第3話
第3話
エルトは石板を抱えて、小屋の外に出た。朝の光の下で見たほうが、文字が読みやすいと思ったのだ。草地の上に外套を広げ、その上に石板をそっと下ろす。銀色の魔獣が、後ろからついてきて、外套の端にちょこんと腰を落とした。
石の表面を、あらためて掌で撫でる。青みを帯びた肌理はひんやりと冷たく、朝の日差しを受けてもなお、奥底に夜の温度を残しているようだった。刻みの一つひとつに、指の腹が引っかかる。摩耗はほとんどない。この森がどれほど古いかは知らないが、少なくともこの石は、長く土と木の下で守られてきたのだろう。
「……参ったな」
声に出すと、自分の声が朝の空気に吸い込まれていくのがわかった。
学術院に籍を置いた三年間、エルトは古代語の辞典を枕のように抱えて眠っていた。同室の仲間から変わり者と笑われたが、気にならなかった。この言語を読み解くことは、当時のエルトにとって、魔術そのものよりも面白いことだった。宮廷に上がる前の、最後の自由な時間でもあった。
辞典は、王都の執務机の抽斗に置いてきた。
今となっては持ち出せるはずもないが、それでも惜しいと思った。具体的に何かを惜しいと感じたのは、たぶん、ここ十年で初めてだった。宮廷で失った地位も名誉も、不思議と惜しいと思えなかったのに。
魔獣が鼻先で石の縁を軽く突いた。まるで早く始めろと急かすように。
「わかってるよ」
エルトは膝を崩して座り直し、懐から万年筆と、馬車に忘れ置かれていた古い記録簿を取り出した。表紙の革はすり切れているが、白紙の紙はまだ十分に残っている。
一文字ずつ、見えるものから拾っていく。急ぐ用事は、もう何もなかった。
*
最初の数行は、形の崩れを確かめることから始めた。古代文字は、刻みの深さと角度で意味が変わる。学術院の教官が何度も口にしていたことだ。風化した石では、同じ字に見えて別の語を示していることがある。だが、この石板は状態が良かった。
しばらくして、エルトは最初の語を書き取った。
森、と。
当然のように読めたわけではない。文字の左半分が水を表す古い印で、右半分が葉の茂りを抽象化した記号。その組み合わせが「森」を意味することは、学術院の三年目で学んだ。どこか懐かしい手触りのある文字だった。
次に拾えたのは、循環、の語だった。
これは昨夜、床下から引き上げたときにも一度目にとまっていた。だが、そのときは確信が持てなかった。こうして明るい場所で見ると、刻みの流れが間違いなく「巡る」を意味する古い型をしている。古代語の「循環」は、現代の写本ではほとんど見かけない。宮廷の書庫にある文献でも、ほんの数冊の中にしか出てこなかった語だった。
森と、循環。
その二つが同じ石板に刻まれていることに、エルトは軽く息を呑んだ。
古代魔術文明の記述に、「森の循環」という概念があったはずだ。学術院で一度だけ講義を受けた覚えがある。詳細は忘れたが、たしか――植物の生育と水の流れを、魔術式で結びつけるような仕組みだった。
「なんでそんなものが、こんなところに」
呟いた声は、少し上ずっていた。
膝の脇の魔獣が、蒼い瞳でこちらを見上げた。静かな視線だった。あなたはまだ半分しか知らない、とでも言いたげな。
エルトはもう一度、石の表面に顔を近づけた。朝露が外套の膝を冷たく染みてきていたが、気にならなかった。指先で文字を一つ、もう一つとなぞり、記録簿に写していく。意味が拾えないものも、形だけは書き留めた。あとで照らし合わせるためだ。
やがて、三つ目の語に行き当たった。
守護。
この語は、古代語の中でも特殊な位置にあった。単に「守る」という意味ではない。誰かを、あるいは何かを、代々受け継いで守り続ける役割を指す語だ。学術院の教官が言っていた。この語を使う文献は、多くの場合、祭祀か、王家の秘伝に関わる、と。
森、循環、守護。
三つの語が並ぶだけで、エルトの胸の内にぼんやりと像が浮かび始めた。けれど、像の輪郭はまだ滲んでいる。つなぎの語が読めないのだ。助詞や動詞にあたる部分が、微妙に崩れているか、見たことのない型をしていた。
「焦るなよ、俺」
自分に言い聞かせた。辞典と格闘していたあの頃の呼吸を、ゆっくりと思い出す。古代語は、急くと逃げる。ひと文字ずつ、輪郭を撫でるように読む。そうしていると、やがて向こうから意味が立ち上がってくる。そういう言語だった。
魔獣は少しずつ身体を寄せてきて、エルトの膝の脇にぴたりと収まった。銀色の背が、外套の裾を介して温かい。エルトは万年筆を置き、その背にそっと手を載せた。
宮廷では、こんな時間の使い方は許されなかった。報告書の期限、結界の点検、上官への進捗。全てが分刻みで進んでいた。けれど今、日は高く昇り、森の空気はまだ朝の湿り気を残している。それだけのことが、妙に贅沢に感じられた。
*
日が中天に差しかかったころだった。
エルトはようやく、一文の骨組みを組み立て始めていた。「森を循環が巡り、守護が……」そこから先が、どうしても読めない。文字は刻まれているのに、頭の中で意味が結ばない。
ふと、膝の脇の重みが消えた。
顔を上げると、銀色の魔獣が立ち上がっていた。耳を高くそばだて、鼻先を小屋の裏手の方角に向けている。ちょうど数瞬前まで、しきりに喉を鳴らしていたのが嘘のような、張り詰めた姿勢だった。
「どうした」
問いかけるより早く、魔獣は駆け出していた。
治ったばかりの前脚を大きく蹴り、下草を撥ね飛ばしながら、小屋の裏手へ一直線に走っていく。エルトは慌てて石板の上に記録簿を置き、腰を上げた。
「おい、待て」
声は届かない。銀色の尾が、茂みの向こうへ消えた。
エルトは外套の裾を掴み上げ、追いかけた。追うのは久しぶりだった。宮廷では追われる立場のほうが多かったし、戦場では結界の内側から動かないのが魔術師の役目だった。下草が膝に絡み、細い枝が頬をかすめる。それでも、不思議と足取りは軽かった。
獣道なのか、かすかな窪みが草の間を縫うように続いている。その道を、銀の背中が先導していく。速くはない。エルトが追いつける程度の速さで、振り返ることはしないが、一定の距離を保っている。まるで、迷うなと合図を送るかのように。
森の奥へ進むほど、木々の気配が変わっていった。幹が太く、苔の蒸し方が深くなる。木漏れ日の落ち方も、小屋の周りとはどこか違った。光が、葉を透けてくるのではなく、空気そのものに染みているような感覚だった。
やがて、魔獣の足が止まった。
エルトも立ち止まり、息を整える。目の前の茂みの向こうから、微かな音が聞こえていた。水の音だ。ただし、川のそれではない。ゆっくりと水面を揺らすような、低く、一定の震え。
魔獣は振り返り、エルトを見た。ついてこい、と言わんばかりに、鼻先で茂みを指す。
エルトは茂みの枝を、そっとかき分けた。
そして、息を呑んだ。
そこは、木々に囲まれた円形の窪地だった。中央に、小さな泉がある。
泉の水は、青かった。
普通の水の青ではない。夜明け前の空のような、深く透き通った蒼。水面が陽を受けて反射しているのではなく、水そのものが内側から、淡く光を放っていた。白い靄のような粒子が、水底から表面へ、ゆっくりと立ち昇っている。
それが、魔力だった。
エルトには一目でわかった。王都の大結界を張るときに、何度も触れた、あの純度の魔力だ。だが、これほど高純度のものが、自然の水源に溶け込んでいるのを見たのは、十二年の宮廷勤めの中でも初めてだった。
膝の力が、わずかに抜けた。
魔獣は、泉の縁まで歩いていった。水を飲むでもなく、ただ水面を覗き込むように、首を伸ばす。銀色の毛並みに、蒼い光がほのかに映り込んだ。エルトも一歩、また一歩と、泉に近づいていく。
水面に自分の影が揺れた。追放された魔術師の顔が、蒼の中で静かに波打っている。長く見つめていると、その顔が、どこか自分のものではないように思えてきた。
「……森を、循環が、巡り」
さきほど読み解きかけた一文を、無意識に口にしていた。蒼い水面が、その声に応えるように、ゆっくりとひと波、揺れた。
魔獣が、鼻先を水面に近づける。そのとき、エルトは、泉の底で、何かが微かに光るのを見た。
石だ、と直感が告げていた。
それは、揺れる水の向こうで、輪郭を持たないまま、たしかにそこに在った。森の奥で、もう一枚の石が、自分を拾い上げる者を、静かに待っていた。