第2話
第2話
噛まれた右腕が、朝になっても熱を持っていた。
カイは歩きながら外套の裂け目から手を入れ、布に滲んだ血を指で確かめた。夜のうちに止血したはずの傷口が、また濡れている。牙狼の牙は、思った以上に深く入っていた。指先に触れた血は、ぬるく、粘りけを帯びていた。鉄錆のような匂いが鼻先をかすめる。
路肩の倒木に腰を下ろし、腰袋から油布と薬草を取り出す。三年間、他人の傷をこの手順で処置してきた。自分のためにやるのは初めてだった。油布を広げる手が、ほんのわずかに震えている。寒さのせいか、失血のせいか、それとも別の何かか。カイは自分でもわからなかった。
薬草を揉み、傷口に押し当てた。染みる。歯を食いしばって息を吐く。青臭い匂いと、焼けるような痛みが腕の内側を駆け上がってくる。視界の端が一瞬白くなった。
「……派手にやられたな」
声に出してみる。返事はない。それが妙に心地よかった。三年間、カイの言葉に返事が返ってきたことなど、ほとんどなかった。
外套の裾を切り、包帯代わりに巻きつける。立ち上がった。足元の小石に目が留まる。
指で拾い、軽く握り込んだ。昨夜の感覚を呼び戻す——重力、硬度、運動ベクトル。三つの軸。どれを動かすか頭で命じるのではなく、体がスイッチを探る。石の重さが、手のひらの中でゆっくり膨らんでいく。指の関節が軋む。腕の筋が震える。握力を失う前に、カイは石を足元に落とした。
鈍い音がして、土煙がわずかに立った。戻した石は、地面にめり込んでいた。
《万物掌握》。本物だ。
東の空が白みきる頃、再び歩き出した。
朝の街道は静かだった。土の匂いと、どこか遠くで鳥が鳴く声だけがあった。三年前の同じ時刻のことが、唐突に浮かんだ。
王都の冒険者ギルドの石段。ヴァルトが差し出した契約書に震える指でサインをした日。「暁の剣」への加入。駆け出しで、パーティに拾われただけでも奇跡だと信じていた。
初日、ヴァルトが肩を叩いた。「よろしく頼む、新入り」
それだけで、カイは半年は戦える気がした。
記憶は、すぐに澱んでいく。
三ヶ月目。雨の野営で照明用魔石が切れた。カイが予備を懐から出すと、リーネが笑った。「すごい、荷物持ちって魔石まで持ち歩くんだ」——褒め言葉のつもりだったのかもしれない。その夜からリーネはカイの携帯食を「荷物持ちのパン」と呼ぶようになった。焚き火の向こうで、他の三人も笑っていた。カイも笑った。笑うしかなかった。
一年目。グレンが戦闘中に水筒を失くし、カイの水筒を黙って奪った。戦闘後、礼はなかった。グレンはもともと口数の少ない男だ。そういうものだと、カイは自分に言い聞かせた。夕方、喉が渇いて川まで下りた時、自分の足音だけが妙に大きく響いた。
二年目。フィオが魔力切れを起こした時、カイが調合した回復薬で立て直した。調合に半日かかったことを話しても、フィオは「へえ」としか言わなかった。それ以降、フィオはカイに話しかけなくなった。すれ違う時の沈黙が、日ごとに重くなった。
——残ったのは、なぜだろう。
歩きながら考える。足裏に伝わる土の感触が、一歩ごとに確かになっていく。
こいつらは自分がいないと死ぬ、と思っていた。魔石管理を任せられる者はいない。結界配置を覚えている者もいない。だから、残らなければならない。そう信じていた。
(本当にそうだったのか)
答えは、今ならはっきり出せる。
ただ怖かったのだ。三年間、自分を否定しないで済む場所を求めて、否定されながら残り続けた。馬鹿みたいだ。歩きながら、カイは小さく笑った。乾いた笑いが、朝の空気に溶けて消えた。
街道脇の茂みが、揺れた。
カイは足を止めた。昨夜と違う。一匹。それも小さい気配だった。呼吸を整える。心臓の拍動が、耳の奥で一度、二度と数えられた。
灰色の野犬が飛び出してきた。唾液を垂らし、前足を低く構える。Dランクの野良獣。牙狼ほどの脅威ではない。
右手で足元の石を拾う。重力を倍に、倍に、倍に。握った石を放った。
野犬の前足に命中した瞬間、骨が砕ける音がした。獣が悲鳴を上げて転げ回る。土埃が舞い、血飛沫が街道の石にかかった。もう一発は放たなかった。代わりにナイフを抜き、喉を断つ。温かい血が刃を伝い、手首にかかった。
静寂。
血抜きをし、毛皮を荒く剥いだ。ギルドで売れる。荷物持ちだった頃、狩猟の処理も見覚えていた。毛皮を縛る紐の硬度を上げ、締めつけを強化する。傷一つ残さずに。
使える。自分のために。
正午、街道が緩やかに曲がった。
視界の先に、低い城壁と煙突の列が現れた。レンガルド。辺境最後の街と呼ばれている。冒険者ギルドの支部はあるが、規模は王都の十分の一にも満たない。噂も届きにくく、やり直すには悪くない土地だ。
門番は、昨日王都を出た時の門番よりも無愛想だった。
「身分証」
「冒険者証がある」
差し出した金属板を、門番が裏返して舐めるように見た。「暁の剣」の刻印。舌打ちが聞こえた。
「Aランクパーティの人間が何の用だ」
「辞めた」
「……そうか」
それ以上は聞かれなかった。この街の門番は、事情を詮索しないことを職業倫理にしているらしい。
石畳の大通りは狭く、両側に木造の宿屋と鍛冶屋が並んでいた。王都のような白亜の建築はない。全てが灰色と煤色で、煤煙の匂いが鼻をついた。鍛冶屋の槌音が、どこかで規則正しく響いている。酒場からは昼間から笑い声が漏れている。
冒険者ギルドは通りの突き当たりにあった。
扉を押し開けると、十数人の冒険者が一斉に視線を向けた。革鎧と鎖帷子、古びた剣の柄。どれも使い込まれている。戦い慣れた者たちの目だった。
カイは無言で受付に向かった。
「新規登録をしたい」
受付嬢が顔を上げた。年は二十半ばか。赤毛を後ろで一つに縛り、手首に細い銀の鎖を巻いている。名札にはエルナとあった。
「冒険者証をお持ちですか」
「ある」
金属板を渡した。エルナの目が刻印に触れた瞬間、わずかに止まった。
「……『暁の剣』のカイさん、ですね」
「元、だ」
エルナは表情を変えず、登録簿を開いた。羽根ペンがインク壺に浸される、小さな音がした。「では適性の再鑑定を。辺境での等級は王都と別管理になっていますので」
台の上に、透明な水晶球が置かれた。鑑定石。右手を触れるよう促される。
カイは水晶に手を伸ばした。指先が冷たいガラスに触れる。
触れた瞬間、水晶の中心が白く灯った。
普通ならそこから数値が浮かび、静かに消える。そういう道具だ。
——水晶が、鳴った。
澄んだ金属音が受付台の上で響いた。白い光が膨らみ、水晶の表面に細い亀裂が走る。亀裂は底まで伸び、光がその裂け目から溢れ出した。
エルナが息を呑んだ。
受付台の向こうで帳簿をつけていた職員が、立ち上がって固まった。羽根ペンが床に落ち、乾いた音を立てた。
カイは水晶から手を引いた。光は、ゆっくり収まっていった。
「……失礼、カイさん」
エルナの声は落ち着いていたが、指先がわずかに震えていた。
「少し、お待ちいただけますか」
エルナがカウンターの奥へ消えた。
冒険者たちのざわめきが止まっていた。全員が、鑑定石を見ている。亀裂の入った石の表面は、今もかすかに光を帯びていた。空気が、ぴんと張りつめていた。
一人の老いた斧戦士が、低い声で呟いた。
「——あれは、壊れたのか」
誰も答えなかった。
カイは受付の前で、静かに立っていた。昨夜、自分に起きたことを、まだ全て理解しているわけではない。ただ、理解しなくても構わないと思っていた。使えれば、それでいい。
奥の扉が開いた。
エルナではなかった。
白髪交じりの髭を生やした大柄な男が、重い足音で歩いてくる。腰には使い古した戦斧。胸には、ギルド長の徽章。
男はカイの前に立ち、鑑定石を一瞥し、それからカイの顔を見た。
「ドルクだ。この支部のギルド長をやっている」
カイは頷いた。
「カイ」
「——話がある。奥へ来い」
ギルド長の目は、値踏みする目ではなかった。もっと静かで、もっと深い。割れた石の向こうにある何かを、見極めようとしている目だった。
カイは黙って、奥の扉へ歩き出した。