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追放魔術師、静寂の森で目覚める

第2話 第2話

第2話

第2話

銀色の魔獣は、茂みの縁に立ったまま動かなかった。

エルトも動かなかった。

右手を持ち上げかけて止めたその姿勢のまま、ゆっくりと息を吸う。吸い込んだ空気は朝露で湿っていた。草の匂いと、もうひとつ、鉄に似た微かな匂いが混じっている。血の匂いだ、と少し遅れて気づいた。

魔獣の体高は、膝ほどだった。四つ足で草を踏みしめ、長い尾を地面に垂らしている。耳は三角に立ち、蒼い瞳はまっすぐエルトに向けられていた。敵意の色はない。だが、怯えもない。見定めるような、静かな視線だった。

エルトはゆっくりと膝をついた。石畳の廊下で身につけた仰々しい礼ではない。ただ、自分が大きく見えないようにするためだけの動作だった。膝の下で朝露を含んだ草が、じわりと外套を湿らせていく。湿り気が肌まで届くより先に、エルトは息の吐き方を整えた。

「……怪我、してるな」

声に出したのは、自分のためだったのかもしれない。右の前脚が、わずかに地面から浮いている。毛並みに赤黒いものが滲み、朝の光の中でぬらりと光っていた。

魔獣は唸らなかった。鳴きもしなかった。ただ、蒼い瞳がエルトの手元を追い、こちらの挙動を測っている。宮廷で対峙してきた魔物のどれとも違う気配だった。人の間合いを知っている獣だと、なぜかそう思った。

「俺は、もう魔術師じゃない」

昨夜、馬車の中で呟いた言葉の続きのようなものだった。誰に向けたのでもない。魔獣に伝わるとも思っていない。ただ、そう前置きをしておかなければ、自分の中で踏み出せない気がした。

    *

エルトは外套の裾を広げ、その場に腰を下ろした。両手を膝の上に置く。掴みかかる意思がないことを示すために。魔獣はしばらくそのままエルトを見ていたが、やがて前脚をかばいながら、ゆっくりと一歩、こちらへ踏み出した。

獣道の草が、小さな体重で静かに撓む。足を引きずる音ではない。ただ、負担をかけないように、慎重に運んでいる歩みだった。一歩、また一歩。エルトは息を詰めないよう意識して、穏やかに呼吸を続けた。喉の奥がわずかに乾いていたが、唾を飲み込む音すら響かせたくなかった。

二歩の距離まで近づいたとき、エルトは右手を、ごくゆっくりと差し出した。手のひらを上に向け、指を開いて。十二年間、人を守る結界を張り続けた手だった。その手が、今は何も持っていない。爪の間には、昨夜の馬車の埃がまだ残っていた。

魔獣は鼻先を近づけた。湿った鼻が、指先に軽く触れる。冷たかった。それから、ふっと息を吐いた。獣の吐息は思いのほか甘く、干した草の匂いがした。毛並みが震え、長い尾が地面をひと撫でする。

「見せてくれるか」

エルトは左手を前脚に添え、そっと持ち上げた。魔獣は抵抗しなかった。肉球のすぐ上、毛並みの内側に、裂けた傷があった。深くはないが、長い。枝か、あるいは鋭い石で擦ったような切り傷だった。触れた指先に、わずかに脈打つ熱が伝わってくる。

「これくらいなら、すぐ塞がる。じっとしていろ」

小屋の中から水と布を取ってこようかと、一瞬だけ考えて、やめた。動けば、この距離が崩れる気がした。

右の人差し指を、傷口の上にかざす。魔力を指先に集める感覚は、久しぶりだった。戦場で結界を張るときの、あの肩が締め付けられるような感覚とは違う。細く、静かに。糸を紡ぐような心持ちで。指の腹に、じんわりと熱が滲んでくる。

「癒えろ」

言葉は要らない術だった。それでも、声に出した。低く、穏やかに。自分の声が、こんなにも柔らかく出せたことに、少しだけ驚いた。

指先から薄緑の光がこぼれ、傷口に沁み込んでいく。魔獣の毛並みが一瞬だけ逆立ち、それからふわりと元に戻った。裂けていた皮膚が、内側からゆっくりと閉じていく。血の色が薄れ、やがて消えた。新しい毛が生え揃うまでには数日かかるだろうが、痛みはもう引いたはずだった。

エルトは指を下ろした。治癒術など、基礎中の基礎の術だ。宮廷ではほとんど使う機会もなかった。それでも、誰かのために魔力を使って、こんなに肩が軋まなかったのは、初めてのことだった。むしろ、胸の底に小さな灯が点されたような、ささやかな温かさが残っている。

魔獣はしばらく前脚を上げたまま、不思議そうに足元を見ていた。試すようにそっと地面に下ろし、体重をかけ、もう一度確かめ、そして、何を思ったのか、ぽつりと一歩、エルトの膝に近づいた。

次の瞬間、銀色の体がエルトの膝の上に収まっていた。

「……」

声が出なかった。重さがあった。予想より温かかった。獣の体温というより、日向に置かれた石のような、穏やかな熱だった。

魔獣は膝の上で一度身を丸め、それから喉を鳴らし始めた。低く、途切れず、ごろごろと。朝の静けさの中にその音だけが響く。エルトは手を宙に浮かせたまま、しばらく動けずにいた。やがて、おずおずと銀色の背に触れる。毛並みは、朝露を弾いて滑らかだった。指の腹を滑らせると、下にあるしなやかな筋の感触が伝わってくる。

「……お前、犬じゃないよな」

答えは返らない。ただ、喉の鳴る音が少しだけ強くなった。

    *

喉を鳴らす音が続いている間、エルトは小屋の前の草地に腰を下ろしたまま、日が高くなるのを眺めていた。

時間の進み方が、昨日までとは違った。宮廷では、鐘の音と書類の山が時間を刻んでいた。今は、ただ日の位置と、膝の上の小さな体温だけが時を告げている。風の流れが少し変わり、梢の揺れる音が、昨日よりも深く聞こえる気がした。

「……ずっとこうしてもいられないな」

呟くと、魔獣は耳だけ動かして応えた。エルトは立ち上がろうとしたが、膝の上の重みが離れない。結局、両腕で抱え上げる形で立った。思ったより軽かった。

小屋の扉を押し開け、中に入る。昨夜は暗くて気づかなかった細部が、朝の光の中で浮かび上がってきた。壁の板の継ぎ目。天井の梁に打たれた楔。床板の、妙に整った並び。六畳ほどの床に、一枚ずつ違う木目の板が嵌め込まれていた。

エルトは魔獣を寝台の上にそっと降ろした。

「少し休んでいろ。水を汲んでくる」

踵を返そうとしたとき、魔獣が寝台から跳び降りた。治ったばかりの前脚で器用に着地し、床の真ん中へ歩いていく。そこで立ち止まり、鼻先を床板に向けた。

「……どうした」

魔獣は返事の代わりに、鼻先で床板をぐいと押した。つん、と軽い音がする。もう一度、今度は前脚で小さく引っ掻くような仕草をした。爪が木に触れる、乾いた微かな音が、狭い室内に小さく反響した。

エルトはしゃがみ込み、示された床板を覗き込んだ。他の板と並んで嵌め込まれているが、よく見ると継ぎ目がわずかに浅い。指先を差し込むと、予想よりあっさりと浮き上がった。釘は打たれていなかった。

板を持ち上げる。下から漏れ出したのは、乾いた土の匂いではなかった。冷えた石の匂いだった。頬に触れる空気が、室内のそれより一段と冷たい。

小屋の床下に、石材が敷き詰められていた。

そのうちの一枚が、他と違っていた。表面が磨かれ、わずかに青みを帯びている。そして、その石の表面に、何かが刻まれていた。

エルトは息を止めた。

古代文字だった。

宮廷の学術院で三年を費やして読み解いた、あの文字だった。王国が今使う文字のどれとも似ていない、角の尖った、歌うような連なり。使える者は王国でも数えるほどしかおらず、すでに歴史の中に沈んだはずの文字。

それが、森の奥の朽ちた小屋の床下に、埋まっていた。

    *

エルトは、しゃがんだ姿勢のまま、しばらく動けなかった。外套の埃まみれの袖口が、石板の縁に触れている。指先で文字の一つをなぞる。冷たかった。刻みは深く、風化していない。爪の先に、石の細かな粒子が微かに引っかかる感覚があった。

「……なんで、こんなところに」

呟きに答えはない。代わりに、銀の魔獣がすぐ隣にやってきた。治したばかりの前脚で石板の縁を軽く叩き、それからエルトを見上げる。蒼い瞳には、茂みから現れたときと同じ、静かな見定めの色があった。

断片的に読める語があった。森、という文字。水、という文字。そして、循環、とも読めるなじみのない連なり。文脈までは掴めない。学術院の辞典が手元にあれば、と思ったが、あの本は王都に置いてきた。胸の奥で、久しく忘れていた学徒の頃の熱が、ほんのわずか疼いた。

「お前、これを、俺に見せたかったのか」

魔獣はただ、蒼い瞳を細めた。

エルトはゆっくりと立ち上がり、床板の穴と石板を見下ろした。追放の日に、十二年を失った気がしていた。けれど今、この床下に眠っていた一枚の石の方が、あの祝宴の夜の喧騒よりも、よほど重く感じられた。

開いたままの扉から、昼近い光が、少しずつ差し込み始めていた。

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