた三組を拾ってくりゃ、それも込みの値段だってこったろう。表立って捜索を出せねえから、調査の名目で釣ってる」
グレンの手が、酒杯の上で止まった。胸元の羊皮紙が、微かに重みを増した気がした。
「誰が受けるってんだ、あんなもん」
革鎧の男が吐き捨てる。
「三組が消えた密林に、一人で踏み込める馬鹿はいねえ。あの依頼は受け手がつかんまま、そのうち剥がされて終わる。ギルドもそれを分かっててやってる」
会話はそこで途切れ、三人は黙って酒を呷った。油灯の芯がぱちりと爆ぜ、三人の卓に落ちた沈黙を一瞬だけ揺らす。グレンは残りの粥を食い終え、卓に銅貨を置いて立ち上がる。酒場の油灯の光が、石壁に己の影を長く伸ばしていた。
宿屋の狭い一室で、グレンは羊皮紙を卓に広げた。
獣脂の灯りが、黒い墨の走り書きを照らす。『※当該地域にて探索者三名が帰還せず。関連性は不明』——その一行が、いまや別の意味を帯びて見えた。関連性は不明ではない。ギルドは知っている。知っていて、それを一枚の張り紙に押し込めた。
十五年、報酬のために戦場を渡り歩いた。見知らぬ誰かの命を拾うために剣を抜いたことは、一度もない。今さら始める理由は、何もないはずだった。
だが、胸の奥で何かが脈打っていた。
名も知らぬ治癒術師や罠師や斥候——彼らの顔をグレンは知らない。ただ、密林の底に何かがあり、それが三組の冒険者を呑み込んだという事実だけが、指先を微かに疼かせる。指先の疼きは、十五年前に初めて人を斬った夜の微熱と、どこか似通っていた。旧大陸では、敗けた戦場に屍を置いてきた。此度は、生きているやもしれぬ誰かが、まだそこに残っている。
グレンは羊皮紙を畳み、再び内懐に戻した。灯りを吹き消す。窓の外で、港から吹き上げる風が新大陸の奥へと渡っていく音が聞こえた。
明朝、あの依頼を正式に受ける。決めたのは、金のためでも義のためでもない。十五年の戦で摩耗しきった己の内側に、まだ僅かに残っていた何か——その輪郭を、密林の底で確かめたかった。