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ギルドのネズミと禁忌の刻印

第1話 第1話

第1話

第1話

誰もその名を呼ばない少年が、今日も冒険者ギルドの裏口から滑り込んだ。

朝靄がまだ石畳に薄く漂うレグナスの街路を、カイは足音を殺して歩いてきた。大陸東端に位置するこの交易都市は、五つの街道が交わる要衝として栄え、冒険者ギルドには日ごと腕に覚えのある者たちが集まる。だが彼らの誰一人として、裏口の軋む音に振り向きはしない。カイの存在は、倉庫に棲みついた鼠と同じ程度にしか認識されていなかった。

「おい、ネズミ。B-12区画の革鎧、全部に油を塗っとけ。昼までだ」

受付横の長椅子で朝酒を傾けていた冒険者が、顔も上げずに言った。安物の麦酒の匂いが漂い、男の使い古された長剣が長椅子の脚にだらしなく立てかけられている。カイは黙って頷き、倉庫の奥へ向かう。十四の歳にしては痩せすぎた体躯、陽に灼けた褐色の肌。唯一目を引くのは、薄汚れた外見に不釣り合いなほど真っ直ぐな眼差しだけだった。

革鎧の手入れは、カイが最も得意とする雑用のひとつだった。獣脂を薄く伸ばし、繊維の目に沿って擦り込んでいく。指先に脂の温度が馴染むまで掌で練り、革の呼吸を確かめるように一枚ずつ触れていく。冒険者たちは面倒がってやらないが、これを怠れば革は硬くなり、いざという時に体の動きを妨げる。カイはそれを、倉庫の片隅で読み耽った古い冒険記録から学んだ。

「丁寧にやるな、相変わらず」

声がした方を見上げると、ギルドの受付係マーヴィンが木箱に腰を下ろしていた。四十がらみの元冒険者で、膝を痛めて前線を退いた男だ。ギルドの中で、カイに人間として口をきく数少ない一人だった。

「冒険記録に書いてあったんです。ブレイヴ・カーティスの北部遠征記に——寒冷地では鎧の手入れを怠った者から死ぬ、と」

「カーティスか。渋いところを読んでるな」マーヴィンは目を細めた。「あの記録はもう三十年以上前のものだぞ」

「でも、書いてあることは今でも正しいです」

カイの手は止まらない。油を塗り終えた革鎧を棚に戻し、次の一枚を取り出す。その手つきには、雑用と呼ぶには似つかわしくない丁寧さがあった。

マーヴィンはしばらくその手元を見つめてから、小さく息を吐いた。

「——カイ。お前、また見習い登録の申請を出しただろう」

手が止まった。カイは顔を上げず、ただ唇を引き結んだ。指先に残った獣脂の感触が、急に冷たく感じられた。

「ギルドマスターのところに書類が上がってきた。三度目だ」

「はい」

「結果は同じだ。保証人がいない。身元を証明する者がいない以上、ギルドの規約で——」

「わかっています」

カイの声は静かだった。怒りでも悲しみでもない、もっと深いところで諦めと抵抗がせめぎ合っているような、そういう静けさだった。握った布の端が微かに震えていたが、それを悟られまいとするように、カイは手を膝の上に置いた。胸の奥で、三度書いた申請書の文面が繰り返された。一度目より二度目、二度目より三度目と、少しでも説得力を増すように言葉を選び直したのだ。結果は、何も変わらなかった。

マーヴィンは言葉を探すように視線を泳がせた。倉庫の天井を見上げ、また手元に視線を落とし、それから少し掠れた声で言った。

「……俺が保証人になれれば話は早いんだが、受付係には資格がない。現役のC級以上の冒険者でなければ——」

「マーヴィンさんのせいじゃないです」カイは革鎧に視線を戻した。「規約は規約ですから」

それきり、二人の間に沈黙が降りた。倉庫の高い窓から差し込む光の中を、埃が静かに舞っている。遠くの大広間から、冒険者たちの笑い声と酒杯の触れ合う音がくぐもって聞こえてきた。あの喧騒の中に、カイの居場所はない。

マーヴィンが立ち上がり、出口に向かいかけて振り返った。

「……あまり遅くまで読んでいるなよ。蝋燭の火で倉庫を焼かれたら、俺の首が飛ぶ」

その言葉が、読むなという禁止ではなく黙認であることを、カイは理解していた。小さく頭を下げる。マーヴィンの足音が遠ざかり、倉庫に再び静寂が戻った。

日が暮れると、カイの本当の時間が始まる。

雑用をすべて片付け、冒険者たちが酒場へ流れていった後の倉庫は、カイだけのものになる。棚の奥に隠してある古い冒険記録の束を引き出し、荷台の上に広げる。蝋燭の芯に火を移すと、黄昏色の光が羊皮紙の上に揺れた。

今夜手に取ったのは、六十年以上前に書かれた記録だった。表紙は剥がれ、虫に食われた頁も多い。だが残された文字は、カイの目にはどんな宝石よりも鮮やかに映った。

『——東部丘陵の地下に、いまだ知られざる遺構あり。壁面の紋様は既知のいかなる文明にも属さず、その様式は我々の理解を超える。ここに記録を残し、後の探索者に託す』

カイは頁を繰る指を止めた。東部丘陵——レグナスからそう遠くない場所だ。この記録を書いた冒険者は、六十年前にその遺構を見つけながら、それ以上の調査を行えなかったらしい。以降の記録には、この遺跡に関する続報は見当たらない。

まだ、誰にも見つかっていない場所がある。

その想像だけで、胸の奥に熱いものが込み上げた。カイには剣の技も魔法の才もない。保証人もなく、冒険者になる道は閉ざされている。だが古い記録を読むたびに、世界の広さが頁の向こうから押し寄せてきて、この倉庫の壁が息苦しくなるのだ。

いつか、自分の足で歩いてみたい。

誰かの荷物を持つのでも、誰かの残飯で腹を満たすのでもなく。自分の目で遺跡を見て、自分の手で未知に触れたい。その願いがどれほど途方もないものか、カイ自身がよく知っていた。知っていて、なお手放せないでいた。

蝋燭の炎が揺れ、影が壁を這った。羊皮紙の束を丁寧に元の場所に戻し、カイは荷台の上で膝を抱える。毛布代わりの古い外套を引き寄せると、革と埃の匂いが鼻を突いた。これがカイの寝床だった。天井も壁も他人のもの、足元の木箱も棚の装備もすべて借り物の世界で、カイが自分のものだと言えるのは、この胸の奥の、消えない熱だけだった。

目を閉じる。意識が眠りに沈みかけたその時——

足元から、微かな震えが伝わってきた。

最初はギルドの地下貯蔵庫で酒樽でも倒したのかと思った。だが震えは止まらない。荷台が軋み、棚の装備が小さくかちゃかちゃと音を立てる。地震だ。レグナスでは珍しくないが、今夜のそれは妙に長く、そして深い。まるで大地の遥か底で、何かが寝返りを打ったかのような。振動が骨を伝い、歯の根が鳴った。棚から革手袋が一つ落ち、乾いた音を立てて床に転がった。

カイは荷台から降り、倉庫の窓に駆け寄った。裸足の踵が冷えた石床を蹴る感触が、夢ではないことを告げていた。格子の隙間から外を覗くと、夜空の下に広がるレグナスの街並みは静まり返っている。だがその先——東の丘陵の方角に、カイは見た。

地平線の縁が、一瞬だけ青白く光ったのだ。

それは雷とは違った。もっと低く、もっと古い光。大地そのものが脈動したような、そんな光だった。光が消えた後も、網膜にその色が焼きついて離れなかった。青でも白でもない、名前のない色。見たことがないはずなのに、懐かしいとすら感じる、不思議な光だった。

カイの心臓が跳ねた。今夜読んだばかりの記録が脳裏をよぎる。東部丘陵、未知の遺構、既知のいかなる文明にも属さない紋様——。

まさか。

窓の格子を握る指に力が入った。鉄錆の匂いが掌に移り、冷たい夜風が頬を撫でた。街は眠っている。あの光に気づいた者が他にいるのかどうかもわからない。だがカイの全身は、今まで感じたことのないほど冴えていた。眠気は完全に吹き飛び、心臓の鼓動が耳の奥で響いている。

震えはやがて収まり、青白い光も二度とは現れなかった。街は再び静寂に包まれ、何事もなかったかのように夜が続いていく。だが窓辺に立ち尽くすカイの目は、東の闇を射抜くように見開かれたままだった。

あの光の下に、何がある。

答えのない問いが、胸の奥の熱と重なって脈打ち始めていた。冷えた石床の感触も、格子に食い込む鉄の痛みも、今のカイにはどこか遠い。意識のすべてが東の丘陵に引き寄せられ、暗闇の中にもう一度あの光が灯るのを、息を詰めて待っていた。

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