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沈黙の書庫と世界言語の覚醒者

第1話 第1話

第1話

第1話

砂埃にまみれた拓本を広げたとき、カイル・ヴェルデはまた、あの違和感に捕まった。

辺境都市ラドムの南門から半日ほどの位置にある低ランク遺跡——通称「灰の回廊」から戻ったばかりだった。革の外套についた石灰の粉を払い、安宿の薄い寝台に腰を下ろす。寝台は体重を受けるたびに軋み、壁の漆喰には細かなひび割れが蜘蛛の巣のように走っている。窓の外ではラドムの夕暮れが赤銅色に染まり、市場の喧騒がようやく遠のき始めていた。肉を焼く煙と、どこかの鍛冶場から流れてくる鉄の匂いが、開け放った窓から入り込んでくる。

拓本には七行の碑文が写し取られている。灰の回廊の第三室、崩れかけた祭壇の台座に刻まれていたものだ。古代エルディア文字の変種——おそらく中期王朝の地方書体だろう。学者に売れば銀貨十枚にはなる。

だが、カイルの目は碑文の四行目に縫い止められていた。

他の行と筆致が違う。線の太さも、刻みの深さも、わずかに異なっている。まるで別の誰かが、後から書き足したかのように。そしてその一行だけが、読めないはずなのに、意味の輪郭のようなものを帯びて揺らめいている。文字を目で追うたびに、視界の端が淡く滲む。焦点を合わせようとすると逃げ、視線を外すとまた浮かび上がる——蜃気楼のような文字列だった。

声にならない囁き。言葉になる寸前の、水面直下の震え。

カイルは目を閉じ、こめかみを押さえた。この感覚は昔からあった。遺跡の奥で古い文字列に触れるたびに、頭の底で何かが反応する。読めはしない。だが、まったくの無意味とも思えない。石に刻まれた文字が、こちらを見ているような——そんな錯覚。

最初に気づいたのは十二の頃だった。母に連れられて訪ねた学術館の展示室で、ガラスの向こうに並ぶ古代の石板を眺めていたとき、一枚だけ、文字が脈打つように見えた。母の手を引いて「あれ、動いてる」と指さしたが、母は困ったように笑って首を振るだけだった。それ以来、カイルはこの感覚を誰にも話さなくなった。

誰にも話したことはない。話したところで、遺跡に潜りすぎて頭がおかしくなったと思われるだけだ。

拓本を丁寧に巻き直し、革紐で縛る。明日の朝、学術通りのベルガー老に持っていけばいい。あの偏屈な古代文字学者は、状態の良い拓本には気前よく銀貨を積む。

寝台の下から引き出した木箱を開けた。中には数冊の古びた手帳と、擦り切れた革表紙の手記が一冊。カイルは手記を取り上げ、何百回と開いた頁をまた開く。

父、ロイス・ヴェルデの手記。考古学者として大陸各地の遺跡を巡り、十二年前の冬に調査先から戻らなかった男の、最後の記録。

ほとんどの頁は調査記録で埋まっている。地層の断面図、文字の模写、遺構の見取り図。几帳面な父らしい、整然とした筆跡が並ぶ。だが最後の頁だけが違った。走り書きのように乱れた文字で、たった一行。

——言葉が眠っている。

それだけだった。場所も、文脈も、何を指しているのかも分からない。母はこの手記を形見として渡してくれたが、父の失踪について語ることは最後までなかった。何を聞いても唇を引き結び、目だけが遠くを見ていた。知らなかったのか、知っていて言えなかったのか——今となっては確かめようもない。カイルが十五のとき、母もまた静かに逝った。遺されたのはこの手記と、遺跡の闇に対する消えない渇きだけだ。

「言葉が、眠っている——」

声に出してみても、意味は掴めない。いつものことだ。カイルは手記を木箱に戻し、窓の外に目をやった。ラドムの空に最初の星が灯り始めている。

翌朝、カイルは学術通りへ向かった。

ベルガー老の店は通りの突き当たり、石造りの古い建物の地階にある。看板はとうに朽ちて読めないが、この界隈で古代碑文の拓本を買い取る人間といえば、ベルガー老の他にはいない。

石段を降りると、紙と蝋と古い埃の入り混じった匂いが鼻を突いた。天井まで積み上げられた書架の間を縫うように進むと、奥の作業卓でベルガー老が待っていた——というより、いつもそこにいる。この老人が店の外に出る姿をカイルは一度も見たことがなかった。

「ほう、灰の回廊か」

銀縁の眼鏡越しに拓本を検分しながら、老学者は鼻を鳴らした。蝋燭の灯りの下、彼の指が碑文の行をなぞっていく。節くれ立った指先が四行目に差しかかったとき、その動きがわずかに止まった。老人の眉がぴくりと持ち上がり、眼鏡の奥の瞳が拡がるのをカイルは見逃さなかった。

「中期王朝の地方書体だな。保存状態は悪くない。……ふむ、この四行目は興味深い」

カイルの肩が微かに強張った。

「何か分かりますか」

「分からんから興味深いと言っておる」ベルガー老は眼鏡を持ち上げ、目を細めた。「他の行とは体系が違う。中期王朝よりずっと古い。あるいは——いや、馬鹿な話だ」

「何です」

「先史言語体系の断片に見えなくもない、というだけの話だ。だがそんなものは千年以上前に途絶えておる。ただの偶然の類似だろう」

老学者の声には断定の響きがあったが、拓本を卓に置く手つきだけは妙に慎重だった。まるで壊れ物を扱うように、指先で紙の端を押さえている。

老学者はそれ以上語らず、銀貨十二枚を木の盆に並べた。相場より二枚多い。四行目への興味の分だろうとカイルは理解した。

「また良いものがあれば持ってこい。最近はろくな拓本が入らん。冒険者どもは金目の遺物ばかり漁って、碑文には見向きもせんからな」

「俺も冒険者ギルドには入っていませんよ」

「だから貴様の拓本は信用できる」

店を出ると、朝の陽光がラドムの石畳を白く照らしていた。銀貨十二枚。安宿の三週間分にはなる。次の依頼まで少し間が空いても食い繋げる額だ。

——先史言語体系。

ベルガー老が口にしかけて飲み込んだ言葉が、頭の隅に引っかかっていた。父の手記にも、似たような記述があったはずだ。古い文字の体系が、既知のどの言語系統にも属さない——そんな走り書きが、中ほどの頁に。

足が自然と傭兵ギルドの方へ向いた。依頼の確認は日課のようなものだ。遺跡調査に限定して仕事を選ぶカイルにとって、適した依頼は月に二つか三つ。大半は低ランク遺跡の地図作成や遺物回収で、報酬も控えめだが、それで十分だった。遺跡の中にいる時間だけが、カイルにとって呼吸のできる時間だった。

ギルドの掲示板は朝一番の傭兵たちで賑わっていた。護衛任務、魔獣討伐、輸送警護——剣の腕に覚えのある者たちが次々と依頼札を引き抜いていく。カイルはそれらに目もくれず、掲示板の端に貼られた調査系の依頼だけを確認する。

低ランク遺跡の追加測量。報酬は銀貨八枚。先週と同じ依頼主だ。もう一枚は山岳地帯の露出遺構の記録作業、銀貨六枚。どちらも悪くはないが、急ぐこともない。

視線を外そうとした、その瞬間だった。

掲示板の最上段——通常の依頼札とは異なる、厚手の羊皮紙に黒蝋の封印が施された書面が留められている。冒険者ギルドの正規依頼ではない。王都からの委託を示す紋章が押されていた。

カイルの目が、文面の一語に吸い寄せられた。

『禁域指定遺跡「沈黙の書庫」最深部調査——報酬:金貨五十枚』

金貨五十枚。低ランク遺跡を一年潜り続けても届かない額だ。だが、カイルの視線が凍りついたのは報酬の数字ではなかった。

依頼書の下部に添付された小さな図版。沈黙の書庫の入口付近で採取されたという壁面文字の写し。その文字列の中に——あの四行目と同じ筆致が、同じ体系の文字が、確かに並んでいた。

既知のどの言語にも属さない文字。灰の回廊で感じた違和感と同じ震えが、今度はもっと強く、頭の奥を叩いた。指先が痺れるような感覚が走り、一瞬、図版の文字が淡く明滅したように見えた。錯覚だと分かっている。分かっていても、目が離せない。

沈黙の書庫。過去に三隊が壊滅した禁域。まともな傭兵なら近づきもしない場所だ。それでも王都が調査隊を組もうとしているのは、よほどの理由があるのだろう。

カイルは依頼書から目を離せなかった。周囲の喧騒が遠のき、自分の鼓動だけが耳の奥で鳴っている。掌が汗ばんでいることに気づき、無意識に外套の裾で指先を拭った。父の手記の走り書きが、声もなく蘇った。

——言葉が眠っている。

ここに、眠っているのか。

カイルの手が、依頼書へと伸びた。

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