第2話
第2話
夜が明けても、カイの胸の奥で脈打つものは消えなかった。あの光だ。丘陵の向こうに一瞬だけ灯った青白い閃光が、瞼の裏に焼きついて離れない。眠れぬまま寝返りを打つたび、その残像がちらつき、やがて夜明けの気配とともにカイは薄い毛布を蹴って起き上がった。
倉庫の高窓から差し込む朝の光は、いつもと変わらぬ白さでレグナスの街を照らしている。だが街そのものは、いつもと違っていた。石畳の継ぎ目にひびが走り、大通りに面した仕立屋の看板が片方の鎖を失って斜めに揺れている。井戸端には水瓶を抱えた女たちが集まり、口々に昨夜の地震を語り合っていた。誰かが「こんな揺れは生まれて初めてだ」と言い、別の声が「いや、四十年前にもあった」と返していた。カイは裏口から滑り出し、ギルドの大広間へ向かう。その足取りは、いつもの朝とは違って速い。路地を抜けるたびに冷えた朝の空気が肺を刺し、石壁に反射する靴音が妙に大きく響いた。
大広間は早朝にもかかわらず異様な熱気に包まれていた。
長卓を囲む冒険者たちの声が幾重にも重なり、普段は昼過ぎまで姿を見せない者たちまでが武装して詰めかけている。革鎧の擦れる音、剣帯の金具が鳴る音、そして焦りと興奮が入り混じった体臭が、広間の空気を重く濁らせていた。壁際に押し込められるようにして立つカイの耳に、断片的な言葉が飛び込んできた。
「——東の丘陵が崩れた。地中から何か出てきたらしい」
「遺跡だ。街道を巡回していた騎馬隊が夜明け前に確認した。相当な規模だと」
遺跡。その一語が、カイの背筋を貫いた。昨夜読んだ冒険記録の文字が、まるで焼印のように脳裏に浮かぶ。東部丘陵の地下に、いまだ知られざる遺構あり——六十年前の記述が、一夜にして現実となったのだ。手のひらに汗が滲む。心臓の鼓動が耳の奥で鳴っているのを、カイは自覚していた。
ギルドマスターのヴェルナーが二階の手すりから身を乗り出し、野太い声で広間を制した。灰色の髭を蓄えた巨躯の老人で、かつてはA級冒険者として名を馳せた男だ。その声には、酒場の喧騒すら一息で鎮める重みがある。
「静まれ。事態は把握している。——東部丘陵第三区の斜面が崩落し、地下遺構の入口が露出した。規模、年代、内部の状況、いずれも不明。よってギルドはA級冒険者による調査隊を編成する」
広間にどよめきが走った。A級の名が呼ばれるたびに、周囲から敬意と羨望の入り混じった視線が注がれる。カイは壁に背を預けたまま、その一つ一つの名前と顔を記憶に刻んだ。六人。レグナスに常駐するA級冒険者のうち、すぐに動ける全員だった。
「出立は本日正午。荷運びと記録係を含め、随行要員を若干名募る。報酬は日当制、ギルド規定に準ずる」
荷運び。
カイの心臓が跳ねた。見習い登録もできない身では冒険者としての参加は論外だ。だが荷運びならば——雑用係としてギルドに出入りする自分にも、僅かながら可能性がある。指先が冷たくなるのを感じながら、カイは人垣をすり抜け、受付の前に立った。
「荷運びに応募します」
受付係の女が怪訝な目を向けた。カイの痩せた体躯を上から下まで眺め、鼻を鳴らす。
「あんた、ギルド登録は?」
「ありません。ですが倉庫の装備管理を二年間やっています。荷の扱いには慣れています」
声が震えないよう、腹の底に力を込めた。受付係の視線は冷ややかで、その瞳にはカイの姿が小さく映っている。倉庫番の少年。冒険者ですらない子供。そう言いたげな沈黙が、カウンター越しに重く横たわった。
「登録のない者を調査隊に——」
「構わん」
背後からの声に、受付係が姿勢を正した。マーヴィンだった。カウンターの内側に回り込みながら、書類に何事かを書き付けている。
「倉庫番としての勤務実績がある。随行要員の資格要件に登録の有無は含まれていない。俺が確認した」
マーヴィンの目がカイを見た。その視線の奥に、昨日の倉庫での沈黙が横たわっていた。保証人にはなれない。だが、規約の隙間から差し込む細い光になら手を添えることができる。カイはその意味を理解し、深く頭を下げた。頭を上げたとき、マーヴィンはもうカイを見ていなかった。次の書類に目を落とし、何事もなかったかのようにペンを走らせている。カイは唇を噛み、踵を返して準備に走った。
正午。
レグナスの東門から調査隊が出発した。A級冒険者六名を中心に、記録係、薬師、そして荷運びのカイを加えた総勢十一名。カイの背には自分の体の半分ほどもある背負子が括り付けられ、中には予備の松明、縄、保存食、簡易の救急具が詰め込まれていた。革紐が肩に食い込むたびに、これが現実なのだと実感が沸き上がる。門を出るとき、衛兵が調査隊に軽く敬礼をした。その視線がカイの上で一瞬止まり、怪訝そうに眉が動いたが、何も言わずに通してくれた。
街道を外れ、東部丘陵に向かう獣道に入ると、景色が一変した。
丘陵の稜線が不自然に欠けている。まるで巨人が地面を一掴みにして抉り取ったかのような崩落痕が、赤茶けた地層を露わにしていた。土煙はすでに収まっていたが、空気の中に乾いた石と古い土の匂いが混じり、カイの鼻腔を刺した。足元では小石が不安定に転がり、一歩ごとにざらりと砂が崩れた。崩れた斜面の底に、それはあった。
石造りの門だった。
高さは大人三人分ほど。崩落した土砂に半ば埋もれながらも、門の輪郭は驚くほど鮮明だった。六十年どころではない。数百年、あるいはそれ以上の歳月を経てなお、風化を拒むかのように稜線が立っている。門柱には見たことのない紋様が彫り込まれ、その意匠は街で見かけるどの神殿の様式とも異なっていた。
調査隊の足が止まった。歴戦のA級冒険者たちですら、数瞬の間、言葉を失っている。先頭に立つ隊長格の女戦士——グレイスという名だとカイは記憶していた——が低い声で指示を出し始めた頃には、カイの意識は門の紋様に釘付けになっていた。
紋様が、光っている。
いや、光っているという表現は正確ではなかった。紋様の線が、まるで血管のように微かに脈動し、その奥から淡い燐光が滲み出しているのだ。昨夜、丘陵の地平に見た青白い光と同じ色——名前のない、古い色だった。光は呼吸のように満ち引きを繰り返し、そのたびにカイの胸の奥で何かが共鳴するように震えた。
カイは周囲を見回した。冒険者たちは門の構造や周辺の地盤を確認し、薬師は空気の質を調べている。誰一人として、紋様の光に気づいている様子がない。
自分の目にだけ見えている。
その認識が、背筋に冷たいものを走らせた。同時に、抗いがたい引力がカイの足を門へ向かわせようとする。脈動する紋様が、まるで呼吸するように明滅を繰り返していた。門の向こうから風が吹いた。地下の冷気を含んだその風は、長い歳月を閉じ込めた石室の匂いを運び、カイの頬を撫でて通り過ぎた。風の中に、かすかに甘い——花とも鉱物ともつかない——不思議な香りが混じっていた。
「おい、荷物持ち。突っ立ってないで松明を出せ」
冒険者の一人に呼ばれ、カイは我に返った。背負子から松明の束を取り出し、手渡していく。指先が微かに震えていたが、幸い誰も気に留めなかった。
調査隊は門をくぐり、遺跡内部への降下を開始した。
石段が地下へと螺旋を描いて続いている。松明の炎が壁面を照らすと、そこにも門と同じ紋様が刻まれていた。カイの目には、それらすべてが微かに明滅して見えた。脈動は歩を進めるごとに強くなり、まるで地の底にある心臓に近づいているかのようだった。石段の一段一段が、驚くほど均一に削り出されている。何百年も人の足が踏まなかったはずなのに、角は丸みを帯びず、ひび一つ見当たらない。松明の光が届かない螺旋の先から、低い、地鳴りのような音が断続的に響いてきた。風ではない。石そのものが唸っているかのような、重く深い振動だった。
カイは唇を引き結び、震える手で背負子の紐を握り直した。恐怖はある。だがそれ以上に、胸の奥で燃え続けてきたものが——倉庫の片隅で読んだ記録の一行一行が、古い外套にくるまって見た夢が——今、足元の石段と繋がろうとしている。
この先に、何がある。
答えは地の底で待っている。松明の列に連なるカイの影が、螺旋の闘の中へ長く伸びて消えた。