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掃き溜めのE級、最強執行官の唯一の弟子になる

第2話 第2話

第2話

第2話

チェーンが外れる音が、四畳半にまだ残っているうちに、ドアは俺が押す前にひとりでに二センチほど開いた。蝶番が軋まなかった。三十年もののアパートの蝶番が、油の一滴も差していないのに、新品のように沈黙したまま、外側の力に押されて開いた。 「中で話す。いいか」  夜伽冬夜の声は、ドアの隙間と同じ幅で薄く差し込まれてきた。許可を求める語尾だった。なのに、革の長靴のつま先は、すでに玄関の三和土に半分乗っている。底に塩の粒の一つもついていない。深夜の中野の路上を歩いてきた人間の靴底じゃなかった。  俺は、はい、と言ったのか、ただ口を開けただけだったのか、自分でも分からないまま半歩下がった。手の中の符が、紙の繊維の奥で、ぴくりと跳ねる。 「……狭いとこ、ですけど」  絞り出した第一声がそれだった。掃き溜めの烏丸らしい、と自分でも思った。  冬夜は答えなかった。代わりに、玄関でロングコートの裾を一度だけ払い、靴を脱いだ。揃えて、爪先を玄関ドアに向ける。出ていく動線を最初に確保する手つき。曽祖父の手記の隅に書かれていた、執行官の標準動作だった。  四畳半に上がる前に、彼は俺の頭の上で一度立ち止まった。背の差は二十センチ以上あった。間近で見ると、コートの黒は、ただの黒じゃない。墨を七度重ねたみたいに、奥に何層もの濃さがあって、蛍光灯の光をまったく返さない。俺の目の下の隈に視線が落ちる。 「七時間、寝ていないな」 「……はい」 「目の下、隈。指先、墨。爪、欠けかけている。いつから折っている」 「午前三時半、です」 「明日の任務は」 「課長の決裁待ちで……多分、目黒の倉庫の、二次掃除──」 「行かなくていい」  冬夜は片手をひらりと振って、四畳半に踏み込んだ。  四畳半は、八割が文机で埋まっている。残りの二畳に、敷きっぱなしの布団と、ちゃぶ台と、押入れの隙間に積み上げた古文書の山。冬夜の視線は、敷居をまたいだ瞬間に文机へ吸い寄せられた。吸い寄せられた、と表現したくなるほど、彼はほかの何にも目をくれなかった。布団の皺も、流しに伏せた湯呑み二つも、彼の視界の中では存在しない物だった。  文机の上に、五分前に書いたばかりの一枚目の符が、墨を吸いきれていない右端の染みごと、半開きで置かれている。  冬夜は、文机の前に膝をついた。 「あ、それ、まだ──」 「触らない。見るだけだ」  冬夜の手は、符の三センチ手前で止まった。指は伸ばしたまま、節の動きだけで、紙の上の霊力の流路を撫でていく。「形を崩さず、式の輪郭だけを指の影で読む」──曽祖父の手記の中で、たった一度だけ言及されていた、上位術士の標準動作だ。実物を見るのは、生まれて初めてだった。  俺は息を詰めて、彼の指の影だけを見ていた。蛍光灯の下で、その影は紙の上を二度往復し、三度目に、符の中央で一拍だけ止まった。墨の濃淡を、影の方が先に読んでいる──そう錯覚するほど、迷いのない動きだった。指の関節は四つとも乾いていて、爪は短く、根元まで磨かれていた。曽祖父の手記には、「上位術士の爪は、自分の式に触れて欠ける前に、毎晩自分で削って整える」とも書かれていた。  彼の口元から、ふっ、と短く息が抜けた。笑ったわけじゃない。驚いた、というより、息を吐く以外に体の整え方がなかった、という抜け方だった。 「……折り筋が、五重」 「四重、です。八つに折って、最後に半分にしただけで」 「いや、五重だ。爪でしごいた一段が、紙の繊維の中で勝手に分裂している。お前、これ、自覚なしでやっているのか」 「自覚って、何の……」 「いい。そのままがいい」  冬夜は符から指を離さないまま、視線だけを上げて、俺の方を見た。覗き穴越しに合った、あの釘を打ち込むような黒い瞳。けれど、距離が一メートルしかないと、その釘は俺の網膜じゃなく、肋骨の裏側に刺さってきた。息が、半拍、止まる。 「烏丸燐」 「……はい」 「お前の霊力量が、規定値ぎりぎりのE級判定だというのは、本当か」 「本当です。三回、測りました」 「霊力量しか測らなかったんだろう、機関は」  冬夜の声に、はじめて温度が混ざった。冷たい方の温度だった。怒りと、呆れと、それからもう一つ、俺には名付けられない感情が、舌の下に押し込まれていた。  冬夜は文机の前で立ち上がり、俺の前に立った。革の長靴のつま先が、俺のすり減ったスリッパの爪先と、五センチの距離で止まる。 「……夜伽、さん」 「冬夜でいい」 「冬夜、さん。視察って、何の」 「お前の」  きっぱり、迷いなく、彼は言った。 「お前を見に、来た」 「俺、E級です」 「E級判定、だな。判定と、実体は、別だ」  冬夜はコートの内側から、薄い革表紙の手帳を取り出して、ページを繰った。中身は俺には見えなかった。けれど、彼が指でなぞった行の幅は、明らかに機関本部・人事局直轄の査定書のフォーマットだった。表紙の隅に、赤い印璽が一瞬だけ俺の目を掠めた。S級執行官にしか持ち出しを許されない、あの印。 「霊力量、最低値。式の起動成功率、九十八パーセント」 「……えっ」 「九十八。研修所の同期百二十名で、お前以外、誰一人として九十を越えていない」 「そんな数字、聞いたことが」 「上が伏せた。E級判定を出す前提が崩れるからだ」  頭の奥で、二年分の塩撒きと書類整理の音が、一気に砂のように崩れていく感覚があった。倉庫の埃の匂い、課長の溜息、同期の白い目、すべての場面が一度に逆向きに巻き戻されて、最後に残ったのは、研修所最終日の判定書一枚だった。E。たった一文字。あの紙の裏側に、九十八という数字が、誰にも読まれないまま貼りついていた。膝の裏が、遅れて、少しだけ震えはじめた。  冬夜は手帳を閉じた。 「烏丸燐」 「は、はい」 「この術式、百年に一人の精度だ」  四畳半の蛍光灯が、ちりっ、と一度だけ鳴った。  俺の耳の内側で太鼓のように鳴っていた心音が、ふっと、いったん止まった気がした。  冬夜は、文机に置いたままの符に視線を戻すこともなく、俺の頬に、手袋を外した素手で、触れた。  人差し指の腹が、目の下の隈の上を、ゆっくりと一度だけなぞった。  冷たくはなかった。むしろ、四時間しか経っていない俺の体温と、ほとんど同じ温度の、生きた人間の指先だった。指紋の細かい凹凸が、隈の薄い皮膚に、はっきりと感じ取れた。指の腹のいちばん柔らかい場所のすぐ脇に、ほんの小さな刀傷の跡がある。古い、けれど深く沈んだ線で、皮膚の中に石のように残っている硬さだった。誰かを斬ったのか、自分を傷つけたのか、その区別を俺はつけられなかった。 「ここに、入っている」 「……どこに、何が」 「お前の式の輪郭だ。爪の角度。墨の含み。折り筋の中の霊力の流れ。全部、ここの皮膚一枚下に、ちゃんと畳まれて入っている。霊力量で測れる場所じゃなかったんだ」  俺の喉が、紙のように、鳴った。  冬夜の指は、頬の上で、もう動かない。けれど、離れもしない。彼の親指の付け根の、骨ばった硬さが、俺の頬骨にうっすら触れている。指の重さは、紙一枚ぶんもなかった。なのに、その紙一枚ぶんの重さが、俺の二十二年を、初めて誰かの手のひらの上に乗せた。 「触れて、いいですか、って聞かないんですね」 「聞いてほしかったか」 「……いえ」 「だろうな」  ふ、と、今度はちゃんと笑った。薄く、けれど、目の奥の黒い釘が、ほんの一瞬だけ丸くなった。  冬夜は指を離した。離れぎわに、いつから跳ねていたのかも気づかなかった俺の前髪を、整えるように一筋だけ撫でた。 「七時に、第十三課に行く」 「……はい」 「お前も来い」 「俺、書類整理と塩撒きしか」 「今日は、そっち側じゃない。視察、される側に回ってもらう」  息を、吸う。  吸って、止める。  俺はずっと、誰でもいいから、この爪の角度を見てくれと祈ってきた。「誰」の顔は、いま、四畳半の真ん中に立っている。  冬夜はコートの裾を翻して、玄関に向き直った。三和土で長靴に足を入れる音が、深夜の静寂が戻り始めたアパートに、ひとつ、ふたつ、響く。  ドアノブに手をかけたまま、彼は俺の方を振り向かずに言った。 「七時だ。遅れるなよ、烏丸」  ドアが閉まる。  文机の上の符が、俺の指を待たずに、ひとりでに、一度だけ、ぴくりと跳ねた。  頬の隈の上に、まだ、指の体温が残っている。

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