第1話
第1話
砦町ヴェルデンの西門が軋みながら閉じるとき、夕陽が門兵の鉄兜を赤く染めた。
その光の残滓を背に受けて、一人の男が石畳を踏んでいた。革の外套は旅塵にまみれ、腰に佩いた長剣の柄革だけが、使い込まれた滑らかさで鈍く光っている。護衛任務の帰りだった。辺境の交易路に出没する野盗を三日かけて追い払い、商隊を無事にヴェルデンまで送り届けた。ただそれだけの仕事。名乗る必要もなければ、感謝される謂れもない。
商隊の長が追いすがるように声をかけた。
「待ってくれ。せめて名前を——次もあんたに頼みたい」
男は振り向かなかった。右手を軽く挙げて応えたが、それは別れの合図だった。報酬の銀貨は既に受け取っている。それ以上の繋がりは要らない。商隊の長の声が背中で途切れ、やがて荷車の車輪が石畳を軋ませる音だけが遠ざかっていった。男はその音が完全に消えるまで、一度も歩調を変えなかった。
ヴェルデンは大陸北辺の要衝にある砦町だ。帝都から遠く離れた辺境ゆえに王国の威光は薄く、代わりに冒険者ギルドと傭兵稼業が町の血流を担っていた。城壁に囲まれた町の中心には石造りのギルド庁舎がそびえ、その周囲を酒場、鍛冶屋、薬草店がひしめくように取り巻いている。夕暮れどきの通りには、任務を終えた冒険者たちの喧騒が満ちていた。
男は喧騒の縁を歩いた。人混みの中心には決して入らない。壁際を、影を、選ぶように進む。長年の戦場暮らしが染みついた歩き方だった。背後に立たれることを嫌い、常に退路を確認する。そうやって生き延びてきた。
酒場「鉄の杯」の扉を押し開けると、麦酒と獣脂蝋燭の匂いが鼻を突いた。煤けた天井の低い店内は、夕刻の客で混み合い始めていた。炉に掛けられた鍋からは羊肉を煮込む湯気が立ちのぼり、油で黒ずんだ壁板に影を揺らしている。奥の隅、壁を背にした席。男はいつもそこに座る。入口と裏口の両方が見え、隣席との間に柱がある。椅子を引くとき、無意識に長剣の鞘が卓の脚に当たらないよう腰をずらした。酒場の女将はもう何も訊かない。黙って安い黒麦酒の杯を置くだけだ。杯の縁には欠けた跡があった。いつも同じ杯だ。男がこの町に流れ着いてから、もう二月になる。
「——で、あの洞窟の奥にドレイクが三匹いてさ!」
隣の卓で、若い冒険者のパーティが声を弾ませていた。四人組。剣士と弓使い、術師らしき少年、それに盾を背負った女戦士。任務の成功を祝っているらしく、杯を打ち合わせる音が絶えない。弓使いの女が剣士の肩を叩き、術師が笑い転げ、女戦士が「飲みすぎだ」と呆れながらも口元を緩めている。
男は目を向けなかった。
向けられなかった。
あの笑い声を、かつて自分も知っていた。仲間と火を囲み、互いの無事を確かめ合い、明日の作戦を語りながら安い酒を回し飲んだ夜を。杯の中の黒麦酒に視線を落とせば、揺れる液面が焚き火の揺らめきに重なる。誰かが肩を叩く感触、名を呼ぶ声、鉄鍋から匙で掬った塩気の強い粥の味。ひとつひとつが鮮明に蘇り、そのたびに胸の奥が握り潰されるように痛んだ。だがそれは遠い昔のことだ。あの夜——炎に包まれた野営地、叫び声、焼け落ちる天幕。目を閉じれば今も背中の皮膚が疼く。左の肩甲骨から腰にかけて走る火傷の痕。傭兵団の焼き印が焼け爛れて潰れた跡だった。
団の名は「灰燼の牙」。大陸北部では名の知れた傭兵団だった。四十人の精鋭。国境紛争から魔獣討伐まで、どんな依頼も受けた。男はそこで育ち、剣を学び、戦い方を覚えた。仲間がいた。信頼があった。
そのすべてが一夜で灰になった。
原因は分からない。いや、分かろうとすることを止めた。目が覚めたとき、野営地は焼け野原で、仲間は一人として息をしていなかった。生き残ったのは自分だけ。なぜ自分だけが生き残ったのかも分からない。分かっているのはただ一つ——名を明かせば、また誰かと繋がる。繋がれば、また失う。
だから名前を捨てた。
戦場で出会う者たちが勝手に呼び始めた通り名がある。灰色。グラオ。外套の色でも、瞳の色でもない。この男の纏う空気そのものの色だった。
「おい、灰色」
声をかけてきたのは酒場の常連、傭兵仲間のドルクだった。赤ら顔の大男で、グラオとは何度か同じ護衛任務に就いたことがある。ドルクは断りもなく向かいの席に腰を下ろした。椅子が大男の体重を受けて悲鳴じみた音を立て、卓の上の黒麦酒がわずかに波立った。
「商隊の護衛、片づいたか。次の仕事、もう決めてるか?」
「いや」
「明日、ギルドに面白い依頼が出る。古戦場跡の調査だとよ。報酬がいい」
「古戦場」
「ヴェルデンの東、半日ほどの場所だ。昔の戦で何千人だか死んだらしい。普段は誰も近づかねえが、最近あの辺りで地鳴りがするって話でな。ギルドが調査隊を組むらしい」
グラオは黒麦酒を一口含んだ。麦の苦味が舌の上で重く広がる。古戦場の調査。報酬次第では悪くない。ヴェルデンでの蓄えもそろそろ底が見えてきた。次の町に移るにも路銀が要る。
「報酬は」
「銀貨二十枚。前金あり。ギルドの調査隊に傭兵枠で加わる形だ」
「受ける」
ドルクは呆れたように笑った。「相変わらず即決だな。中身も聞かねえで」
「金が出る仕事に中身は要らない」
それ以上の会話はなかった。ドルクが席を立ち、グラオは再び一人になった。杯の中の黒い液面に、自分の顔がぼんやりと映っている。誰のものでもない顔。名のない男の、名のない夜。
隣の卓では冒険者たちがまだ笑っていた。女戦士が「明日も早いぞ」と仲間を促し、四人が連れ立って酒場を出ていく。扉が閉まる直前、弓使いの女が振り返り、隅の席に座る灰色の外套の男と一瞬だけ目が合った。何かを言いかけたようにも見えたが、すぐに仲間の背を追って夜の通りへ消えた。
グラオは最後の一口を飲み干し、杯を卓に置いた。欠けた杯の縁が、からんと乾いた音を立てた。
酒場を出ると、夜風が冷たかった。北辺の春はまだ遠い。吐く息がかすかに白く、外套の隙間から忍び込む風が三日分の疲労を肌に思い出させた。星は出ていたが、月は雲に隠れて大陸の縁にうっすらと白い光を滲ませるだけだった。石畳の路地を歩き、宿への角を曲がろうとしたとき——足が止まった。
地面が、揺れた。
最初は微かな震動だった。足裏に伝わる振動。石畳の継ぎ目から砂粒が躍る程度の。だが次の瞬間、それは轟音を伴って本格的な揺れに変わった。腹の底まで響く低い唸りが地の底から湧き上がり、足元の石畳がまるで生き物の背のようにうねった。建物の壁が軋み、屋根瓦が滑り落ちる音が夜の町に響き渡る。酒場から客が飛び出し、民家の窓に灯りが次々と点った。
「地震だ!」
誰かが叫んだ。ヴェルデンは岩盤の上に築かれた砦町だ。地震は珍しくないが、これほどの揺れは人々の記憶にない。子供の泣き声が路地に反響し、犬が怯えたように吠え立てた。グラオは城壁に手をついて体勢を保ちながら、揺れの方角を探った。石壁の振動が掌を通じて腕まで伝わる。東。ヴェルデンの東方から地鳴りが伝わってくる。
古戦場の方角だった。
揺れは長くは続かなかった。だが町中が騒然とする中、東の城壁に立った見張りが、信じられないという声を上げた。
「古戦場の地面が——陥没している!」
グラオは城壁の階段を駆け上がった。冷えた石段を二段飛ばしで登り切り、息を整える間もなく東を望んだ。見張り台から東を望むと、月明かりの下に広がる平原の一角が、巨大な口を開けるように地面ごと沈み込んでいた。土煙が夜空に立ち昇り、その奥から——かすかに、光が見えた。地の底から漏れ出る、青白い光。それは星明かりとも月光とも違う、冷たく脈打つような輝きだった。まるで大地の傷口から何かが滲み出しているかのように、光は土煙の中で明滅を繰り返していた。
それが何であるか、この時のグラオには知るすべもなかった。
ただ背中の火傷痕が、不意に疼いた。もう何年も忘れていたはずの痛みが、まるで警告のように皮膚の下を走る。あの夜——仲間を焼いた炎の記憶と、今目の前で地の底から漏れる青白い光が、どこか根を同じくしているような気がした。理屈ではない。身体が覚えている何かが、その光に反応していた。グラオは無意識に外套の襟を掻き合わせ、東の闇を見据えた。
明日、あの底に降りることになる。
報酬は銀貨二十枚。それだけの話だ。それだけの話のはずだった。