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地脈を継ぐ者

第3話 第3話

第3話

第3話

翌朝、霧の晴れぬうちにグレンはギルドの扉を押し開けた。

 受付の女は昨夜と同じ無表情で、差し出された羊皮紙に目を落とした。戊等級の刻印を確認し、依頼台帳を捲り、短く頷く。

「単独受注で、よろしいのですね」

「頼む」

 女の指が羊皮紙の端を撫でた。その指先が僅かに止まったのを、グレンは見逃さなかった。受付の向こうで書類を整えていた初老の男が、顔を上げてこちらを見た。ギルドの長とおぼしき、銀髪を後ろに束ねた男だった。男は何か言いかけて、口を噤んだ。かわりに、受付の女が低く告げた。

「北東密林の入口までは街道を半日。入口からは道が途絶えます。目印は、三又に裂けた古木。そこから先は——あなたの判断です」

「前の三組は、どこまで辿ったか記録はあるか」

「入口で、途絶えております」

 女の目が初めて、僅かに伏せられた。

「つまり、誰も戻っていない」

 グレンは短く頷き、受領印を押された羊皮紙を内懐に収めた。背の剣の重みを改めて確かめ、扉を押して外へ出る。潮の甘さが、今朝はひどく遠かった。

 南門ではなく東門を抜け、石畳の尽きる地点で街道へ踏み出す。両脇に広がるのは、一昨日の草地とは別種の植生だった。丈の高い羊歯が不揃いに茂り、葉の先端には露ではない粘液がまとわりついている。指でそれに触れれば、淡い紫色の光が数拍のあいだ葉脈を辿って走り、やがて消えた。旧大陸の植物は、こうは光らない。

 半日を歩き、陽が傾きかける頃、前方の森が視界を塞いだ。

 三又に裂けた古木——たしかにそれはあった。幹の裂け目は人の背丈の三倍に達し、裂け目の奥が黒く陰っている。古木の根元に、朽ちかけた立札が打ち込まれていた。墨はすでに薄れ、ただ一言だけが辛うじて読み取れる。

『立入、自己責任ニ於テ』

 グレンは古木を迂回し、森の懐へ足を踏み入れた。

 密林の空気は、一歩で様相を変えた。

 陽光は頭上の樹冠に幾重にも濾され、地表まで届く頃には青みがかった薄明へと変じていた。踏みしめる腐葉土は湿り、足音を奇妙に飲み込んでいく。旧大陸の森ならば、まず耳につくのは鳥の鳴き声だ。枝を渡る小動物の気配、遠くの獣の咆哮。——だが、ここには何もなかった。

 音がない。

 正確に言えば、木々の葉擦れの音はある。風が枝を揺らす音はある。だが、生き物の気配だけが、ごっそりと抜け落ちていた。獣の足跡一つ、糞の一粒、羽毛の断片すらも落ちていない。獣道というものが、そもそも存在しない。

 森の方で、獣が絶えたのではない。獣の側が、この森を避けているのだ。

 懐から方位磁針を取り出し、掌に乗せた。

 針は北を指していた。——五拍ほど前までは。グレンが掌を傾けた途端、針は痙攣するように震え、右へ左へと彷徨い始めた。指で軸を叩き、水平に置き直す。針は一度だけ北を指し、次の瞬間にはまた別の方角を示した。東。南。北西。己の背後。そして、前方の奥。

 針の震え方には、弱い偏りがあった。森の奥へ向けるほど、針先がそちらへ惹かれていく。

 グレンは磁針を懐に戻した。代わりに、腰帯から細い麻紐を取り出し、一方の端を古木の幹に結びつける。帰路のための命綱だった。旧大陸の迷路戦で覚えた習慣だ。もっとも——結び終えた瞬間、グレンは己の動作の意味を噛み潰した。命綱を引く必要があるということは、引いて戻ってこられる範囲にしか踏み込めぬということだ。その範囲の外に何かがあるとすれば、麻紐の限界は、そのまま己の限界でもある。

 それでも結んだ。

 一歩、また一歩と、青い薄明の奥へ進む。

 羊歯の群生を抜けた先に、樹皮が異様に白い木々の回廊があった。白い——ではなく、皮が剥げ落ちて肉色の内側を晒している、というのが正しかった。剥落した皮の破片が地面に散乱し、それらは歩を進めるたびに、陶器を割ったような乾いた音を立てた。肉色の幹に指を這わせれば、樹液ではなく、微かに鉱石の冷たさが返ってくる。森は、芯の方から石になりかけているのだ。

 回廊の中ほどで、グレンの足が止まった。

 地面に、革の切れ端が落ちていた。

 屈んで拾い上げる。鞣し具合も、縫い目の跡も、明らかにカルディアの革職人の仕事だった。切れ端の縁は新しいものではない。少なくとも数日、雨風に晒されている。その少し先に、折れた矢柄。さらにその奥に、金属の留め具——治癒術師が小瓶を吊るすのに使う、特徴的な形状の金具だった。

 三組の探索者の、いずれかの残留物。

 血の痕はなかった。争った形跡もない。ただ、所持品だけが、軌跡のように点々と森の奥へ続いていた。拾われるでもなく、失われるでもなく、そこに置かれているように。——誰かが、歩きながら、一つずつ落としていったかのように。

 あるいは、置かされていったのかもしれない。

 グレンは剣の柄に手を掛けた。足裏の感覚を研ぎ澄ます。旧大陸の戦場で、敵の伏兵を嗅ぎ分けてきた勘だ。だが、森は沈黙している。殺気も、敵意も、気配そのものがない。あるのは、森全体がこちらを見下ろしている、というひとつの圧のみだった。

 磁針の指す方角——最も強く惹かれていた、前方の奥——へ、もう一歩を踏み出した。

 踏み出した足が、何処にも着地しなかった。

 腐葉土の下で、乾いた破砕音が響いた。薪を踏み折る音を、百倍に引き伸ばしたような。グレンは咄嗟に身を後ろへ投げ出したが、重力はそれより早く彼の背を掴んだ。視界が横へ倒れ、空が樹冠の緑へ、緑が黒へと反転する。

 落下。

 一拍、二拍、三拍——意外なほど長い。旧大陸の井戸ならば、とうに底を打っている頃合いだった。

 衝撃。

 背中から叩きつけられたが、腐葉土ではなく、硬い石の床だった。肺から空気が一瞬で吐き出され、視界の縁に赤い火花が散る。倒れたまま、グレンは数拍だけ動かなかった。肋骨の古傷が鈍く吠えたが、折れてはいない。首も動く。腕も動く。

 起き上がりざまに、まず頭上を仰いだ。

 遥か上方——人の背丈の二十倍はあろうかという高さに、落下口が開いていた。縁から千切れた樹根が垂れ下がり、青い薄明がそこだけ細く差し込んでいる。降りてきた命綱の麻紐は、途中で千切れ、石の床の上に蛇のようにとぐろを巻いていた。

 自力で登るのは、不可能だ。

 グレンはゆっくりと立ち上がった。全身の関節を順に確かめ、剣の鞘に異常がないことを検める。落下衝撃を抜いた後、ようやく、己が「どこに」落ちたのかに意識が向いた。

 広い。

 恐ろしく広い、地下空間だった。

 落下口から差し込む細い光だけが光源のはずだった。だが、空間そのものが、微かに青い燐光を帯びていた。光源は床——正確には床の継ぎ目、そして壁面だった。

 床が、石だった。

 それも、自然の岩盤を砕いただけのものではない。四角く切り出され、継ぎ目を合わせ、磨かれた——敷石だった。均質な大きさの石が規則的に並び、継ぎ目の細い線がどこまでも奥へ続いている。空洞の端に目を凝らせば、壁面もまた、一様な石材で組まれていた。等間隔に並んだ太い石柱が、天井の闇をどこまで受け止めているのか、数拍見上げただけでは数え切れぬほどあった。

 グレンは剣を抜いた。

 鯉口を切る金属音が、地下空間に反響して幾重にも木霊した。反響の返りが、空間の広さを教えた。——旧大陸のどの城砦の大広間よりも、広い。

 一歩を踏み出し、最寄りの壁面へ近づく。

 壁面には、文字が刻まれていた。

 文字、と呼んでいいのかは分からなかった。旧大陸の各国の文字はすべて識る。商人の書簡が読めぬのでは傭兵は務まらぬ。だが、壁面の紋様は、そのどれにも似ていなかった。角ばった線と、曲線と、点の組み合わせ。一文字の中に、複数の層がある。地の線に、別の線が重ねて刻まれ、さらにその上に、赤茶けた別種の顔料で細い線が走っている。

 指先で触れた。

 触れた箇所から、微かに——本当に微かに——温かみが返ってきた。石であるはずのものから、生き物の体温のような何かが。

 空間の奥、光の届かぬ黒い底の方から、風が流れてきた。

 風には、あの匂いがあった。カルディアの港で初めて嗅いだ、蜜と鉄の入り混じった——しかし、その百倍の濃さで。旧大陸のどの古戦場でも、どの古城でも、嗅いだことのない濃度の魔力の匂い。吸い込めば喉の奥で微かな火花が散るような、粒子を帯びた空気だった。

 グレンは剣の切っ先を、奥の闇へ向けた。

 これは、自然の洞窟ではない。

 敷石の規則性、石柱の配置、壁面に刻まれた文字——いずれも、人の手、あるいはそれに類する何者かの意志によって築かれたものだ。何者かが、この地下に、何かを造った。そしてその「何か」は、三組の探索者を呑み込み、なお奥で息をひそめている。

 手の甲を口許に寄せた。吐く息は白くならぬのに、空気の冷たさだけは肌に刺さる。——旧大陸では、こういう冷え方をする場所は、ひとつだけだった。

 古い戦場跡、未だ祓われぬ死人の積もる坑道。

 グレンは首を一度だけ鳴らし、剣の柄を握り直した。背後の落下口から差す青い薄明を、背に受ける。前方には、燐光の滲む敷石の回廊が、闇の奥へ沈んでいる。

 足裏を敷石に乗せ、最初の一歩を踏み出した。

 石の床が——ほんの僅かに、グレンの踏み込みに応じて震えた、気がした。

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