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地脈を継ぐ者

第1話 第1話

第1話

第1話

依頼書が潮風に攫われ、灰色の海面へと落ちていった。

 一枚、また一枚。グレンは革袋から束を引き抜いては、船縁の向こうへ投げ捨てた。護衛、暗殺、砦攻め、獣狩り——十五年分の仕事が紙片となって波間に散る。羊皮紙が海水を吸い、文字が滲み、やがて灰色の波と見分けがつかなくなる。どれほど血を流し、どれほどの戦場を渡り歩いたか。その記録が海に溶けていく様を、グレンは無表情のまま見つめていた。指先に残る羊皮紙の感触だけが、かつてそこに何かがあったことを示していた。

 旧大陸は終わったのだ。

 少なくとも、己にとっては。

 渡航船の甲板には、グレンの他にも大勢の人間がひしめいていた。革鎧に身を包んだ若者たち、荷を満載した商人の一団、杖を携えた術師らしき女。誰もが前方の水平線を食い入るように見つめ、その目には一様に飢えた光が宿っていた。船底から伝わる波の振動が絶え間なく足裏を揺さぶり、甲板に張られた帆綱が風を受けるたびに軋んだ音を立てる。潮の匂いは濃く、唇を舐めれば塩の味がした。

 新大陸ヴァストリア。十数年前に発見された未踏の大地。いまだ地図の大半が空白で埋まり、未知の富と危険が等しく眠るという。

 グレンは最後の一枚——かつて最も実入りのよかった依頼主からの紹介状を、指先でしばし弄んだ。旧大陸の東方戦線で三年。七つの砦を落とし、敵将の首を二つ獲った。報酬は確かに受け取った。だが戦が終われば傭兵は用済みだ。凱旋の宴に傭兵の席はなく、戦勝の叙勲に傭兵の名はない。名声は依頼主のものとなり、手元に残ったのは刃こぼれした剣と、体中に刻まれた古傷だけだった。右の肋骨に走る古い刀傷が、冷たい海風を受けて鈍く疼いた。

 紹介状が風に乗り、海鳥の群れの間を抜けて消えた。

「未練はないのか」

 隣で船縁に凭れていた白髪の商人が、目を細めてこちらを見ていた。日に焼けた顔に深い皺が刻まれ、指には航海の年月を物語る無数の小さな傷があった。

「ない」

「そうかい。あんたみたいな目をした男を何人も見たよ。新大陸に渡る船でな」

 商人は煙管を取り出し、火を点けた。甘い煙が潮風に流された。

「だがな、覚えておくといい。新大陸は、逃げてきた者には優しくない。奪いに来た者にも、な。あそこで生き残るのは——」

 商人は言葉を切り、何かを飲み込むように口を閉じた。それきり黙り、グレンもそれ以上は口を開かなかった。

 未練など、とうに捨てた。正確には、捨てるものすら残っていなかった。

 翌朝、港町カルディアが霧の中から姿を現した。

 最初に目に飛び込んだのは、港を埋め尽くす船の数だった。旧大陸の主要港にも劣らぬ規模だが、停泊する船の種類がまるで違う。探索船、輸送船、小型の高速艇——どれも船体に土と血の匂いを染み込ませ、甲板には見たこともない荷が積まれていた。帆柱の先端には各国の旗に混じって、見覚えのない紋章を掲げた旗がはためいている。新大陸で生まれた勢力のものだろう。旧大陸の秩序が、ここではすでに意味を失いつつある。

 桟橋に降り立った瞬間、潮の香りに混じって奇妙な甘さが鼻腔を刺した。大陸の奥から風が運んでくる、未知の植生の匂いだ。旧大陸のどの土地とも違う。蜜のような、しかしどこか金属的な鋭さを含んだ香り。グレンの足が一瞬止まり、長く傭兵の戦場に鈍らされていた感覚が不意に目を覚ました。

 ——この大陸は、旧大陸とは違う。

 港から街へと続く石畳の坂道を登りながら、グレンは周囲を観察した。通りには冒険者たちが溢れていた。旧大陸ではまず見かけない若さだ。二十歳にも届かぬ少年が、自分の背丈ほどもある剣を背負って闊歩している。術師の少女が路上で火球を弄んでは笑い、荷運びの獣人が淡い紫色の鉱石を山と積んだ荷車を引いていた。

 その鉱石に、グレンの目が留まった。

 旧大陸では見たことのない色だ。淡い光を内包するように脈動し、近づくだけで肌が粟立つほどの魔力を放っている。光は一定ではなく、まるで生き物の心臓のように緩やかに明滅を繰り返していた。荷車の上にはさらに、巨大な牙や鱗、液体の入った瓶が無造作に積まれていた。瓶の中の液体は濁った琥珀色で、蓋の隙間から腐臭とも薬香ともつかない匂いが漏れている。いずれも旧大陸の図鑑には載っていない素材ばかりだった。

「そこの兄さん、魔鉱石は要らんか。純度は低いが安くしとくよ」

 露店の男が声を掛けてきたが、グレンは首を振って通り過ぎた。金はほとんど残っていない。渡航の費用で、蓄えの大半を使い果たしていた。

 冒険者ギルドは港を見下ろす丘の中腹に建っていた。旧大陸のギルドが石造りの荘厳な構えであるのに対し、カルディアのそれは木と鉄で組まれた実用一辺倒の造りだった。まだ歴史が浅いのだ。壁板の継ぎ目から松脂の匂いがする。建物の前には武器を立てかけた冒険者たちがたむろし、地面に広げた地図を囲んで声高に議論していた。

 扉を押し開けると、喧噪が壁のように押し寄せた。広間には百を超える人間がひしめき、酒を飲み、地図を広げ、声を張り上げて依頼の奪い合いをしていた。空気は酒精と汗と革の匂いが混じり合い、熱気で重く淀んでいる。旧大陸のギルドでは見られぬ光景だ。あちらでは依頼はランクに応じて静かに割り振られ、冒険者は命令を待つ兵のように整然としていた。ここには、秩序の代わりに熱気がある。

 受付の列に並び、グレンは旧大陸での経歴を簡潔に告げた。傭兵歴十五年。従軍した戦線と、討伐した魔獣の概数。

 受付の女は書類から顔を上げ、グレンを一瞥した。三十路を越えた傭兵の顔には、若い冒険者たちにはない種類の疲弊が刻まれている。だがその目は濁ってはいなかった。疲れ果てた男の目ではなく、すべてを見てきた男の目だった。受付の女はそれに気づいたのか気づかなかったのか、事務的な口調を崩さなかった。

「旧大陸での実績は、こちらでは参照されません。ヴァストリアギルドの登録は全員が無等級からの開始です」

「構わない」

「では登録証を発行します。依頼は等級に応じたものしか受けられません。まずは最低等級の依頼から実績を積んでください」

 木製の登録証を受け取った。真新しい板に、名前と「無等級」の刻印だけが押されている。十五年の戦歴が、この一枚の木片に圧し潰された。だが不思議と、怒りは湧かなかった。旧大陸で積み上げたものに、もはや何の執着もない。むしろ登録証の木の香りが、妙に清々しく感じられた。何者でもない場所からの出発。それはあるいは、グレンが無意識に求めていたものだったのかもしれない。

 グレンは広間の壁一面を覆う依頼板へ向かった。最低等級の依頼は板の最下段に貼られている。薬草採取、害獣駆除、荷運びの護衛——どれも日銭を稼ぐだけの仕事だった。依頼の紙は何度も貼り替えられた跡があり、画鋲の穴が板に無数の傷をつけていた。

 その中で、一枚だけ異質な張り紙があった。

 紙の質が違う。ギルドの正規用紙ではなく、厚手の羊皮紙に黒い墨で走り書きされている。墨の匂いがまだ新しい。内容は簡素だった。

『北東密林地帯・実地調査。単独可。報酬——金貨五十枚』

 グレンの指が止まった。最低等級の依頼の相場は金貨二枚から五枚。五十枚は桁が違う。そして「単独可」の但し書き。パーティを組む必要がないということは、ギルドが人を集められなかった——あるいは、集まらなかったということだ。

 張り紙の隅に、小さな文字が追記されていた。

『※当該地域にて探索者三名が帰還せず。関連性は不明』

 歴戦の傭兵の勘が、背筋をひと筋の冷たさとなって駆け上がった。これは罠だ、と本能が告げる。だが同時に、十五年間の戦場で磨かれた別の感覚が囁いていた。

 ——この依頼の先に、何かがある。

 理由は言葉にならなかった。ただ、依頼書を海に投げ捨てたときには感じなかった何かが、胸の奥で微かに脈打っている。長い間忘れていた感覚だ。恐怖ではない。期待でもない。もっと原始的な、生き物としての嗅覚に近い何かだった。

 グレンは張り紙を掴み、受付へと歩き出した。カルディアの雑踏がその背中を呑み込み、港から吹き上げる風が、新大陸の奥深くへと彼を誘うように吹いていた。

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