第3話
第3話
梁の埃が、レオンの口の端に落ちた。祖父譲りの長剣の鞘を二寸滑らせたまま、彼は医棟の廊下に響く羊毛の足音を、耳の奥で数えていた。 「軍医殿、姫の容態はいかに」 低く、低く、ヴェルゼ・カマンの声が戸の向こうで問うた。寝室で軍医ファルクが匙を取り落とす音がする。冷えた金気の匂いが、煙抜きの隙間から這い上がってきた。 声を上げれば、姫は死ぬ。声を上げねば、姫は同じく死ぬ。ならば、声を上げる先を変えればよい――。 レオンは梁を強く蹴った。屋根板を踏み抜く音と共に、煤と粉雪が廊下に降る。燈台の炎が一瞬煽られ、ヴェルゼの腰の鷲印章が朱に染まった。男の鞘走りが、二寸戻る。 「砦長デリク殿よりの急使である! 武具係ヴェルゼ・カマン、ただちに城壁三段へ。北物見櫓に不審の灯あり、急ぎ検めよとの仰せ!」 偽りの令であった。されど馬糞の麻袋を三年担ぎ続けた肺は、肋の底から声を太く吐き出すことを覚えていた。廊下の角を曲がって物見番の従卒が「いかがした」と駆けてくる足音が響く。ヴェルゼは舌打ち一つ残し、燈台の輪を出て、廊下の闇へ身を翻した。 レオンは屋根の傾斜を滑り、雪の積もった廂に足を着けた。掌の皮膚に、柄頭のひしゃげた銀細工の凹凸が、いつもより鋭く食い込んでいる。 夜が白む前の二刻――彼は副官ハインリヒの執務室の戸を、馬糧庫の番人の身分のまま、叩いた。叩く拳が震えなかったのは、ほとんど奇蹟であった。
「ヴェルナーの三男坊、何用じゃ。番人は馬糧の隅にて雪を食む役目であろう」 ハインリヒは机に肘を立てたまま、燭の灯に顎を突き出した。蝋の雫が銅皿に落ちる音が、やけに大きく耳を打つ。背後に立つボルガー、文官アクセル、城壁守備のウーゴが、揃って眉を寄せる。蛮族二百五十、夜明けまで二刻。指揮官たちの目は、徹夜の赤を底に沈めていた。部屋には脂と汗と古い羊皮紙の匂いが層をなして淀み、暖炉の熾の爆ぜる音だけが、男たちの沈黙を裏打ちしていた。 レオンは答えず、懐から麻袋の縁糸で結わえた小石十六個を取り出すと、卓上の大絵図に並べはじめた。指先は寒さで赤く膨れ、爪の根に馬糞の黒い線が残ったままだったが、小石を置く動作だけは、賽子を振る博徒よりも迷いがなかった。北辺の街道、第三街道の括れ、東に凍った沢、両翼の低い丘陵――すべてが、彼の脳裡の地図と寸分違わず重なって、絵図の上に再構築されていく。 「中央三十騎を餌に、ここ――谷の括れに引き込みまする。二頭並びの幅にて、敵二百五十が縦に伸び切ったところを、両翼丘陵より雪庇を落とすのでござる」 卓に並んだ小石は、中央三、両翼に各四、後詰に二、伏兵の起点に三。残り一個を、レオンは指の腹で、東斜面の三箇所に順に置いた。石が羊皮紙を擦る乾いた音が、男たちの息を一瞬止めた。 「雪庇の底は、ここ三日の午後の日射で緩んでござる。馬糞掃除の梯子から、同じ斜面を毎日二度ずつ見上げ申した。第一の庇は東二里、岩棚の根本。第二は谷口を半里入った所。第三は谷の出口。角笛三度にて、同時に落とせまする」 ボルガーが鼻を鳴らした。卓を打つ拳の関節が、青く節くれ立っている。 「番人風情が、雪庇の底を見たと申すか」 「番人なればこそ、見えるのでござる。物見櫓は風を測り、騎兵は蹄を測る。されど雪庇の腹は、毎日下から見上げる者にしか測れませぬ」 ハインリヒの瞳が、わずかに動いた。アクセルが羊皮紙の角を、爪でゆっくりと折る。爪の先が紙の繊維に食い込む微かな音を、レオンは聞き逃さなかった。文官の指の運びは、賛同とも反駁ともつかぬ、ただ思考の重さだけを刻んでいた。 「副官殿。砦の九十騎を、籠城の壁の内に飼い殺して二日待つか、谷の口に伏せて二刻で噛み砕くか――どちらが、医棟の刺客より先に手を打てましょうや」 その一言で、レオンは姫の名を口にしなかった。されどハインリヒの肩が、わずかに固まった。喉仏が一度上下し、髭の奥で噛み締めた歯の音が、燭の炎を細く揺らした。 老馬丁ヨハンが、戸口の闇から進み出た。手には、レオンが三年読み続けた『北方異族征討記』第七巻の、革表紙が握られている。革は手脂で黒く光り、背の麻糸はほつれ、頁の小口は番人の指紋で薄茶に染まっていた。 「副官。三年前、グスタフ様が皇都へ発たれる前夜、私めにこの書をお預けなされた。『末の三男坊が読みたがる時が来る。その折は、馬糧庫の番人の言葉として、聞いてやれ』と」 ハインリヒは長く息を吐いた。髭の先の氷が、ぱき、と折れる。 「九十のうち、五十を出す。中央の餌は、馬丁頭ガロより五十騎を率いさせよ。両翼の角笛は――三男坊、お前が吹け」 卓上の小石が、燭の風で一個、転がった。
朝陽は薄く、雪雲の腹を擦るように昇った。第三街道の谷の口、岩棚の根本にレオンは立っていた。腰の長剣は、まだ抜かれていない。代わりに掌には、角笛が二つ――一本は雪庇切り落としの合図用、一本は伏兵発進の用。 東二里の岩棚の影に、ボルガー率いる斬込み二十騎。西の丘陵には、ウーゴの弓兵二十。中央の餌、五十騎は谷の口の手前で、わざと崩れた列を見せていた。馬丁頭ガロが手綱を緩く握る。彼の馬は、口の端から泡を吹いている。馬糞掃除のレオンが、夜半に塩を控えて飼った馬であった。 北の地平から、白狼旗が現れた。一筋、二筋――合わせて八筋。蛮族の三部族連合、二百五十騎。先頭の重騎兵が、餌の五十騎を見て、嘲りの喚声を上げる。喉を絞った獣じみた哄笑が、雪原を渡って岩棚まで届いた。レオンの胃の腑が、氷塊を呑んだように冷えた。怖れではなかった。三年間、麻袋の駒で何百回も組み立ててきた光景が、いま現実の重みを帯びて目の前に立ち上がってくることへの、震えのような確信であった。 「来るぞ」 レオンは呟いた。指先は霜焼けで割れ、角笛の銅縁に薄く血が滲む。鉄錆と己の血の味が、唇の端に薄く広がった。 ガロが片手を上げた。五十騎が一斉に馬首を返し、谷の括れへと退却の素振りを見せる。蛮族の中軍は、即座に乗った。乗らずにはおれぬ速さで、雪を蹴って追ってきた。二頭並びの幅へ、敵の縦列が押し込まれていく。蹄が踏み砕く凍土の音が、谷の岩肌に反響して幾重にも重なった。 一頭、十頭、五十頭。 縦に伸び切った敵の中軍が、谷の腹に深々と差し込まれた瞬間、レオンは第一の角笛を吹いた。短く、鋭く、三度。肺の底を絞り上げた音が、岩肌を打って二里先まで走った。 東斜面の岩棚の根本で、ボルガーの伏兵が、用意の松明を一斉に雪庇の底へ突き入れた。緩んだ底は、火と振動を待っていた。三箇所、ほぼ同時に、雪庇は腹を裂いた。 最初は、息のような音であった。次に、地が低く唸った。第三に、岩を抱えた雪の塊が、谷の北斜面を、白い雪崩となって滑り落ちた。 蛮族の縦列の半ばに、雪と岩の壁がぶつかった。馬の悲鳴が、二里向こうの砦の城壁まで届く太さで上がった。先頭の重騎兵は谷の出口で、後尾は谷の入口で、それぞれ別の壁に塞がれた。 レオンは第二の角笛を吹いた。長く、低く、二度。 西の丘陵から、ウーゴの弓兵が、雪塵に足を取られた敵の縦列めがけて軽弓を放った。鏃は北方鉄ではない。砦の備蓄の柳鏃である。されど、雪庇の下で身動きできぬ的に、柳鏃は十分に深く刺さった。 馬丁頭ガロの五十騎が、退却の素振りを返し、雪を蹴って谷の括れの口へ突っ込んでいく。三部族連合の頭目とおぼしき毛皮帽の大男が、雪の壁の前で馬を旋回させようとして、自らの兵に押し潰された。
谷の腹に立ち上った雪煙が、朝陽に撹かれて金色に染まったとき、レオンはようやく長剣の鞘を握り直した。 「噛み砕け」 声に出さず、唇だけで動かした。三年、麻袋の駒で組み続けてきた陣形が、いま、雪と血と馬の重みの上で、息をしていた。 二里向こうの砦の城壁で、デリクの白い髭が、谷から立ち上る煙を見つめていた。隣にハインリヒ。その背後、医棟から運ばれた寝椅子の上で、銀の髪のユーリエが、薄い瞼を細く開いて北の地平を眺めていた。彼女の指が、寝椅子の縁を、ゆっくりと握りしめる。爪は青白いままだが、握る力は、昨夜の比ではなかった。 谷の底で、最後の蛮族の馬が、雪の壁に脚を取られて崩れ落ちた。 そしてその同じ刻、皇都の方角から、まだ誰の目にも届かぬ早馬が一騎、雪解けの泥濘を蹴って北辺へ向かっていた。鞍の革袋に納められた漆封の勅書には、ただ一行――「アルディアの末葉、絶やせ」と、皇帝の筆が、黒々と乾きはじめていた。