第3話
第3話
天幕の油布が、暁の風に鳴り続けていた。
クラリスは床几を勧められたまま、立っていた。膝は震えていない。震えていないのは、震える前に背骨へ鋼線が一本通ったからである。革紐は、すでに繊維の半ばを爪で解き終えていた。あとはひと撚り、肘をひと振りすれば、紐は手首から落ちる。だが、彼女はそれをしなかった。解けたと知れば、男はもう一度、別の縄で縛り直すだけだ。──解けたまま結ばれている、という形が、いまの彼女には必要であった。
地図の盤の傍ら、ジークハルト・ローエンガルトは青銅の駒の一つを指で立てた。鷲の徽(しるし)を彫った駒である。中指の爪先が、駒の翼の縁をなぞる。爪は短く切り揃えられ、手の甲には新しい擦り傷が一筋。剣胼胝(けんだこ)の位置は、父の手と寸分違わぬ場所にあった。
「首か、契りか」
声は同じ、若鷹のそれである。
「お前の答えを聞く前に、こちらの条件を読み上げる。──書記、写本を」
副官ヴァイクの後ろから、墨の匂いがする若い書記が一人、進み出た。紙は仔牛の皮を漉いた羊皮紙、縁に未だ血の沁(し)みが薄く残っている。──南方山脈を越えた前後で、別の家の起請文が書かれた紙の使い回しだ。クラリスは、その血の沁みを、墨の罫線として読み替える眼を覚えた。
「一、ヴェルナ家家督クラリス・ヴェルナを、レーゲン王国軍第三軍団長ジークハルト・ローエンガルトの正妻に迎える」
書記の声が、湿った油布の天井を低く渡った。クラリスの肩甲骨の下で、鋼線がもう一本、軋んだ。
「二、ヴェルナ旧領アッシュフェルト北郷の地、ならびに祖父ラルフ卿の城址、城兵召集の権を、婚姻と同時に夫の所領として併合す」 「三、家系図の写本ならびに紋章、家訓の写しを、レーゲン本国の家令所に納め、写本の正本は家督が保管す」
書記は紙を巻き戻し、もう一段、低く読み上げた。
「四、家督が婚姻を拒みし場合は、家督ならびに病臥の前家督ガレル・ヴェルナを、軍法に照らして処断す」
四の文字が、天幕の中で乾いた音を立てて落ちた。クラリスは盤の駒を見た。屋敷の真上から本陣脇へ動かされた駒、その隣に、別の駒が置かれていた。父を担ぐ天幕の駒だ。──駒は二つ並んで、初めて互いの脈を測る。
「軍法、と仰せか」 「捕囚の家督が婚姻を拒めば、私領併合は剣で為す。剣で為せば、屋敷は焼く、村は灰となる、井戸には毒が落とされる。──それが、軍法である」
ジークハルトは盤に身を伏せたまま、視線だけを上げた。眼は黒くなく、ただ、深い灰の色をしていた。鉄を一度水に入れ、もう一度炉に戻した時に出る、あの色である。
「焼かぬ、毒を投ぜぬと、夜のうちに副官に下知したのは、お前の屋敷だけだ。隣領アッシュフェルトの侯邸は、すでに井戸を埋めた。──ヴェルナ家には、その下知を、別途、しておらぬ」
つまり、契らねば、井戸は埋まる。
クラリスは唇の内を噛んだ。歯の縁で、薄い皮が裂け、鉄の味が舌に広がった。父の喀血の朝に嗅いだのと同じ匂いである。彼女は、その味を、噛んで飲んだ。呑むな、噛め──祖父ラルフの手記の一節が、もう一度、頬骨の裏で鳴った。
「条件の、五は」 「五、左様。──ヴェルナ家家督は、第三軍団の軍議に、末席を以て臨席するの権を有す。発言、進言、起案、いずれも妻の権として認める」
書記の指が、五の条の下に朱印を押した。朱の蝋が、紙の上で爪の形に固まっていく。
「軍議に、末席」 「お前の祖父ラルフ卿は、北方辺境の地形を最も読んだ将であった。お前は祖父の手記を、毛布の下で読み返したな。──盤の駒の動きが、いま、お前に読めておる」
低く、笑いとも吐息ともつかぬ音が、ジークハルトの喉から漏れた。観察者の眼であった。眼はいま、彼女の解けかけた革紐をも見ていた。見ていて、何も言わぬのである。
「契らば、父御は軍医の手で生き延びる。屋敷は焼かれぬ。井戸は埋まらぬ。村は鋤(すき)を握ったまま春を越す。──家系図は、お前の手元に残る」 「契らねば」 「父御は、夜明け前に処断す。家系図は、私の文鎮に、もう一枚加わる」
文鎮の鉄に削り潰された紋の痕──鹿、樫、双剣、狼の半欠け。狼は、ヴェルナ家の紋である。半欠けの紋に、男の指が触れた。指の腹で、その鉄の凹凸を撫でた。──祖父の名を鋳潰した文鎮を、男は、毎朝、地図の縁に置いて眺めるのだ。
「軍神」
クラリスは口を開いた。声が掠れたが、語尾は、震えなかった。
「契りを為したとて、私が夜陰に紛れ、御身の喉を裂かぬと、何故お思いか」 「思うておらぬ」 「では」 「それでよい、と思うておる」
ジークハルトは盤の駒を、もう一つ、動かした。本陣脇の駒の隣に、鷲の駒を並べる。
「私が裂かれれば、家系図はお前の手に残り、領は併合の名目を失い、お前は寡婦として領を継ぐ。──それでも、屋敷は焼かれぬ。井戸は埋まらぬ。レーゲン王国軍は、未亡人の領は焼かぬ軍である」
その一言が、クラリスの胸の底で、扇の骨を、もう一度、軋ませた。
「証文を、こちらへ」
クラリスは、革紐に縛られた両手を、腹の前から差し出した。
「読みまする」
ヴァイクが床几を盤の脇へ運び、羊皮紙を伏せて置いた。書記は墨壷の蓋を開け、新しい筆を一本、湯で湿らせた。クラリスは座らず、立ったまま、紙の上に身を伏せた。羊皮紙の縁の血の沁みに、彼女の睫毛の影が一瞬だけ落ちた。
一の条、二の条、三の条。──四の条で、彼女の指は、紙の縁を一度、外した。父の名が書かれていた。ガレル・ヴェルナ。先代家督、現病臥。処断の二字が、その名の下に小さく並んでいた。彼女は四の条を、二度、読み返した。読み返して、五の条へ進んだ。
「軍議の末席に発言の権を認められし家督は、レーゲン王国の故事にござるか」 「ない」 「なき故事を、紙に書くか」 「書く。──書けば、故事となる」
筆の毛先が、紙の上に落とされた。書記が、彼女の手首の革紐に手を伸ばす。クラリスは、それを、目だけで止めた。
「解かずに、よい」
革紐は、繊維の半ばを爪で解いてある。あと一捻りすれば落ちる。落とせば、書記の前で、自分が屋敷で何を考えていたかを、男に読ませることになる。読まれてよい、と思った。否、読まれた方が、よい、と思った。
筆を、革紐の下から、指で挟んだ。中指と薬指の間に、筆の軸を一度通し、親指の腹で押さえる。秤の目盛りを読む指は、筆の軸の癖も読む。彼女は墨壷から穂先を引き上げ、五の条の下、彼女の名を書く欄に、筆を運んだ。
クラリス・ヴェルナ。
字は、震えた。震えたが、止まらなかった。最後の「ナ」の払いが、紙の縁で、わずかに跳ねた。書記が小刀を差し出した。短く磨かれた、儀式用の刃である。
クラリスは小刀を受け取った。革紐の下に、左の人差し指の腹を差し出し、刃を当てた。皮膚が、刃を一度、押し返した。押し返した皮を、もう一度、刃が押した。今度は、皮が裂けた。血が、ひと珠、人差し指の腹に膨らみ、ふた珠目で、紙の上へ落ちた。
落ちた血は、五の条の朱印の隣に、彼女の名の真下に、ひとつの円を作った。円の縁が、羊皮紙の繊維に沿ってわずかに歪み、円ではなく、羽のような形になった。
血判は、押すのではない、沈めるのだ──祖父の手記の、別の一節が、もう一度、頬骨の裏で鳴った。彼女は人差し指の腹を、円の上に、深く沈めた。指の腹の温度で、血と紙の繊維が一度溶け合い、押し上げた指の下に、爪の形が残った。爪の縁の白い線まで、紙はそれを写し取った。
ジークハルトは、それを見ていた。観察者の眼で、彼女の指の腹の温度と、紙の繊維の沈み方と、爪の縁の白い線を、ひとつずつ目盛りに掛けて、見ていた。
書記が小刀を引き取り、紙の縁を絹布で拭った。羊皮紙の血の沁みが、また一筋、新しく加わった。書記は紙を巻き、紐を結んだ。紐は、麻ではなく、革であった。革は、濡れると締まる。
「ヴェルナ家家督、クラリス・ローエンガルト・ヴェルナ。──正妻として、本日より第三軍団の本陣に在らしむ」
ヴァイクの声が、天幕の油布の下で、低く渡った。クラリスは、革紐に縛られた両手を、もう一度、腹の前で組んだ。指の腹の血は、まだ、紙の上の円の中で温かかった。
天幕の出口で、夜明けの色が変わっていた。
霜の白が、地平の縁から朱に染め上げられていく。アッシュフェルトの焼け跡から立ち上る煙は、もう細い。代わりに、本陣の炊き出しの煙が、三本、四本と、青く立ち上った。兵糧の麦を煮る匂いが、革帯の油の匂いを、ようやく押し戻しはじめていた。
クラリスは、ヴァイクの先導で、本陣の隣の天幕に通された。妻の天幕、と男は短く呼んだ。中には寝台が一つ、炭火の鉢が一つ、湯桶が一つ。湯桶の縁に、絹布が一枚、新しく畳まれて置かれていた。
革紐は、解かれなかった。
クラリスは寝台の縁に腰を下ろし、左の人差し指の腹を、右の掌で包んだ。血は、もう乾きかけていた。乾きかけた血の縁から、皮膚の奥の冷えが、骨へ向かって遡っていく。指の先が、踝が、膝が、順に、温度を失っていく。
天幕の油布が、もう一度、風に鳴った。
その鳴りの間隙(かんげき)に、別の足音が、出口の前で止まった。鉄具足の足音である。爪先が、入口の鉄鋲の手前で、ひと息、ためらった。──ためらったのは、その夜、初めての音であった。