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兵法者レオン、奪還の双頭鴉旗

第2話 第2話

第2話

第2話

中庭の雪は血と松脂の匂いに塗り潰されていた。レオン・ヴェルナーは祖父譲りの長剣の柄を握ったまま、荷車の通る道を避け、馬糧庫の影の縁に背を寄せた。雪解けの夜風が松明の炎を一斉に薙ぎ払い、火の粉が細かく舞い上がる。 「砦総員、配置に就け! 城壁五段、弓矢備えよ!」  副官ハインリヒの怒声が、中庭を縦に貫いた。八十騎の騎兵が鞍を締め直し、馬の腹帯を四度確かめている。蹄が凍った敷石を打ち、火花がちらと走った。馬丁頭の罵声が、馬槽の向こうから雪粒を撥ねて飛んでくる。  レオンの目は、しかし、別の一点に縫いつけられていた。  搬入口を通ったあの荷車。覆い布の下、銀の髪が一筋、雪に触れて青く滲んでいる。  雪に滲む銀。それは鎧の銀でも馬具の銀でもなかった。氷の底に閉じ込められた月光を、誰かが凍ったまま掬い取ってきた、そんな色であった。 「――道を開けよ。軍医殿の通る道だ!」  若い従卒が二人がかりで荷車を医棟へ引きずっていく。覆い布の端から、細い指が一本こぼれた。爪は青白く、関節は骨ばっている。あれは戦人の指ではない。書を捲り、絹を縫い、聖句を辿るために削り抜かれてきた指であった。  レオンは喉の奥に苦いものを覚えた。三年間、馬糞と藁の中で押し殺してきた何か――家筋を奪われた者だけが嗅ぎ分ける、もう一人の家筋を奪われた者の気配であった。  北の地平で、烽火がもう一筋、立ち上がる。鐘楼が再び、長く低く鳴った。

 砦長デリク・ヴァントが城壁から降りてきたのは、その直後であった。三十年北辺に立った男の鎧は、金具のいくつかが凍りついて軋んでいる。デリクは医棟の扉を押し開け、軍医ファルクが少女の喉に布を当てて血を吸い取らせる傍らに立った。 「容態は」 「肩より脇腹に矢が三本。鏃は北方鉄の刺し抜き。出血量から見て、半刻持つかどうか」  デリクの白い髭が、僅かに動いた。 「身につけていた物は」  ファルクが革袋から取り出した銀の鎖を盆に置く。鎖の先には、双頭の獅子と剣を絡ませた紋章。鎖の裏には、古いアルディア文字で短く銘が刻まれていた。  扉の隙間から覗き込んでいた老馬丁ヨハンが、息を呑む。馬糧庫から付いてきたレオンの背を、しわだらけの掌が掴んだ。 「三男坊。あれは――」  老人の声は震えていた。 「アルディア。八年前、皇帝の三度目の親征で滅びたアルディア王家の紋にござる。双頭獅子は、王女より上にしか帯びぬ鎖だ」  レオンは扉の隙間から、医棟の盆を見つめた。少女の喉が、ひゅう、と細い息を継ぐ。瞼の縁から零れた一筋の涙が、銀の睫に凍りついていく。 「ユーリエ。亡き王アルマンドの末娘、ユーリエ・アルディア」  ヨハンが続けた。八年前、王城炎上の夜、修道院船に乗せられて北の海へ落ちた末姫の名は、辺境の馬丁たちのあいだで一冬語り継がれ、それきり消えた噂であった。

 砦の指揮所に、夜半の灯が三つ点された。  楢材の卓を囲んだのは、砦長デリク、副官ハインリヒ、騎兵隊長ボルガー、城壁守備のウーゴ、留守居役の文官アクセル。五人の影が灯火に揺れて壁に落ちる。 「蛮族の本意は、姫だ」  切り出したのはハインリヒであった。 「白狼旗は、北海連合の三部族。八年前のアルディア滅亡の折、皇帝より『血の絶え目を見届けよ』との密命を受けた者どもにござる。姫が修道院船から流れ着いたとあらば、追討の手が伸びるのは道理」 「して、貴官の腹案は」 「引き渡しでござる。九十騎で二百を相手取るは無謀。姫一人の命と、砦の九十騎、旧領民百戸――秤にかけるまでもない」  ボルガーが拳で卓を打った。 「待たれよ。姫を引き渡せば、北方の蛮族は皇帝の犬として手柄を成す。次は我ら辺境砦が『アルディア残党を匿った』咎で、皇都の征討を受ける番だ。引き渡しは、我らの首をも引き渡すに等しい」  ウーゴが顎を撫でた。 「されど、討って出れば確実に砦は落ちる。死んでから後の咎を案じるのは、生者の傲りであろう」  卓の上に、五本の指が交錯した。  文官アクセルが、灯を傾けて羊皮紙を広げる。 「皆様。ひとつ申し上げてよろしいか」  細い声であった。アクセルは元は皇都吏の出で、書類の数字には明るいが、戦場の声には慣れていない。だが今宵、その指は震えてはいなかった。 「砦の備蓄、馬糧、矢、しかと数えましたところ、籠城ならば十二日は持ち申す。雪解けの援軍が二日で来る見込みは、今宵の雪雲では遠のきましょう。されど、籠城の十二日のあいだに、皇都へ早馬を飛ばし、姫の処遇を皇帝の勅命に仰ぐ手も――」 「皇帝の勅命など、見えておる。『絶やせ』の一語よ」 「左様。されど、書面に勅命の写しを得れば、引き渡しても引き渡さずとも、辺境砦の咎は減じまする。証文がないままに引き渡せば、後日『砦は独断で皇命を先取りした』と罪を問われ、引き渡さねば『皇命に背いた』と問われる。どちらを選ぶにせよ、紙が要るのでござる」  卓を囲む四人が、しばし黙した。  デリクは長く息を吐いた。髭の先の氷が、ぱき、と小さく折れる。 「結論は明朝。それまで、姫の身柄は医棟の奥座敷に伏せ、知る者は今宵のこの五人と軍医のみとせよ。砦の馬丁にも、馬糧庫の番人にも漏らすな」  五人の影が、灯火を揺らして頷いた。

 その指揮所の真上、屋根裏の梁に身を伏せていたレオンの掌に、汗が滲んでいた。馬糞掃除の役で雪降ろしの梯子を毎日昇り降りするうちに、砦の屋根の裏側を、彼は脳裡の地図に書き加えていた。指揮所の煙抜き穴は、三年前の修繕で板一枚だけ薄く張り直されている。その板の隙間から、五人の声を、彼は一語残らず拾い上げた。 「……アルディアの末姫」  口の中だけで、音にせず転がした。  父グスタフが毒杯に倒れたのは、皇帝の三度目の親征の前夜、宮廷晩餐の席であった。三度目の親征とは、すなわちアルディア征討。父はその折『アルディアを攻めること、北辺の利にあらず』と上奏文を草し、皇都へ向かったのである。父の死と、アルディアの滅亡は、八年前の同じ冬に重なっていた。  偶然か。  レオンは梁の埃を握りしめる。柄頭のひしゃげた銀細工が、肋骨の下で冷たく当たった。  引き渡せば、姫は死ぬ。父と同じ毒杯か、北方鉄の刺し抜きか。籠城の紙一枚を待つあいだに、刺客は必ず動く。アクセルの「紙の盾」は、辺境砦を守る策であって、姫を守る策ではない。  ならば、誰が、姫を守る策を立てるのか。  麻袋の駒が、頭の中で組み替わっていく。九十騎、二百騎、雪庇の三箇所、谷の括れ。三年間、影と風で測ってきた地形図が、いま、生きた血肉の上に張り出されようとしていた。

 医棟の奥座敷。  燈台の油が、軍医ファルクの白衣の裾に細い影を落とす。寝台に伏せた少女の胸が、布越しに浅く上下していた。ファルクが薬湯を匙で唇に運ぶ。一滴、二滴。三滴目で、少女の喉が、ごく僅かに動いた。 「……父さま」  銀の睫が震え、薄く瞼が開く。氷の底のような、淡い菫色の瞳。寝台の脇の盆に置かれた銀の鎖が、燈台の灯にちらと光った。  ファルクは薬湯の匙を一度置く。 「姫様。ここはヴァントの辺境砦にござりまする。お命は、軍医がお預かりしております。今しばし、お休みを――」  言葉の途中で、廊下の板床が、ぎ、と一度鳴った。  ファルクが匙を取り落とす。

 廊下の角。  砦の修練場で十二年、剣を握り続けてきた一人の男が、鞘を払う指の腹を確かめていた。男の腰の革帯には、皇都吏の印章――黒鉄に象嵌の鷲――が、燈台の灯に鈍く光っている。今宵の指揮所には呼ばれなかった男。名を、ヴェルゼ・カマン。砦長付きの武具係。表向きは、廊下の灯を巡る夜回りの役であった。  男は廊下を一歩、また一歩と詰めていく。靴底に巻いた羊毛が、足音を雪に吸わせる。  医棟の奥座敷の戸口で、男は息を整え、刃を鞘から二寸抜いた。鞘走りの音は、夜風が城壁を撫でる音と、寸分違わず重なっていた。

 北の地平、月のない夜空に、烽火がさらに二筋、立ち上がっていた。  砦の城壁の見張り櫓で、若い物見番が叫ぶ。 「北方の馬蹄、近づきますッ! 三百――いや、二百五十!」  その叫びを、医棟の奥の銀の髪は、まだ聞かぬまま、薄い瞼を閉じかけていた。  屋根裏の梁の上で、レオンは祖父譲りの長剣の鞘を、初めて、外へ滑らせた。

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