第1話
第1話
銀の重みが、掌の窪みに食い込んだ。
クラリス・ヴェルナは、祖母の遺した魚切り用の銀匙を秤に載せ、商人の値踏みを待った。錆びた天秤が傾き、青銅の分銅が三つ、四つと積まれていく。商人の指は脂で光り、爪の間に銀の粉が黒く沈んでいた。
「奥方さま、これで二十二枚目で。前回の燭台と合わせて、ようやく八十リーブル」 「足りぬ」 「足りるも足りないも、銀の値は王都が落ちれば紙切れと同じで」
帝歴七二二年、四月。ヴェルナ家屋敷の玄関広間には、もはや敷物の一枚すら残っていない。剥がした毛氈の跡の漆喰がじくじくと黴の匂いを放ち、床板の継ぎ目から春の風が吹き上がってくる。北方辺境、かつて千の槍を従えた祖父ラルフ・ヴェルナの居館である。
クラリスは十六。組んだ指は、農婦のように節くれだっていた。三月までは絹の手袋でこれを隠したが、その手袋も先週、麦三斗と引き換えに村の機織女へ譲った。
「父上の薬代は」 「医者へ五十リーブル、煎じ薬に十五。残りは葬式代に取っておおきなさいまし」
商人は冷えた鉄の口調で言い、銀貨を麻袋へ流し込んだ。袋の口を絞る紐の音が、空の広間を鋭く渡る。商人は麻袋を肩へ担ぐと、軋む床板の上を、跫音を惜しむかのように足早に歩み去った。残されたのは、秤に載ったままの銀匙の冷たい光と、商人の靴底が擦り付けた泥の跡だけである。クラリスは銭袋を腰帯に結び、扉に手をかけた。蝶番が軋む。──と、その瞬間、地平の方角から、低く重い響きが届いた。
馬蹄。一頭ではない。二十、三十、いや百を越える。
クラリスは扉を閉め直した。蝶番の悲鳴が止む。屋敷の窓は、どの方角も同じ景色を見せた──麦の穂が伸びはじめた畑、畑の向こうの森、森の向こうの山並み。その山並みの裾を、土煙が一筋、東から西へと這っていく。レーゲン軍の伝令か、それとも先鋒か。
「お嬢様」
背後で老女中マルタが声を潜めた。皺の中に埋もれた瞳に、まだ怯える力だけは残っている。
「旦那様が、お呼びでございます」
階段は十七段。クラリスは幼い頃、これを駆け下りる遊びでよく祖父に叱られた。いま、一段ごとに膝の関節が冷たく痛む。煮溶かしたような鶏の出汁と、麦粥ばかりの冬を越したからだ。
父の寝室では、隅の香炉が焦げた香木の煙を細く上げていた。甘い白檀の匂い。残された最後の一片であった。寝台の天蓋を覆っていた絹の帷もすでに剥がされ、剥き出しの梁の影が天井に格子を落としている。父ガレル・ヴェルナは枕に頭を傾け、痩せた指を毛布の縁に這わせている。頬骨の上に張った皮膚は、蝋燭の光を透かして黄ばんで見えた。
「クラリス。──馬の音が、聞こえたな」 「東街道です。レーゲン軍の先触れかと」 「王都は」 「先月の便りでは、まだ城門は閉ざされておりました。ですが、もう」
父の喉仏が上下した。咳が来るかと身構えたが、漏れたのは細く長い息だけだった。クラリスは寝台の脇に膝をつき、父の手の甲に自分の額を押し当てた。指の節に、剣胼胝の名残がある。三十年前、皇国軍に従って南方の山岳を越えた指だ。
「父上。銀器は、今日で売り尽くしました」 「うむ」 「明日からは、椅子と書物を町へ運びまする。祖父様の書架の革装本は、レーゲン人の好事家が高く買うと聞きました」 「書架の、奥の」
父の声が掠れた。クラリスは耳を寄せた。
「奥の、二段目。革表紙の家系図だけは、売るな」 「はい」 「あれは、ヴェルナ王家の血脈を辿った唯一の写本ぞ。お前が、いつか──」
言葉は咳に呑まれた。マルタが急いで湯桶を運んでくる。クラリスは父の背を支え、痰を吐かせた。粘り気のない、薄い血が混じっていた。鉄の匂いが、白檀の煙を裂いた。父は再び枕に身を沈め、薄く目を閉じた。瞼の下で、眼球がわずかに揺れている。クラリスは、湯桶の底に沈んだ赤い澱を、ただ見つめていた。
その夕刻、村の鐘が乱打された。
鐘は通常、火事を知らせる時にだけ二打ずつ鳴らされる。だがその日の鐘は、間断もなく、息継ぎもなく、ただ打ち鳴らされていた。クラリスは父の枕元を離れ、屋敷の物見台へと駆け上がった。階段は螺旋で、登るたびに矢狭間から西日が射し込み、一瞬ずつ視界を奪う。胸の鼓動が鐘の音と重なり、踵で蹴り上げる石段が乾いた音を返した。
物見台の床に立つと、東の地平が、燃えていた。
村ではない。村は屋敷の南の麓にある。燃えているのは、その更に向こう──隣領アッシュフェルトの方角であった。黒い煙が三本、四本と立ち上り、空の腹に灰色の筋を引いている。風が西へ流れているせいで、煙は王都の方角へと押し流されていく。煙の根元には、夕日とは違う、生々しい朱色の揺らぎがあった。麦倉が、油倉が、人の営みが、いま薪となって燃えている色だ。
「アッシュフェルトの代官所と、城下の麦倉でしょうな」
息を切らして登ってきたマルタが、欄干に手をついた。
「あの煙の太さ、油倉も焼かれております」
クラリスは欄干を握った。手の中で、節くれた指が白くなる。父の遺言めいた言葉を聞かされた直後に、この光景である。胸の中で、悲しみとも怒りともつかぬものが、扇の骨が軋むような音を立てた。
「お嬢様。──如何なさいます」 「逃げぬ」
言葉が、自分でも思わぬ低さで出た。
「逃げて、どこへ。父上を抱えて、北の山を越えるか。書物と銀器を背負って、レーゲン人の難民の列に並ぶか。──村の者たちは、明日からも畑を耕す。村が残れば屋敷も残る。屋敷が残れば、父上の寝床も残る」 「ですが、レーゲンの兵は」 「兵は、屋敷の主が居らねば略奪する。主が居れば、交渉する」
マルタは口を噤んだ。クラリスの横顔を、夕日が橙に染めていた。痩けた頬、浮いた顎の骨。だがその瞳の奥には、銀器の重みを秤に載せた者にだけ宿る、冷えた灯があった。
東の煙の、もう一筋向こう。クラリスは目を細めた。煙の根元に、黒い甲冑の一団が見えた気がした。錯覚かもしれない。だが、その一団の旗印を、彼女は知っている。
──黒地に銀の鷲。レーゲン王国軍、第三軍団の徽章。
率いるは、若き軍神。黒甲冑の鬼神、ジークハルト・ローエンガルトであった。
同じ刻、アッシュフェルトの焦土を踏みしめる男がいた。
ジークハルト・ローエンガルトは二十四。黒檀の頬当ての奥で、薄い唇が動いた。足許では、まだ熱を帯びた瓦礫が、踏むたびに乾いた炭の音を立てて崩れる。
「北のヴェルナ旧領。残党は」 「家督は病臥、領兵はすでに四散。残るは令嬢一人にござります」
副官が告げる。ジークハルトは焼け残った代官所の柱に手を置き、煤の匂いを嗅いだ。煤の奥に、人の脂の焼ける鈍い甘さが混じっている。眉ひとつ動かすこともなく、彼はその匂いを胸に収めた。
「令嬢の年は」 「十六と」 「──ふむ」
黒い甲冑の肩が、わずかに揺れた。それが笑いであったのか、息を整えただけであったのか、副官には判じかねた。ただ、軍神は告げた。
「明朝、ヴェルナ館へ進む。屋敷は焼くな。井戸へ毒は投じるな。令嬢には、礼を尽くして引見せよ」 「は。……和睦の御つもりで」 「いや」
声は低かった。
「血を流さず城を取れる手があるなら、剣を抜くは下策よ」
物見台を下りた頃、屋敷の正門が叩かれていた。三度、間を置いて三度。村長の合図である。
クラリスが扉を開けると、白髪の村長が麻袋を抱えて立っていた。中身は麦と塩、それに古い猟銃の弾丸が三つ。
「お嬢様。村の者は、明朝、荷馬車で北の山へ逃します。お嬢様も、旦那様を担いで」 「逃げぬ」 「ですが、黒鷲が来ますぞ」 「来るがよい」
クラリスは銀貨袋を、村長の節くれた手に握らせた。
「これで、村の者を全員、北へ逃がしてやって。明朝、屋敷の門は開けておく。──ヴェルナ家最後の主として、私が出迎えまする」
村長が震える指で銀貨袋を受け取った。クラリスは扉を閉ざし、内側から背を預けた。冷たい樫の板が、汗ばんだ夜着を通して背骨を冷やしていく。
東の地平で、煙が一本、新たに立ち上った。