第3話
第3話
霜が下りた馬具を掌で擦り落とすと、蝋引きの革に爪の先が引っ掛かった。
ラドム北門を出たのは未明、東の空がようやく鉛色に染まりかけた刻だった。貸馬屋から借り受けた鹿毛の牝馬は気性は穏やかだが、荷駄の扱いには慣れている。カイル・ヴェルデは背嚢と父の剣、細縄と鉤爪を括り付けた鞍を二度検分し、冷えた手綱を握り直した。馬の呼気が白く棚引き、門番の持つ角灯が霜の粒を黄色く照らす。——寝てはいけない場所へ行くのだと、薬屋の女に言った自分の声が、まだ耳の奥に残っていた。
街道は北へ一日、そこから東の山岳の麓を縫うように二日半。地図の上では単純な道程だった。だが二日目の夜、カイルは野宿の焚火の前で父の手記を開き、指を止めていた。中ほどの頁。既知のどの言語系統にも属さぬ、という走り書きの下に、一つだけ地名が記されている。「シルン渓谷——書庫の手前」。シルン渓谷は沈黙の書庫の手前十里にある裂け目の別名だった。父は、あの場所まで来ていた。そこから先へ単独で踏み込んだのかどうかは、手記は語っていない。
三日目の昼過ぎ、カイルは渓谷の縁に立っていた。
山の中腹に裂け目のように口を開けた岩の谷。底には枯れた川床が蛇のうねりで走り、その最奥に、黒曜石に似た石で組まれた門が沈んでいた。他の遺跡のように砂に埋もれてはいない。風と時が、この門だけを避けて通ってきたかのようだった。蝋引きの油紙で包んだ火口箱を懐に収め直し、鹿毛の綱を渓谷の入口の松の幹に結ぶ。馬の首筋を一度撫で、背嚢を肩に掛け直した。
——ここからは、一人だ。
門をくぐる前に、カイルは表面の石を指でなぞった。黒曜石に似て見えたのは錯覚で、実際の石質はずっと古い。灰の回廊の祭壇台座と同じ、中期王朝よりさらに遡る時代の、細粒玄武岩。表面には指の腹ほどの深さで文字が刻まれている。変種エルディア文字の層と、その奥に、あの読めぬ文字列。外気に触れた部分は摩耗していたが、奥へ行くほど刻みは深くなるはずだった。父の手記にも、同じ観察が書かれていた。
カイルは火口箱から油を含ませた松明を取り出し、火を点けた。蝋引きの松明は湿気の籠る遺跡でも三刻は保つ。外套の裾を腰帯に挟み、片手に松明、片手に父の剣の柄。背を低くして、門の内側へ一歩踏み込んだ。
外の山気が、石壁の向こうで断たれた。
第一層の通路は、幅六歩ほど。天井は高く、松明の灯りが上に届かない。壁面には層ごとに異なる筆致の文字が、まるで地層のように重なっていた。一番手前は後世の参拝者の落書き。その奥に中期王朝の碑文。さらに奥により古い古層の文字。そして壁の下端三寸ほどの位置に、あの読めぬ文字列が帯のように走っている。空気は冷えきって澱み、呼気が松明の熱に炙られて、唇の縁でひりつく。足音はほとんど反響せず、石の粒が吸い込むように消えていった。
十歩進んだところで、カイルは立ち止まった。
床の敷石の目地が、他より一本分だけ広い。そしてその一本の手前で、壁面の古層文字の一文字だけが、逆さまに刻まれている。
——罠の文言だ。
沈黙の書庫の罠は遺跡自身が刻んだものだと、ベルガー老の蔵書で読んだことがある。刻まれた文字の挙動を逆から辿れば、起動の機構が浮かび上がる。逆文字は「踏むな」の符合。カイルは壁に背をつけ、敷石の外縁を伝って広い目地を跨いだ。背後で微かな風切り音——踏んでいれば、天井から刃の列が落ちていただろう。
三箇所目の罠で、カイルはようやく汗の粒を眉根から拭った。
鉤爪と細縄を使って床の抜け落ちる区画を跳ね渡り、文字の配列が示す順番で壁の窪みに手を当てて扉の機構を開く。その一挙一挙に、頭の底の違和感が、少しずつ形を変えていった。最初は低い水音のようだった震えが、今は細い針を幾本も頭蓋の内側に差し込まれるような感覚に変わっている。読めぬはずの文字列を目で追うたびに、その針は深く沈み、同時にほんの一瞬、文字の意味の縁が掴めそうな錯覚が走った。
吐き気ではない。しかし、こめかみが熱を持って脈打っている。
——違和感が、頭痛に変わり始めた。
カイルは袋から苦い錠剤を一粒取り出し、唾液で飲み下した。金属めいた苦みが舌の奥に沈む。眠ってはいけない場所。その意味が、肉体の側から理解されていくのを感じた。
第一層の最奥、下層への降下口に辿り着いたのは、門をくぐってから三刻ほど経った頃だった。
通路はそこで行き止まりになり、床の中央が円形に切り取られて、縦穴が垂直に落ちている。穴の縁に刻まれた文字列は、これまでで最も密度が高かった。変種エルディア文字が完全に姿を消し、古層の文字と、あの読めぬ文字列だけが、二重螺旋のように絡んで縁を一周している。
カイルは松明を穴の縁に翳し、中を覗き込んだ。
縦穴は深い。松明の光がほとんど届かず、底は闇に沈んでいる。縁に金属の輪が四つ埋め込まれており、これに縄を通して降下する仕組みだとすぐに分かった。輪の周囲の石は、他よりも僅かに摩耗していた。近年、複数の人間がここを通った痕だった。
——三隊。
壊滅した調査隊たちの、最後の通過点だ。
カイルは背嚢を下ろし、細縄を輪に通し始めた。手は機械的に動いている。だが目は、穴の縁の文字列から離れなかった。文字が発する何かが、針の密度を一気に濃くする。こめかみの熱がうなじまで広がり、視界の隅に光の粒が散った。錠剤をもう一粒、口に含む。苦みの奥に、薬屋の女が最後に見せた横顔がふと浮かび、すぐに闇へ退いていった。
縄の結び目を検めようとして、指が止まった。
穴の縁から二歩離れた位置、壁際に、布の塊がある。
最初は落石か、倒れ伏した屍かと思った。だが松明を寄せると、それは積み重ねられた荷の残骸だった。革の背嚢が一つ、金属の器具の断片が数個、千切れた外套の切れ端。そして、一本の細身の角灯。
カイルは剣の柄に手を置いたまま、ゆっくりと近づいた。足裏の敷石が、踏むたびに微かに冷気を返してくる。心臓の拍が、こめかみの熱とずれた律で打ち始めた。
背嚢の革は、まだ新しい。せいぜい半年、長くとも一年内のものだ。第三隊は二年前に壊滅している。第二隊はさらに古い。第一隊は七年前。——この残骸は、どの隊のものでもない。
角灯を拾い上げた。黒く焼けた底面に、油切れで最後の炎が息絶えた痕。側面に、小さな刻印があった。松明の灯りを近づけ、指先で煤を拭う。拭った煤が指の腹で油と混じり、黒い膜になって爪の際に残った。
三本の塔と、その根元を貫く一本の杖。
王都学術院の紋章。
カイルの呼吸が、一度だけ乱れた。
王都からの依頼書に添えられていた紋章と、同じ形だった。だがこの角灯は市販されていない規格の品で、学術院の内部でのみ配布される調査用の特殊装備。つまりこの荷は、学術院が「公に」派遣した三隊のほかに——記録されていない別の誰かが、この遺跡に入り、ここまで来ていたことを示している。
それも、ごく最近に。
角灯を握る掌が、冷たい汗で湿っていた。針の束のような頭痛の中で、しかしカイルの頭の一点だけが、氷のように澄んでいた。煤の黒い膜を親指の腹で一度擦り、無意識に外套の裏地で拭ってから、自分がその仕草をしたことに気づく。痕跡を残すまいとする動きだった。誰に対してか——問う前に、答えは既に喉の奥に張り付いていた。
掲示板に貼られた金貨五十枚の依頼書の裏側に、まだ語られていない層がある。
カイルは角灯を静かに背嚢の横に戻し、縦穴の縁に立った。
細縄の結び目を輪に通し、裾に鉤の重りを結んで、闇の底へ垂らす。縄は、思ったよりずっと深いところで、微かな水音とともに底に触れた。
第二層。
松明を咥え、両手で縄を握る。革手袋越しに麻縄の繊維が喰い込み、肩の筋が張り詰めた。頭痛は去らない。むしろ、穴の底から立ち昇る冷えた空気の中で、針の束が倍の密度になって頭蓋を押してきた。
それでも——いや、だからこそ、降りる理由は増えた。
父の筆跡と同じ文字列が、この遺跡の底で眠っている。
学術院が記録から消した誰かが、この底へ先に落ちている。
カイルは穴の縁を蹴り、身体を虚空へと放った。縄が軋み、松明の炎が下方へと吸い込まれていく。壁面の文字が、降下するカイルの頬の横を、一行ずつ流れ落ちていった。