第3話
第3話
六時五十八分、第十三課の通用口に立った。 戦前の銀行を改装した三階建て、表の看板は『都市環境調査事務所』。鉄扉に手をかけたとき、指先がまだ自分のものではないみたいに痺れている。一時間半前に頬から離れた夜伽冬夜の指の温度が、皮膚の下に石のように沈んで、肋骨の裏側で重さを変え続けている。錯覚だ、と何度も自分に言い聞かせて、それでも消えない。 通用口を入ると、消毒液と古い書類の埃が混ざった、いつもの匂い。給湯室の蛍光灯だけが点いていて、灰皿の上に吸い殻が一本ある。課長の桐谷の銘柄。今日に限って早出だ。 「烏丸ぁ、お前来てたのか」 奥から桐谷が顔を出した。ノーネクタイ、シャツの第二ボタンまで開いて、首筋に汗。S級視察の通達で、徹夜したあとが顔に残っていた。 「七時、出勤って言われて」 「誰に」 「夜伽さん、です」 桐谷の喉仏が一度上がって、下がった。 「……お前、午前七時にここに来て、それを誰かに言うなよ。視察は十時からだ。それまで、お前は──」 言葉が途切れる。視線が俺の指先の墨の汚れに落ちて、それから天井を仰いで、最後に渋面で戻ってきた。 「中野二丁目の倉庫。第三課が昨日除霊終わらせた現場だ。最終確認と、塩撒きと、契約書の写しの回収。十時までに済ませて戻ってこい。十一時の視察に、お前が居合わせたら、全員の首が飛ぶ」 「……はい」 「絶対に視察に絡むな。掃き溜めは掃き溜めらしくしてろ」 桐谷の声には、いつもの嘲りはなかった。代わりに、保身の汗が滲んでいた。俺は黙って頭を下げて、契約書綴りの鍵を受け取り、台車を押して通用口を出た。 外の空気が、頬の温度をすこしだけ薄めた。
中野二丁目の倉庫は、青梅街道から一本入った、シャッター通りの突き当たりにある。元は印刷工場、今は機関が買い上げて『資材倉庫』ということになっている。実際は除霊済みの式神残骸や、回収不能の呪具を一時保管する箱だ。 七時三十二分、シャッターの脇の通用口の鍵を開けた瞬間、塩の粒の感触が違うことに気づいた。 昨夜俺自身が撒いた塩じゃない。粒が荒い、岩塩の質感。第三課が標準で使うサラサラの精製塩じゃない。誰かが上書きで撒いた。除霊が完全じゃなかった証拠だった。 倉庫の中、蛍光灯のスイッチを入れる。三本のうち、奥の一本がじじじと鳴って、点かない。十メートル四方の空間、奥に積まれた木箱の山、天井裏の梁、コンクリートの床に染みついた薬品の跡。すべてが、見える範囲では昨日の現場のままだった。 見えない範囲が、おかしい。 空気の密度が、入口側と奥側で違う。湿度ではない。霊的な圧。曽祖父の手記の言葉を借りるなら、『澱みの輪郭が、まだ箱の中に畳まれている』。除霊済みのはずの霊体が、完全に祓われずに、残骸の中に押し込められて、いま、ゆっくりと膨らみ直している──そういう密度の歪みだった。 俺はバックパックから半紙の束を引き抜いた。深夜に折った精度の高いほうを、外ポケットの一番取り出しやすい位置に入れ替える。爪の付け根に、針一本ぶんの熱を灯す。 「……烏丸ぁ、まだ着かねえのかよ」 通用口から、第三課の岩村の声がした。後ろにあと二人、若手の影。掃除当番の応援として、桐谷が回したらしい。岩村の口元には朝飯のメロンパンの粉がついていて、片手にコンビニコーヒー。 「先輩、奥、変です」 「あ?」 「霊圧、戻ってます」 「アホか。昨日、俺がトドメ刺した。お前は塩だけ撒いてりゃいいんだよ」 岩村は俺を押しのけて、奥に踏み込んだ。あとの二人がそれに続く。岩村のローファーが、コンクリートの床に乗った瞬間、奥の一本の蛍光灯が、ぱきん、と派手な音を立てて割れた。 破片が落ちる前に、空気が、震えた。 いや、震えた、じゃない。 膨らんだ。 奥の木箱の山の間から、黒いものが、じゅわりと滲み出てきた。粘度のある、墨汁を腐らせたような液体。それが、コンクリートの床の上で、重力を無視して、ゆっくりと立ち上がる。立ち上がりながら、輪郭を持つ。三メートル、四メートル。最後に、女の上半身の形に近い何かが、首を持たないままこちらを向いた。 階級外、という言葉が、俺の頭の中に勝手に湧いた。 Aでも、Bでも、Cでもない。執行官の階級表に乗らない、ただの『災害扱い』に分類される類の、ぐずぐずに膨らんだ怨念のかたまり。第三課が昨日刺したのは、たぶん、こいつの胴体の一部だけだった。本体は、木箱の隙間で息を潜めていた。 「な、なんだよこれ……っ」 岩村のコンビニコーヒーが、手から滑り落ちた。蓋が外れて、茶色い液体がコンクリートに広がる。岩村は、後ずさった。後ろの二人は、もう通用口に向かって走り出していた。 「先輩、符、出してください、先輩のランクなら──」 「無理だっ、こんなの、応援呼ばねえと──」 岩村は、ジャケットの内ポケットから自分の符を引き抜いた。引き抜いた、というより、震える指で千切り取った、と言った方が近かった。彼の符は、量で押すタイプの、霊力ねじ込み式。だが、震える手で起動した符は、起動の輪郭そのものが歪んでいて、宙に放り投げられた瞬間、力なく床に落ちた。火花も、煙も、立たなかった。 「く、くそっ、くそっ、烏丸、お前、なんとかしろよっ」 岩村は、踵を返して、通用口に向かって走った。 走った、というか、転がった。途中で台車にぶつかって、契約書綴りが宙に舞った。 俺は、動けなかった。 動けなかったのは、足が竦んだからじゃない。 動いていなかったのは、俺の手の中で、外ポケットから抜き出した一枚の符が、まだ折り筋のすべてを使い切っていない、と感じていたからだった。 爪の付け根の熱を、もう一段、絞る。 息を、吐く。 吸う。 止める。
黒い女の輪郭が、首のない胴体のまま、ぐずりと一歩、俺の方へ滑った。床のコンクリートが、踏まれた範囲だけ、すうっと色を失う。コーヒーの茶色い水たまりが、瞬時に乾いて、塩の結晶になった。湿度を奪われたわけじゃない。生命力を、ひと舐めされた。それが、コンクリートでこれだ。生身に触れたら、どうなるかは、考えなくていい。 俺は、震える指で、符を、四つ折りからもう一段、爪でしごいた。 五重目の折り筋が、紙の繊維の中で、ぴし、と微かに鳴る。 夜伽冬夜の指の影が、文机の上の符の中央で一拍止まったときの、あの動きが、俺の指先に焼きついていた。彼が、五重、と呟いたあの数字。自覚なしでやっていた、と言われたあの瞬間。今、自覚して、もう一段、爪を入れる。六重。さらに、もう一段。七重。 紙が、薄くなる。薄くなりながら、密度が、上がる。 俺は、それを、宙に投げた。 投げる、というより、置いた、と言った方がよかった。指から離れた瞬間、符は、空気の中で、自分の重さを忘れた。半紙の繊維のすべてが、五重、六重、七重の折り筋に沿って、霊力の経路を直線に整える。そして、急々如律令の四字が、紙の表面で、白く、燃え上がった。 燃えた、わけじゃない。 燃えているように、見えただけだった。 次の瞬間、倉庫の中の空気のすべてが、内側から押し広げられた。 黒い女の輪郭が、押し広げられた空気の壁に触れた瞬間、首のない胴体ごと、内側から、白く、解けた。粘度のある墨汁の塊が、塩の結晶に変わって、落ちた。 倉庫のシャッターを、白い光が、内側から押し開けた。 通用口から外に逃げ出していた岩村たちの背中を、その光が追い越した。シャッター通りの突き当たりから、青梅街道の交差点まで、半径百メートルの空気のすべてが、俺の七重の折り筋一枚で、一拍だけ、白く、浄化された。 通行人は、何も気づかなかった。 異能の光は、霊感のない者には見えない。けれど、その瞬間、半径百メートルの中で、犬たちが一斉に吠え止んだ。空調の室外機が、一斉に唸りを止めた。コンビニの自動ドアが、人がいないのに、一度だけ、開いて、閉まった。 光が引いたあと、俺の手の中には、何も残っていなかった。 符は、最後の一段の折り筋まで使い切って、消えていた。 俺の膝が、遅れて、笑った。
コンクリートの床に、片膝をついた。 息が、すぐには戻らなかった。爪の付け根が、針一本ぶんどころか、ナイフ一本ぶんの熱で、内側から自分の指を焼いている。 倉庫の通用口の方で、革靴が、コンクリートを踏む音がした。 ローファーじゃない。岩村たちの靴底じゃない。底が厚くて、滑らない、執行官用の編み上げの長靴。一歩ごとに、空気の密度を、わざと外して歩く、上位術士の歩き方。 顔を上げる必要は、なかった。 ロングコートの裾が、視界の端に、黒く落ちた。 夜伽冬夜が、俺の真横に、片膝をついた。手袋を外した素手が、ふたたび俺の頬に伸びた。今度は、隈の上じゃない。汗で湿った、こめかみの薄い皮膚の上。指の付け根の刀傷の硬さが、俺の額の生え際に、はっきりと触れた。 「……七重まで、自分で気づいたな」 声は、低かった。低くて、俺の肋骨の裏側に、もう一本、釘を打ち込んだ。 「視察、十時って」 「俺の視察は、最初からお前一人だ」 冬夜の指が、俺のこめかみの汗を、親指の腹で一筋、拭った。 倉庫の床の上、塩の結晶が、まだ静かに、白く、光を返していた。