第2話
第2話
依頼書に触れた指先を、奥から出てきた受付嬢の視線が押し止めた。
「——ヴェルデさん。それは、」
言いかけて、彼女は小さく息を呑んだ。カイルがこの掲示板の前で見せる顔を、幾度か見てきた娘だった。低ランクの依頼札を選ぶときの淡泊な横顔ではない。今朝のカイルの目には、禁域の二文字に呑まれた男の光が宿っていた。
「詳細を」
短く、それだけ言った。受付嬢はしばし躊躇い、やがて奥の扉の向こうに姿を消した。戻ってきた手には、黒蝋で封じられた麻袋がある。
「王都の書記官から預かっている正本です。こちらは別室で」
カイルは無言で頷いた。
ギルドの奥、普段は商隊護衛の契約などに使われる小部屋に通された。窓はなく、卓の上には燭台が一本。石壁に反響する足音が遠ざかり、扉が閉じられると、ラドムの朝の喧騒は嘘のように遠のいた。腰の革袋には銀貨十二枚が重みを増していたが、今のカイルにはその重さすら薄く感じられた。
受付嬢が麻袋の蝋を割る。中から出てきたのは、折り畳まれた羊皮紙の束と、別の油紙に包まれた小さな冊子だった。羊皮紙の一番上には、王都学術院の紋章が朱で押されている。三本の塔と、その根元を貫く一本の杖。
「本来であれば、受注前の閲覧にも身元照会が要ります。ですが掲示板に貼られた時点で公開扱いとなりますので」
受付嬢は事務的な声でそう言いながら、指先だけが微かに震えていた。
「——読みます」
カイルは椅子を引き寄せ、羊皮紙の束を手元に引いた。
最初の数葉は、禁域指定の根拠となった過去三隊の遭難記録だった。
第一隊、七年前。王立考古院の付属調査団、構成十四名。第一層の罠群突破までは記録あり。第二層への降下の途中で連絡が途絶。生存者——なし。遺体は十一日後に入口付近で四体のみ発見。残る十名は今も遺跡の中。死因の欄には「不明。外傷なし。栄養状態良好」とだけあった。書記の筆跡は、その一行だけ震えていた。何度か書き直した跡もある。言葉にしてはいけない何かを、言葉にせざるを得なかった者の筆だった。
第二隊、四年前。民間の傭兵団を王都が雇い上げ、構成八名。第二層到達を記録。そこで一名が錯乱し仲間を斬りつけ、残った六名は撤退。撤退中に通路が自ら形を変えたとの証言あり。生還者——二名。うち一名は半年後に発狂し療養院で没。残る一名は沈黙を貫き、昨秋に行方不明。
第三隊、二年前。学術院直属の精鋭班、構成六名。装備は最新。第二層を越え、第三層への進入口を発見したところで最終通信。救援に向かった王都の魔術師団は、遺跡の入口から奥へ進むことすらできなかったという。報告書には「壁面の文字が発光し、魔術回路が全壊した」とある。生還者——なし。
読み進める指先が冷えていくのを、カイルは他人事のように眺めた。栄養状態良好。十一日後に発見された四体の遺体。——彼らは、何を見たのか。何に呼ばれたのか。
死人の並ぶ頁を繰り終えたカイルの前に、受付嬢が最後の油紙を押し出した。
「これが、壁画の写しです」
紙を開く手が、自分のものではないように感じられた。
油紙の中には、丁寧に写し取られた壁面拓本の縮図が十枚あまり。遺跡第一層の各所から採取されたものだという。ほとんどは既知の古代エルディア文字の変種で、学者が見れば半ば読める代物だった。
だが、七枚目だった。
カイルは息を止めた。
他の拓本の周縁——本文とは無関係のはずの装飾帯に、あの文字が並んでいた。昨日、灰の回廊の四行目で揺らめいていた、読めぬはずの、意味の輪郭だけを持つ文字列。それが、ここでは堂々と、一つの行として刻まれている。
そして——父の手記の中ほど。「既知のどの言語系統にも属さぬ」と走り書きのあった頁に、父自身が模写していた文字列と、字形が完全に一致していた。
カイルの視界の端で、紙の上の文字が淡く滲んだ。蝋燭の炎が揺れたのではない。文字が、自分で揺れている。指先に痺れが走り、頭の底で何かが、確かに応答した。耳鳴りにも似た、しかし耳ではなく胸骨の内側で鳴る低い振動。吸い込む空気が妙に薄く、燭台の灯が急に遠のいたように見えた。石壁の冷たさも、受付嬢の息づかいも、すべてが羊皮紙の一点へ吸い寄せられていく。
——言葉が、眠っている。
父の筆跡が、胸の奥で響いた。
眠っているのではない。呼んでいるのだ。
「——受ける」
言葉に、迷いはなかった。
受付嬢は目を見開き、念を押すように声を落とした。
「ヴェルデさん、もう一度申し上げます。過去三隊、計二十八名。生還は実質ゼロです。単独での受注となれば、通常は禁域の手前までで」
「契約書を」
カイルは父の手記と同じ文字列を、もう一度指で辿った。滑らかな拓本の紙の上で、指先に微かな熱を感じる。気のせいだと分かっている。分かっていてなお、指は離せなかった。
受付嬢は嘆息し、別の羊皮紙を広げた。学術院発行の受諾書には、受注者の名と、万一の際の遺品送付先を記す欄がある。カイルは母の墓のあるラドム郊外の教会の名を書き、署名の下に古びたヴェルデ家の印を押した。父から譲られた印章は、蝋の上で少しだけ傾いた。
「出立は三日後でよろしいか」
「明朝にする」
「明朝、ですか」
「支度に一日。ラドムから沈黙の書庫までは馬で二日半。これ以上学術院を待たせる理由もない」
受付嬢は何か言いかけて、口を閉じた。
契約書を懐に収め、ギルドを出ると、昼前のラドムはすっかり暑気を帯びていた。乾いた風が路地を抜け、干し草と家畜の匂いを運んでくる。カイルはその匂いを長く吸い込み、短く吐いた。自分が今この空気の下にいることが、なぜか少し、不思議に思えた。
武具屋に寄り、革の胸当ての補強を頼んだ。鞣しの職人は黙って革の縫い目を改め、代金を渋くまけてくれた。続けて金物屋で細縄と鉤爪、油と打ち金、それから禁域の湿気に耐える蝋引きの油紙を買い足す。会計のたびに銀貨は減っていったが、金貨五十枚の受諾書の重みが、袋の薄さを忘れさせた。
最後に薬屋で、傷薬と解毒剤、それから眠らぬための苦い錠剤を二十粒。
「おや、珍しいね。カイルさんが錠剤なんぞ買うなんて」
「少し、寝てはいけない場所に行く」
薬屋の女は笑いかけたが、カイルの横顔を見て笑い方を忘れたらしい。黙って包みを差し出した。
宿に戻り、革の背嚢に荷を詰め替えた。父の手記だけは、いつものように油紙で二重に包み、胸元の内袋に収めた。替えの下着や保存食の上に、拓本と写しの束。そして最後に、燭台の脇に置いていた短剣を鞘ごと腰に吊るす。父の形見の、柄に古代文字の刻まれた片手剣だった。柄を握ると、掌の皮膚の下で脈打つものがあった。
窓の外で、ラドムの鐘が午後の時を告げた。
夜、カイルは大通り裏の酒場「枯れ井戸亭」の奥まった卓に腰を据えた。禁域へ発つ前夜、ろくに眠れぬのは分かっている。それでも麦酒を一杯と、塩漬け肉を一皿。明日からの道中、温かい食事はしばらくお預けになる。
半ば空いた卓で黙々と匙を動かしていると、隣の卓の老人がふと口を開いた。白髪を頭の左右に残しただけの、皺ばんだ顔の男だった。片方の目が濁り、もう片方だけが妙に鋭い。
「——兄さん、遺跡屋かい」
カイルは匙を止め、短く頷いた。
「沈黙の書庫、行くのかね」
誰にも言っていない。ギルドの受付から漏れたはずもない。カイルは老人の濁った目を見た。老人は笑わなかった。店の奥で誰かが笑う声が上がったが、それすら壁一枚を隔てたように遠く感じた。老人の鋭い方の目は、燭台の炎を映さず、ただ底の見えぬ井戸のように黒かった。
「あそこはな、」
塩漬け肉の脂が、皿の上で冷えていく。
「あの遺跡は、人を選ぶのだよ。選ばれぬ者は入れぬ。選ばれた者は——出られぬ」
老人はそう言って、欠けた前歯を見せるように、ようやく笑った。笑ったのに、片目は笑っていなかった。
「良い旅を」
そう残して、老人は卓に銅貨を一枚置き、ゆっくりと出ていった。
カイルは匙を置いた。麦酒の泡が、杯の中で静かに弾けていた。