第3話
第3話
隊列が動き始めていた。
負傷した戦士を両脇から支え、術師が応急の術式で痛みを抑えながら、調査隊は来た道を戻ろうとしていた。松明の火が揺れるたびに、回廊の壁に刻まれた剣の意匠が生き物のように蠢く。誰もが口を閉ざし、足音だけが湿った石の床に反響していた。戦士の右腕があったはずの場所を、誰も見ようとしなかった。焼けた肉の匂いがまだ回廊に漂っている。甘く、吐き気を催すような匂い。術師の少年が一度だけ口元を押さえたが、すぐに表情を殺して術式の詠唱に戻った。
グラオは動かなかった。
円形の部屋の入口に立ったまま、祭壇の剣を見つめている。隊列が回廊の奥へ遠ざかり、松明の光が薄れていく。青白い苔の光だけが足元を照らし、剣の放つ明滅がグラオの顔を白銀に染めては暗闇に沈めた。
「灰色、何をしている。置いていくぞ」
ドルクの声が回廊の向こうから届いた。苛立ちと不安が入り混じった声。グラオは応えなかった。視線は剣に据えたまま、背中の火傷痕が刻むように疼くのを感じていた。脈打つような痛み。一定の間隔で、まるで何者かがこちらの心臓の拍動に合わせているかのように。疼きは肩甲骨の間から背骨に沿って広がり、腰の奥にまで染みていく。五年間、この痛みとともに眠り、ともに目覚めてきた。
あの戦士は拒絶された。腕を差し出して、灰にされた。
だがグラオの中に恐怖はなかった。あるのは奇妙な既視感だった。かつて傭兵団にいた頃、戦場で幾度も死線を越えた。死に近づくほど思考は冷え、感覚は研ぎ澄まされ、余計なものが削ぎ落とされていく。今がまさにそれだった。剣は自分を見ている。見ているなら、確かめるだけだ。
「報酬の剣がこれなら——」
呟きは独り言だった。誰に聞かせるでもない。グラオは外套の前を払い、祭壇へ向かって歩き始めた。
「確かめる価値がある」
足音が石の床に響いた。一歩ごとに青白い光が強くなる。苔ではない。剣そのものが光を増していた。近づく者を拒むのではなく、迎えるように。あるいは試すように。祭壇まであと五歩。三歩。背中の疼きがもはや痛みの域を超え、熱を帯び始めていた。灰燼の牙の焼き印が焼け爛れた夜と同じ熱。だが足は止まらなかった。
右手を伸ばした。
指先が柄に触れた瞬間——世界が白く弾けた。
あの戦士のときと同じ閃光。だが灰化は来なかった。代わりに、光がグラオの右腕を駆け上がり、肩を越え、全身を包み込んだ。白銀の奔流が灰色の外套を内側から照らし、瞳の奥まで浸透していく。痛みはなかった。あったのは圧倒的な重さだった。大陸そのものを背負わされたような、途方もない質量が右手を通じて流れ込んでくる。膝が折れそうになった。歯を食いしばり、柄を握る指に力を込めた。視界の端が暗く滲み、意識が一瞬遠のく。だが手だけは離さなかった。離すことだけが、唯一許されない選択だと本能が叫んでいた。
剣が、祭壇の石から抜けた。
拍子抜けするほど、軽かった。
あれほどの重さは嘘だったのかと思うほど、手の中の剣は自然に馴染んだ。しかし刀身を見た瞬間、グラオは息を呑んだ。鋼の表面を白銀の光が走り、先ほど一瞬だけ見えた古い文字列が次々と浮かんでは消えていく。文字は読めない。だがその中の一箇所だけ、空白があった。何も刻まれていない余白が、まるで何かを待っているかのように光の中で静かに呼吸していた。
光が収束していった。白銀の輝きが刀身に吸い込まれるように薄れ、円形の部屋には再び青白い苔の光だけが残った。グラオは剣を握ったまま立ち尽くしていた。右手が微かに震えている。それは恐怖ではなく、剣から伝わる振動だった。鋼が——脈打っている。心臓の鼓動のように、規則的に、確かに。
そして、声が聞こえた。
聴覚ではなかった。鼓膜を震わせる音ではなく、頭蓋の内側に直接刻み込まれるような声。古い声だった。遠い声だった。いくつもの時代を越えて届く、錆びた鎖を引きずるような響き。
——汝、六つの名を集めよ。
グラオは目を見開いた。声は続く。
——六つの名が揃わぬまま四つの季節を越えれば、剣は器を焼き、世界を灰燼に帰す。
灰燼。その言葉が胸の奥で反響した。灰燼の牙。灰になった仲間たち。灰色の通り名。灰ばかりが自分に纏わりつく。
——選定は成った。盟約なき器は、やがて砕ける。
声が途絶えた。残ったのは鋼の脈動と、圧倒的な静寂だった。
グラオは剣を下ろし、刀身を見つめた。白銀の光はすでに消え、鍛えられた鋼の地肌だけが苔の青白い光を淡く映している。しかし握った右手を離そうとして——離せなかった。指が柄に張りついているのではない。もっと深い場所で、この剣と自分の何かが繋がってしまっている。手を開く意志はある。だが身体がそれを拒んでいた。まるで右腕ごと剣の一部になったかのように。
「おい、灰色——」
ドルクが回廊の向こうから戻ってきた声が、突然途切れた。円形の部屋の入口に立ったドルクの目が、グラオの右手に握られた剣を捉えた瞬間、赤ら顔から血の気が引いていくのが暗がりの中でも分かった。
「抜いた、のか。あの剣を」
グラオは答えなかった。答える言葉を持たなかった。六つの名を集めよ。さもなくば剣は世界を焼く。その言葉の意味を、まだ噛み砕けていなかった。
ドルクが隊列へ走り戻る足音が聞こえた。やがて回廊の奥からざわめきが伝わってくる。驚愕、困惑、畏怖。それらが混ざり合った声が石壁に反響して、意味のない残響になって耳に届く。グラオはそのどれにも関心を向けなかった。
見つめていたのは刀身の空白だった。何も刻まれていないその余白が、さきほどの声と繋がっているのだと直感していた。六つの名。六つの空白。そこに名が刻まれなければ、剣は世界を灰にする。
どういう仕組みかは分からない。分かっているのは、この剣がもう自分の手から離れないということだけだ。
調査隊が戻ってきた。隊長の厳しい顔、術師の恐怖に強張った目、隊員たちの距離を置いた視線。グラオと剣の間に何が起きたのか、誰も理解していなかった。ただ、あの戦士の腕を灰に変えた剣を握って平然と立っている男の姿が、畏怖と警戒を等分に呼び起こしていた。
隊長が低い声で言った。
「その剣を持って地上に出ろ。ギルドマスターに報告する。判断はヴォルフに委ねる」
地上に戻ったとき、陽光が目を刺した。数刻ぶりの太陽。地下聖堂の青白い闇に慣れた瞳が、春前の薄い光にすら悲鳴を上げた。冷たい風が地下の湿気を頬から剥がし、枯れ草の匂いが鼻腔を満たした。地上の空気はこんなにも軽かったかと、今さらのように思う。
グラオは右手の剣を見下ろした。地上の光の下で見る刀身は、地下で見たときよりも無骨で、古びて見えた。だが握る掌に伝わる脈動は変わらない。鋼が生きている。そしてその鼓動の奥に、あの声の残響がこびりついていた。
——汝、六つの名を集めよ。
集めなければ世界が焼ける。集めるとは何を意味するのか。名とは誰の名なのか。聖剣の声はそれ以上を語らなかった。
調査隊が陥没口から這い出てくるのを待つ間、グラオは枯野に立ち尽くしていた。右手の剣。離れない剣。選ばれたのだと頭では理解している。だが選ばれたいと望んだ覚えはない。報酬は銀貨二十枚のはずだった。手に入ったのは、離れない剣と、意味の分からない使命と、世界を焼くという脅迫だ。
割に合わない。
だがそう思う一方で、背中の火傷痕が初めて疼きを止めていた。地下に降りてから絶え間なく脈打っていたあの痛みが、剣を握った瞬間から嘘のように消えていた。傭兵団を失ったあの夜から五年、一日たりとも忘れたことのなかった痛みが。
まるで剣が、その記憶ごと受け止めたかのように。
ヴェルデンの砦壁が西日に赤く染まっていた。調査隊の帰還を知らせる角笛が鳴り、東門が開く。門番の兵士がグラオの右手に目を留め、一瞬だけ身を強張らせたが、隊長の手振りで通行を許した。その門をくぐるとき、グラオは知らず右手に力を込めていた。離せない剣を、初めて自分から握り直していた。