第2話
第2話
翌朝のギルド庁舎は、夜明け前から人で溢れていた。
昨夜の地震と古戦場の陥没は、ヴェルデンの住人すべてが目撃した異変だった。庁舎の広間には冒険者や傭兵が詰めかけ、掲示板の前で声高に議論を交わしている。壁際の長椅子に腰を下ろしたグラオは、その喧騒を外套の影から眺めていた。眠りは浅かった。背中の疼きは夜通し消えず、目を閉じるたびにあの青白い光が瞼の裏で明滅した。だが朝になれば、それも仕事の一部に過ぎない。
ギルドマスターのヴォルフが広間の壇上に立った。白髪を短く刈り込んだ壮年の男で、右目を覆う革の眼帯が古い戦傷を物語っている。彼が片手を挙げると、広間のざわめきが潮の引くように静まった。
「昨夜の陥没で、古戦場の地下に大規模な空洞が露出した。斥候の報告では、人工の構造物——おそらく聖堂か、それに類する遺構が確認されている」
聖堂、という言葉に広間がどよめいた。ヴォルフは構わず続ける。
「調査隊を編成する。戦闘要員八名、術師二名、斥候一名。報酬は一人あたり銀貨二十枚、前金五枚。ただし地下遺構の危険度は未知数だ。命の保証はせん」
志願者が次々と名乗りを上げた。グラオは最後に立ち上がり、受付の羊皮紙に印だけを押した。名前の欄は空白のままだ。受付の若い書記が困惑した顔で見上げたが、隣にいたドルクが「灰色で通じる」と笑って済ませた。
調査隊は正午に東門を発った。
陥没地点までは徒歩で二刻ほどの道程だった。春を待つ枯野を踏み分けて進むと、やがて空気が変わった。草が生えていない。土が黒い。数百年前の戦場跡は、いまだ大地に傷を残していた。所々に朽ちた杭や錆びた鉄片が土から覗き、踏みしめるたびに乾いた骨のような音が足裏に返った。
陥没口は、想像以上に巨大だった。
大地がそっくり抜け落ちたように、直径百歩はある円形の穴が黒々と口を開けている。縁は脆く崩れかけ、覗き込めば十数丈の深さの底に、灰色の石組みが見えた。アーチ状の天井、崩れかけた列柱。紛れもなく人の手による構造物だった。陽光が穴の縁から斜めに差し込み、石壁に刻まれた文様をかすかに照らしている。文様は古エルディア文字に似ていたが、調査隊の誰も読める者はいなかった。
ギルドの斥候が先行して打ち込んだ鉄杭に縄を結び、調査隊は一人ずつ地下へ降りた。グラオは三番目に縄を握った。掌に食い込む麻縄の感触を確かめながら、闇の底へ身を沈めていく。陽光が遠ざかるにつれ、空気が冷え、湿り気を帯びた。石の匂い。水の匂い。そしてその奥に、もう一つ——甘く重い、腐敗とも花ともつかない異質な匂いが鼻腔の奥に触れた。
足が床に着いた。
松明の火が石壁を舐めると、地下聖堂の全容が薄闇の中に浮かび上がった。幅は二十歩、奥行きは松明の光が届かないほど深い。天井は三丈ほどの高さがあり、列柱が左右に並んで回廊を形づくっていた。柱の表面には蔦のような装飾が彫り込まれているが、よく見ればそれは蔦ではなく、剣と剣が絡み合う意匠だった。床石の継ぎ目には青白い苔が薄く光っている。昨夜、城壁から見えた光の正体はこれだった。
「術式が生きている」
調査隊の術師——まだ若い、痩せた男——が声を震わせた。「数百年前の術式が残存しているなど聞いたことがない。この聖堂そのものが、何らかの封印機構だ」
先頭を進む斥候が片手を挙げ、隊列が止まった。前方の闇の中で、何かが動いた。石と石が擦れ合うような音。松明の光が届いた瞬間、それが姿を現した。石の獣だった。聖堂の壁から剥がれ落ちるようにして現れた四足の像が、赤い光を宿した双眸でこちらを睨んでいる。石像守護獣。遺構に残された防衛機構の成れの果てだった。
一体ではなかった。柱の影から、壁の窪みから、次々と石の獣が這い出してくる。三体、五体、七体。動きは鈍いが、石の体躯は剣を弾き、拳では砕けない。
「散開! 関節の繋ぎ目を狙え!」
調査隊の隊長が叫び、前衛が剣を抜いた。グラオも抜剣したが、隊列には加わらなかった。壁際に身を寄せ、石像の動きを見極める。二体目の石像が前衛の盾を弾き飛ばし、隊員が壁に叩きつけられた。グラオはその隙に走り込み、石像の首と胴を繋ぐ継ぎ目に剣先を突き入れた。乾いた音とともに頭部が転がり、赤い光が消える。正確で、無駄がなく、容赦のない一撃だった。
戦闘は長くは続かなかった。石像守護獣は術式の劣化で本来の力を失っており、調査隊の練度があれば十分に対処できた。だが隊員の何人かは手傷を負い、術師が治癒の術式を施す間、隊列は小休止を余儀なくされた。
グラオは剣についた石の粉を払いながら、奥へ続く回廊を見つめた。青白い苔の光は、奥へ進むほど強くなっている。空気の匂いも濃くなった。あの甘く重い、異質な匂い。それは魔力の匂いだと、かつて傭兵団の術師が教えてくれた。濃密な魔力が長い年月をかけて空気そのものに染みつくと、こういう匂いになるのだと。
回廊を進むにつれ、罠が現れ始めた。床石が沈み込んで壁から石の槍が射出される圧力式の罠。天井から落下する鉄格子。列柱の間に張り巡らされた、触れた者の魔力を吸い取る術式の糸。斥候が先行して罠を見つけ、術師が無力化し、前衛が残留する石像を排除する。調査隊は慎重に、しかし着実に聖堂の深部へと進んだ。
グラオは隊列の最後尾を歩いた。殿を務めているわけではない。単に、誰の背中も見たくなかっただけだ。前を歩く者の背中を見ると、かつて自分の前を歩いていた仲間たちの背中を思い出す。広い背中、狭い背中、鎧の傷、外套の継ぎ当て。そのどれもが、今はもうない。
最深部に辿り着いたのは、地下に降りてから三刻ほど経った頃だった。
回廊が途切れ、広い円形の部屋が開けた。天井は高く、ドーム状に組まれた石がかろうじて形を保っている。壁面には戦の場面を描いた浮き彫りが並び、鎧兜の兵士たちが剣を掲げ、竜と獣に立ち向かう姿が石の中に凍りついていた。部屋の中央には石の祭壇があり——
その祭壇に、一振りの剣が突き立てられていた。
青白い光は、そこから放たれていた。
剣は刀身の半ばまで祭壇の石に埋まり、露出した鋼は数百年の時を経てなお曇りひとつなかった。柄には装飾らしい装飾がなく、簡素だが、その簡素さがかえって異質だった。まるで飾りなど必要としない——それ自体が意志を持つかのような存在感を放っている。松明の火が近づくと、刀身の光が僅かに強くなった。呼応するように。あるいは、警告するように。
「これは……」
術師が息を呑んだ。「書庫の写本で読んだことがある。聖剣伝承。選ばれし者にのみ抜ける剣。まさか実在したのか」
調査隊に緊張が走った。隊長が慎重に祭壇を観察し、罠がないことを確認させた。術師が祭壇の周囲を検分し、危険な術式の痕跡がないことを告げた。だが誰も剣には触れようとしなかった。聖堂の守護獣、罠の数々を潜り抜けてきた歴戦の者たちが、この剣の前では足を止めている。畏れではなく、本能的な警戒だった。理屈ではない何かが、触れるなと囁いている。
沈黙を破ったのは、調査隊の前衛を務めていた壮年の戦士だった。隊でも随一の腕を持ち、石像守護獣との戦闘でも先陣を切った男だ。
「俺が確かめる」
隊長が制止する間もなく、戦士は祭壇に歩み寄り、剣の柄に手を伸ばした。
指先が柄に触れた瞬間、光が爆ぜた。
白銀の閃光が円形の部屋を満たし、全員が目を灼かれて顔を覆った。光の中で戦士の叫びが聞こえた。それは苦痛の叫びではなかった。もっと根源的な——存在そのものを拒絶された者の、絶望の声だった。
光が収まったとき、戦士は祭壇の前に膝をついていた。剣に伸ばした右腕は——肘から先が灰になっていた。灰は風もないのに静かに崩れ落ち、石の床に薄く広がっていく。骨も肉も残らない。まるで最初からそこには何もなかったかのように、腕が消失していた。
戦士は残った左手で肘の断面を押さえ、声もなく震えていた。断面からは血も出ていない。灰化した組織が傷口を塞いでいるのか、あるいはもっと別の——人の理解を超えた何かが作用しているのか。
「退け! 祭壇から離れろ!」
隊長の怒号が響いた。術師が駆け寄り、治癒の術式を試みるが、灰化した腕は戻らなかった。失われたものは癒せない。治癒術とはそういうものだと、術師が唇を噛みながら告げた。
グラオは壁際に立ったまま、祭壇の剣を見つめていた。光が収まった今も、刀身はかすかに脈打つように明滅している。あの光の中で一瞬だけ見えたものがある。刀身に浮かんだ文字。古エルディア文字とも違う、もっと古い——この大陸に人が住む以前から在ったのではないかと思わせるほど古い文字列が、白銀の光の中で踊るように明滅していた。
そして、背中の火傷痕が再び疼いた。昨夜よりも強く。まるで何かに呼ばれているように。
剣が、こちらを見ている。
理屈ではなかった。鋼に目はなく、刃に意志はない。そう知りながらも、グラオの全身がそう告げていた。あの剣は自分を見ている。品定めするように。値踏みするように。あるいは——待っていたかのように。
隊長が撤退を宣言した。負傷者を抱えてこれ以上の調査は不可能だと。隊員たちが安堵と恐怖の入り混じった顔で踵を返す中、グラオは最後まで祭壇の前に立っていた。青白い光が灰色の外套を染め、剣の明滅と背中の疼きが同じ拍動を刻んでいることに、彼はまだ気づいていなかった。