第1話
第1話
帝国暦三百十二年、北辺辺境砦・第四馬糧庫。
燭の油が指の腹を伝い、麻袋の繊維に滴った。レオン・ヴェルナーは舌打ちして親指で油を拭うと、厩から盗んだ蝋燭をもう一度床板に立て直した。冷気が床下の隙間から這い上がり、薄い麻の脛巻を貫いてふくらはぎを縮ませる。馬糧庫の二階、梁から吊された干草の影に身を潜め、彼は祖父譲りの兵法書十二巻のうち第七巻――『北方異族征討記』を膝に広げていた。 漆喰の剥がれた壁の前に、麻袋を駒にした陣形が組まれている。中央に三袋、両翼に二袋ずつ。中央の三袋は、わざと撚れた縄で細く繋いであった。 「敵中軍がこの括れに食らいつけば、谷で圧し潰せる――両翼の伏兵には軽弓と松明だけで足りる」 呟きは白く凍って、梁の埃を揺らした。十七の指先は、霜焼けで赤黒く割れている。三年前まで、この指は羊皮紙に羽根筆を走らせていた。父の書斎で、ヴェルナー家三百年の戦記を写し取る、家令見習いの役目であった。 いまは馬糞と汗の、鉄錆びた臭いが鼻に張りつき、舌の奥にはいつも干し草の埃の苦みがある。 「ヴェルナーの三男坊、また兵法ごっこかい」 梯子の下から、馬丁頭の太い嘲笑が上がった。レオンは答えなかった。麻袋の中央の駒を、指先で半歩だけ後ろへ引いた。
ヴェルナー家。北辺一帯に三百年領を保った武門。父グスタフは六年前、皇都の宮廷晩餐で杯一杯の葡萄酒を喉に注いだ翌朝、寝台の上で口の端から黒い泡を吐いて死んだ。長兄ヘルマンは討伐戦で背を射られ、雪解け前に凍土に埋められた。次兄カインは葬儀の三日後、祖父の長剣だけを残して西の街道へ消えた。 残された末子に与えられたのは、二束の継ぎ当ての着替えと、父が生前「お前にだけは渡しておく」と言って差し出した黴の浮いた兵法書十二巻、そして馬糧庫の番人の役目であった。所領「鴉ヶ原」は皇帝直轄領として没収。代わって据えられた成り上がり代官ガルバの徴税が、いまも旧領民の骨を削っているという。 「……三年だ」 レオンは口の中で噛み締めた。三年。馬糧の麻袋を駒に動かし続けた三年。馬丁仲間からは『書物狂い』と呼ばれ、夜ごと蝋燭を盗む咎で殴られたのも一度や二度ではない。それでも兵法書だけは離さなかった。腰に下げた祖父譲りの細身の長剣――鞘の銀飾りはほとんど剥げ、革帯は擦り切れている――の柄頭を、彼は寝るときも握りしめている。 握ると、父の書斎の油煙の匂いと、長兄が膝に乗せてくれた粗末な木馬の手触りが、いまだに指先に蘇るのだ。 木馬は塗りの剥げた栗毛色で、轡のあたりに長兄が小刀で刻んだ『H』の字が斜めに走っていた。ヘルマンの頭文字。幼い夜、その溝を指で辿ることが、レオンの眠り薬だった。いまは祖父の長剣の柄頭にひしゃげた銀細工が、その役目を引き継いでいる。冷えた金属の凹凸が、皮膚の下の小さな火を、辛うじて消さずに保ってくれる。 梁の隙間から差し込む西陽が、麻袋の駒に長い影を落とした。レオンはその影の動きを見て、午後二刻の傾きを読み取る。砂時計も水時計も与えられぬ番人の身では、影と風と馬の鼻息が、彼に与えられた唯一の計器だった。日々この影を測ることで、彼は時刻だけでなく、季節の風向きと、雪庇が緩む斜面の方角まで、頭の中の地図に書き加えてきた。 「いずれ、取り戻す」 声に出さず、唇だけで動かした。怒りを露わにすれば、馬糞掃除に三日多く回される。だから感情は、握りしめた柄頭のひしゃげた銀細工の凹凸として、掌の皮膚に刻みつけることにしている。 「おい三男坊、四隅の藁束を裏返してこい」 梯子の下からまた怒声が飛んだ。馬糧庫の番人は馬丁より下、雑役より下、砦内では捕虜の次に低い位であった。 レオンは兵法書をそっと閉じ、麻袋の駒を一つだけ、右腰の懐に滑り込ませた。意味のない仕草だ。ただ、自分が指揮官であると、そう思える時間を一日に半刻でも作りたかった。降りる途中、彼は梯子の段を一つ飛ばして地に降り立ち、足元に転がった馬具の紐を素早く拾い上げた。馬丁頭が「ほう」と声を漏らした。三年の馬糧庫暮らしで、彼の身のこなしだけは、砦の馬丁の誰よりも軽くなっていた。 兵法書だけを読み続けてきたわけではない。馬の蹄を切る鋏で、闇に紛れて藁束を斬る稽古もした。馬糞の山を踏み越えて足腰を作り、麻袋を肩に担いで梯子を昇り降りすることで、書斎育ちの細い腕に薄い筋を巻きつけてきた。誰にも見せず、見つかれば殴られるとわかっていたから、稽古はいつも夜半、月のない晩を選んだ。鋏の刃が藁束に食い込む手応え、麻袋の重みで膝が震える瞬間、それらすべてを彼は『取り戻す日』のための積立として帳面の代わりに肉に刻んできた。 夕方、北の地平に、薄く青い烽火が一筋立った。 最初に気づいたのは井戸端で凍りかけた水を汲んでいた若い馬丁だった。次に物見櫓の番兵。最後に城壁上の指揮官付き従卒が叫んだ。砦の鐘楼で、非常召集の鐘が鳴った。
「蛮族だ! 北方の!」 従卒が中庭を駆け抜けて叫んだ。鐘の音は三度、四度、五度と重なり、第三打――先鋒接近――を超えて、第五打――砦総員配置――まで撥ね上がった。 馬丁頭はレオンの肩を掴んで突き飛ばすように怒鳴った。 「全馬の鞍を出せ! 三十頭、いや五十頭分! 動かぬ奴は蹴り起こせ!」 馬糧庫の床板に、麻袋の駒が崩れて転がった。レオンは中央の三袋を蹴り、両翼の二袋を真っ先に立て直した。中央が崩れるのは構わぬ。両翼が崩れたら策は成らぬ。指の動きは、頭の中の地形図と完全に一致していた。
砦の中庭。馬の蹄が雪を蹴り、副官たちの怒声が交差していた。 「主敵は何者だ。数は」 「物見の報では、白狼旗。北方蛮族の三部族連合――」 「斥候はまだ戻らぬのか、おい」 「戻りませぬ。途中で討たれた模様」 城壁上を吹き渡る風は、刃のように頬を裂いた。デリクの白い髭の先に、すでに細かな氷の結晶が下がっている。中庭では馬丁たちが鞍を投げ落とし、革帯の金具が凍った敷石の上で甲高い音を立てて滑った。馬の鼻息が白く立ち昇り、雪の上に幾筋もの蹄痕が交差していく。あちこちで嘶きが上がり、半数は熱に浮かされて脚が震えていた。 砦長デリク・ヴァントの声は、三十年戦線に立った男のものらしく、ひび割れて低かった。彼は城壁の三段目に立ち、北の地平を睨みつける。烽火は二筋、三筋と増えていた。 「蛮族二百……いや、二百を超えるか」 「砦の手勢は」 副官は唇を噛んだ。 「百四十。されど半数は冬で病み、馬上で動けるのは九十騎ほどに」 九十対二百以上。砦の備蓄は薄く、援軍は雪解けの泥濘に阻まれて二日は来ぬ。 副官のひとりが声を低めた。 「砦長。今宵、城門に運び込まれた『あの娘』のことが、もし蛮族の追撃の因であれば――引き渡しを検討すべきかと」 デリクは答えなかった。城壁から降りる革靴の音が、雪を踏みしめて鳴る。
同じとき、馬糧庫の入口にレオンは立っていた。鐘の最後の余韻が砦の壁に染みていく。彼は腰の長剣の柄頭を、いつもより強く握っていた。 「――谷だ」 低く呟いた。地形図は脳裡にあった。砦の北二里、第三街道が括れて二頭並びの幅まで狭まる地点。両翼に低い丘陵、東に凍った沢。冬場は雪庇が落ちやすい、地形が地形を斬る場所だ。 「中央を、あの括れまで引き込めば、寡兵で噛み砕ける」 頭の中で、麻袋の駒が、生きた人と馬の重みにすり替わっていった。中央三十騎を餌として括れに引き入れ、両翼の伏兵に落雪を合図として軽弓を放たせる。雪庇は東斜面の三箇所、午後の日射で底がすでに緩んでいるはずだ――三年間、午後の影の長さと風の匂いで雪の厚みを測ってきた目には、その三箇所が地図の上に針を打ったようにはっきりと浮かぶ。あとは、誰がその札を切る役を担うか、ただそれだけの問題だった。 声を聞いた者は、すぐ脇で藁を運んでいた老馬丁ひとりだけだった。老人は不思議そうにレオンを見上げ、それから地平の烽火を見、最後にもう一度、レオンの握りしめた長剣の柄を見た。 「……三男坊」 老人は手の藁束を取り落とした。
砦の搬入口に、軋みを上げて重い荷車が引き入れられた。雪の上に、点々と血の路が引かれている。荷車には外套に包まれた小柄な人影がひとつ。覆い布の隙間から零れた銀色の髪が一筋、雪に触れて溶け落ちた。 その髪の銀は、鎧の鋼や馬具の銀細工とは違う、月光を凍らせて溶かしたような色だった。荷車の車輪は血の路を引きずり、雪の中に細い溝を刻んでいく。覆い布の下で、人影は微かに、しかし確かに息をしていた。胸のあたりが、雪の上から見ても判別できるほどの周期で、ゆっくりと上下している。 「捕えた者の中に、亡国の――」 副官の声を、北風が攫っていく。 レオンは長剣の柄を握り直し、馬糧庫の梯子に背を向けて、中庭へ駆け出した。三年間、麻袋の駒で組み続けてきた陣形が、いま、初めて生きた人馬と冬の地形の上で組まれようとしていた。 北の地平、烽火はもう四筋。 鐘がもう一度、長く、低く、打たれた。