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銀匙の姫と黒甲冑の鬼神

第2話 第2話

第2話

第2話

夜明け前、霜の匂いが廊下に這っていた。

クラリス・ヴェルナは父の寝台の脇に座り、湯桶の縁で布を絞っていた。指先の感覚はとうに麻痺している。樫の床板が冷気を吸い、絞った布から滴る水滴の音だけが、屋敷の沈黙に針を立てた。父ガレルの胸はわずかに上下を繰り返している。鎖骨の影が皮の下で浅く動き、息継ぎのたびに喉の奥で粘った音が鳴った。

「お嬢様」

廊下の角からマルタが声を投げた。蝋燭の燃えさしを片手に提げた老女中の輪郭は、もはや屋敷の漆喰と同じ色に溶けつつあった。

「東門の番所に火が見えまする。──二町(にちょう)、いや、もう一町を切っておりましょう」

クラリスは布を桶に戻し、寝台の脇の燭台を吹き消した。煙の細い帯が、まだ星の残る窓へ吸われていく。蝋を消すのは灯火管制ではない。火影で寝台の主の輪郭が外から透けるのを避けるためだ。父の枕の下、彼女は祖父ラルフの家系図を絹布で巻き直し、麻紐で括った。革表紙の角が薬箪笥の縁に当たり、乾いた音を立てる。

「マルタ。井戸の蓋を、内から閂(かんぬき)で締めなさい」 「毒を、投じられぬためで」 「逆。──向こうが投じぬよう、こちらの井戸は生きていると見せるのよ。生きた井戸は、占領軍にとって財貨と同じ」

マルタの皺の中で、瞳がわずかに揺れた。返事の代わりに、老女中は燃えさしを廊下の鉄燭台に挿し、節くれた指で十字を切った。

廊下の彼方、玄関広間で扉の閂が呻いた。村長が昨夜のうちに二重に渡したばかりの、樫の閂である。だが、樫は鉄に勝てぬ。

正門の外、暁の靄を踏みしめて、第三軍団の前哨が並んでいた。

副官ヴァイクは鞍上で手綱を絞り、霜に灼けた柵越しに屋敷を眺めた。漆喰は剥げ、北側の塔に雨樋がない。代々の主が誇った狼の紋章は、扉の銅板から鏨で削り落とされ、痕だけが影となって残っていた。──主は、銀器を売る前に紋章を売ったか。それとも、紋章を売る前に銀器を売ったか。順を見れば、家の終わり方は読める。ヴァイクは長く軍にあって、それを知っていた。

「乱暴は無用。井戸を汚すな。穀倉に火をかけた者は鞭打ち十回、女子供に手をつけた者は首」

第三軍団長ジークハルト・ローエンガルトの軍令である。ヴァイクは手袋を握り直し、鉄の槌を振った。

樫の閂が裂けた。

蝶番ごと押し開かれた扉から、鎖帷子が床板を擦る音が雪崩を打って屋敷の腹へ流れ込む。具足の留め金が肋骨ほどの金属音を撒き、革帯の油の匂いが、漆喰の黴と父の枕辺の白檀をたちまち押しのけた。先頭の兵は槍を低く構え、続く兵は、扉口に銀器の秤と分銅をひと瞥して鼻を鳴らした。──家中(うち)の銀は、すでに尽きておる。略奪兵の鼻は犬と変わらぬ。

クラリスは寝台の前に立った。素足の裏が床板の冷たさを吸い上げ、踝(くるぶし)から腿へ、震えにならぬ震えが走る。背骨の奥を一本、鋼線が走る感覚があった。父の枕辺で何度も読み返した祖父の手記の、ある一節を彼女は思い出していた。──恐怖を呑むな、噛め。呑めば腹で暴れる、噛めば顎の力に変わる。

「父は病臥にござる。手は触れさせぬ」

声が、自分でも思わぬほど低く出た。喉の奥が乾き、舌が口蓋にひと瞬間だけ貼りついた。それでも、語尾は震えなかった。先頭の兵が槍の石突を床板に叩きつけ、奥の隊長らしき胸甲の男が薄い笑みを刻んだ。胸甲の縁に泥と血の混じった筋が走り、その下で、彼の喉仏がゆっくりと一度上下した。

「家督を、軍団長に引見させる。歩けぬなら、寝台ごと運ぶ」 「歩けぬのは、見ての通り」 「ならば、寝台ごと──」

兵の手が父の毛布へ伸びた。革手袋の指の節が毛布の縁を掴むその一瞬を、クラリスは異様にゆっくりと見た。指の関節の節くれ、手首の腱、爪の下に詰まった黒い土。──戦場の土だ。彼女は寝台の脇の鉄燭台を掴み、その腕を打ち据えた。鈍い音と、骨の悲鳴。蝋の溶けた残りが床板に飛び、白い斑点を散らした。隊長の笑みが消えた。次の瞬間、彼女の襟首が革手袋に絞り上げられ、踵が床板を離れた。喉笛に皮の縁が食い込み、視野の縁が黒く滲む。耳の奥で自分の鼓動が、井戸の底に落とした石のように、遠く、重く鳴った。

「お嬢、様──」

マルタの叫びが、誰かの肘で遮られた。鈍い音と、老いた骨が壁に当たる音。クラリスは目だけでその方角を追ったが、視野の縁の黒さがそれを許さなかった。

兵たちは寝台の四隅を抱えた。父の唇から、薄い血の糸が顎へ流れた。クラリスはその糸を見た。鉄の匂いが、再び白檀を裂いた。──祖父の家系図は、毛布の下、父の腰の脇に。布越しに、革表紙の角が父の腰骨を押し上げているのが、彼女にだけ見えた。寝台が持ち上げられた瞬間、その角が一寸ほど位置をずらし、毛布の襞の下へ沈んだ。見つかるな、と彼女は唇の内で噛んだ。見つかれば、父より先に、紙が裁かれる。

縄が、彼女の手首に巻かれた。麻ではない、革紐である。革は濡れると締まる。締まれば、肉に食い込む。

兵は彼女を屋敷の外へ引き出した。庭の砂利が裸足の踵を裂いた。砂利の一粒一粒が、母が植えた薔薇の根方から運ばれた白いものだと、彼女は唐突に思い出した。父の寝台は、四人の兵に肩で担がれて、別の方角へ運ばれていく。北──陣中の野戦病院の方角。クラリスはそれを目で追った。追って、目で追うことしか、できなかった。喉の奥に、声にならぬ「父上」が、骨のように引っ掛かった。

「父上を、丁重に。──薬は、私の腰帯の左です」

革手袋の隊長が、彼女の腰帯から薬包を抜き取った。一包を陽に透かし、軽く嗅いで、頷いた。指先で紙の縁をひと捻りし、中身を半分ほど別の包みへ移してから、残りを革袋へ落とした。──毒見を兼ねた割り取りだ、と彼女は読んだ。軍医に届く前に、まず誰かが舐める。

「軍医に届けよう。命の沙汰は、軍団長が決める」

馬車ではなく、徒歩であった。野営は屋敷から半里も離れていない。アッシュフェルト平原の縁、街道を見下ろす丘陵に、第三軍団の天幕が三十あまり、銀の鷲の旗の下で寝息を揃えていた。旗の縁が暁風にひと折れし、鷲の片翼が一瞬、首を刎ねられた鳥のように見えた。

クラリスは、革紐を締められた手首を、もう一方の指でひそかに探った。革と肉の間、血の脈の上に、節くれた爪を立てる。胼胝(たこ)の硬い縁を、革の継ぎ目に擦り合わせ、繊維を解いていく。秤の目盛りを読む指は、結び目の癖も読む。逃げるためではない。──手が動かせるという感触を、自分の中に残しておくためだ。指先のひと節ごとに、父の脈、祖父の家系図、井戸の蓋、薬包の重み──失われたものと、まだ失われていないものを、ひとつずつ数え直す。

軍団本陣の天幕は、外周の三倍の油布で葺かれていた。入口の鉄鋲を踏み越えると、内は冬の馬小屋ほどに暖かい。炭火の鉢が二つ、盤の脇に据えられ、赤い熾(おき)が呼吸のたびに明暗を繰り返した。中央に矩形の盤が据えられ、北方辺境の地形図と、駒に見立てた青銅の小片が散らされている。地図の縁を、鉄の文鎮が四つ抑えていた。文鎮は、いずれも敵将の認め印を鋳潰したものだと、クラリスは祖父の記憶で知っていた。鉄の表面に、削り潰されてなお残る紋の痕──鹿、樫、双剣、そして狼の半欠け。最後のひとつを目に止めた瞬間、彼女の指の動きが、ほんの一拍だけ止まった。

奥に、男が一人。

兜は脱いでいた。黒檀の頬当ての影が消えると、現れたのは年若い顔である。眉は薄く、頬骨は高く、左の眼の下に古い鉄の擦り痕。──二十四歳のはずだ、と彼女は記憶を辿った。皇国軍に先んじて南方山脈を越え、半年でアッシュフェルト侯の三家を屠った男。黒甲冑の鬼神、ジークハルト・ローエンガルト。

「跪け、と言うのを、忘れていた」

声は低くはなかった。むしろ涼しい、若鷹のような声である。語尾に湿りがなく、戦場の煤(すす)も酒の濁りもない。

「言うのを忘れたから、跪かずともよい。──椅子を出してやれ」

副官ヴァイクが床几を運んだ。クラリスは座らなかった。革紐に縛られた両手を腹の前に組み、視線だけを盤の上に走らせた。青銅の駒の配置──南の街道沿いに七つ、北の山道に三つ、屋敷の真上に一つ。一つは、自分だ。盤の北東の隅、駒のない空白に、白墨でうっすらと丸が描かれている。──次に獲るべき家、と彼女は読んだ。盤を読む眼を、男はすでに彼女に許していた。許したのか、試したのか、それは判らぬ。

「ヴェルナ家家督、クラリス・ヴェルナ嬢で相違ないか」 「相違ござらぬ」 「父御は、軍医の手に。命は、保つ」

クラリスの手首で、革紐がわずかに緩んだ。緩めたのは、爪ではなく、安堵の脈であった。脈が膨らみ、革と肉の間に隙が生まれ、繊維が一本、また一本と、自ら解けていく。彼女はそれを止められなかった。

ジークハルトはそれを見た。見て、薄く笑った。笑いの形を、クラリスは初めて見た。父を奪った男のそれは、皮肉でも軽蔑でもなく、ただ──観察者の笑いであった。観察者の眼が、彼女の手首に巻かれた革紐の繊維を、一本ずつ読んでいた。盤上の駒を読むのと同じ眼で、彼女の脈と、彼女の指と、彼女の沈黙の長さを、ひとつずつ目盛りに掛けていた。

「家系図は、父御の毛布の下にあった。革表紙、二段目の写本──祖父ラルフ卿の蔵から、お前が今朝、巻き直したものだな」

胸の底で、扇の骨が、鋭く軋んだ。麻紐の結び目までは見ていまい、と彼女は咄嗟に計算した。だが、巻き直した時刻まで言い当てられた以上、見ていないという前提は捨てねばならぬ。

ジークハルトは地図の上に身を伏せ、青銅の駒を一つ、屋敷の真上から、本陣の脇へ移した。駒が地図の網目を擦る、乾いた音がひとつ、天幕の中に落ちた。

「ヴェルナの家名と血。──私の剣と兵。明朝までに、お前は二つのうち一つを選ぶ。首を刎ねるか、契りを結ぶか」

天幕の油布が、暁の風に鳴った。

クラリスは、革紐の食い込んだ手首を、もう一度、爪の縁で探った。革は、もう、解けかけていた。

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