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掃き溜めのE級、最強執行官の唯一の弟子になる

第1話 第1話

第1話

第1話

粗塩の粒が指先を傷つける。  午前二時、現場は中野の古い雑居ビルの三階、不動産屋が借り手のつかなくなった居抜きの飲食店。床に粘りついた油の匂いと、除霊済みの符が燃え残った後の硫黄じみた残り香。俺はバケツに突っ込んだ手を抜き、塩を握りしめて壁際に撒く。第三課が散らかしていった残務処理。あいつらが式神を駆って大物を仕留めた跡に、俺、第十三課の烏丸燐がしゃがんで雑巾をかける。  膝が痛い。スーツのスラックスは祖父のお下がりで、内側の生地が擦り切れて膝小僧に直接当たる。痛覚の方がまだましだ。痛い、と思っているうちは、俺はまだ自分のことを忘れずにいられる。 「掃き溜めの烏丸ぁ、終わったらメシ奢ってやろうかー」  階下から第三課の岩村の声が降ってきた。聞こえているのを承知で、わざと笑い混じりに。返事は要求されていない。要求されているのは、黙って塩を撒き続けること。E級判定、霊力量規定値ぎりぎり、補充員にも推薦されない雑用専門の十七歳。 「……はい、お疲れさまでした」  誰にも届かない声で、俺は床に向かって頭を下げた。  帰り道、満員電車には乗らない。深夜だから、というのもあるが、人いきれの中で誰かの首筋にうっすら張りついた残留霊のかけらを見たくない。総武線の各停の、誰もいない車両を選んで座る。窓ガラスに、目の下の隈と、寝癖と、まだ細いままの肩が映る。鞄の底で、半紙の束がかさりと鳴った。  家に着くのは三時半。木造アパートの二階、四畳半。祖父が残した文机に、祖父が残した硯と墨。  俺は制服を脱ぎ、Tシャツに着替え、文机の前に正座する。  半紙を一枚、引き寄せる。  息を吐く。  吸う。  止める。

 符を折るとき、俺は俺じゃなくなる。  指先の感覚だけが残って、ほかの何もかもが薄れる。E級だの、掃き溜めだの、補充員になれない、岩村の笑い声、三課の課長補佐の舌打ち、母さんがくれた最後の手紙の紙の薄さ、全部、薄れる。  半紙の繊維の流れに沿って、四つに折る。さらに八つに折る。折り筋を爪でしごくとき、爪の白い部分のすぐ下に、わずかな霊力が滲む。量はない。本当にない。同期の連中は折らずとも符を起動できる、霊力でゴリ押せる。俺はそれができないから、爪の角度を一度ずつ刻んで折り筋に流し込む。  筆をとる。  墨は祖父が遺した、産地のわからない古いやつ。摩るたびに鉄錆と古い松脂の匂いがする。  硯の海に黒い池が広がる。覗き込むと、四畳半の天井の蛍光灯が池の底で歪んで揺れていた。揺れている、ということは、俺の手がまだ震えている、ということだ。墨を摩る手の動きを、もう一段ゆっくりにする。円を描く手首の角度、力の抜き方、息を吐く長さ、すべてが式の輪郭に流れ込む。岩村の声も、課長補佐の舌打ちも、半紙を一枚折るたびに薄れていく──はずなのに、墨の池はまだ、それらの残響を底に映している。俺はもう一度ゆっくりと墨を摩り直し、池の表面が静まり、天井の蛍光灯が一本の細い線として像を結ぶまで、ただ手首だけを動かし続けた。  書き出しの一画目で、すでに今日の符の出来は決まる。一画目の筆圧、墨の含み、紙との角度、すべてがそのあとの式の輪郭になる。  ── ふっ。  息を、止める。  筆を、置く。  半紙の上に、急々如律令の四字が痩せた線で並んだ。震えていない。崩れていない。今夜の一枚目は、悪くない。  文机の脇に積まれた古文書の山に、俺は手を伸ばす。明治十二年に没した曽祖父の手記、その写本。家系の本流からは外され、傍系の傍系として息をひそめてきた烏丸の、それでも残されていたわずかな技法書。 「式の輪郭は、墨ではなく、折り筋に宿る」  声に出して読み上げる。曽祖父の癖字を、声に乗せると少しだけ呼吸が落ち着く。  壁の時計を見る。四時四十分。あと二十分で目覚ましが鳴る。今日も眠らずに学校だ。一限目の現代文、机に突っ伏して怒られて、また「掃き溜め」と笑われる。それでも、俺は折る。折って、折って、折って、いつか俺の精度を、誰かに見てほしいと、それだけのために。  ── 誰か。  その「誰か」の顔が、俺の中にはない。両親はいない。祖父は死んだ。同期はみな俺を見ない。第十三課の課長は俺を「あいつ」と呼ぶ。  誰でもいい、と思う。  誰でもいいから、この爪の角度を、見てくれ。

 チャイムが鳴ったのは、五時七分だった。  目覚ましより先に、玄関のチャイム。  俺は筆を取り落とした。墨が文机に飛び、半紙の右端を染める。  時間が、おかしい。  こんな時間に、このアパートに、誰も来ない。新聞配達ですら俺の部屋の前は素通りする。家賃の遅延もない。郵便でもない、チャイムは内側のスイッチが押されている。  何かの気配が、あるわけではない。むしろ逆だった。アパート全体の、深夜にあるはずの微かな気配──隣室の住人の寝息、外の街路樹を抜ける風、給水管を流れる水の音、その全部が、ドアの向こう側だけ吸われたように消えている。霊的な静寂、という言葉が、曽祖父の手記の片隅にあったのを、俺は唐突に思い出した。喉の奥で唾が固まり、心音だけが、耳の内側で太鼓のように鳴り出す。  俺は文机の引き出しから一枚、さっき折ったばかりの符を抜き出した。指先を半紙の角に這わせて、いつでも展開できる位置で握り込む。霊力を溜める。といっても、俺の場合、爪の付け根に針一本ぶんの熱が宿るだけだ。  ドアの覗き穴から、外を見る。  立っていたのは、男だった。  年齢はわからない。二十代半ばに見える、けれど、目だけが、年齢の概念から外れている。黒いロングコート、黒いシャツ、黒い手袋。背は高く、肩は薄く、首筋に黒い数珠を巻いている。数珠の珠の一つひとつに、俺には読めない梵字が彫られていた。  コートの裾は微動だにせず、息をしている気配すら見えない。生きている人間の輪郭、というよりは、生きている人間の形を借りた何か、と言ったほうが近い。それでいて、霊的な穢れの匂いはまったくしなかった。むしろ、清潔すぎるほど清潔で、俺の四畳半に染みついた除霊現場の硫黄の残り香が、覗き穴の隙間から漏れて、相手の方が眉をひそめてしまうのではないかとすら思えた。  覗き穴越しに、男が、こちらを見た。  覗き穴のレンズ越しに、視線が、合う。  合うはずがなかった。覗き穴は内側からしか見えない構造だ。なのに、男の黒い瞳は、レンズの曲率を正確に追ってきて、俺の網膜の上に、釘のような点を打ち込んできた。  俺は背筋に冷たい釘を打たれたような気がして、半歩、後ずさった。  男が、笑った。覗き穴の凸レンズで歪んだ、薄い笑い方だった。  そして、よく通る低い声で、ドア越しに告げた。 「機関本部からの正式通達だ。烏丸燐、本日付で、第十三課に『S級執行官による視察』が入る。……俺だ」  手の中の符が、しっとりと汗で湿る。  S級。  S級執行官。  現職で、たった七人しかいない、機関最上位の異能者。そのうちの一人が、この四畳半のドアの外に、立っている。  E級が見ていい階位ではなかった。研修所の写真資料でも、上から二行目で黒塗りにされていた連中だ。任務簿に名前が載るときは、必ず後付けで「特例措置」と注釈が入る。そんな存在が、書類仕事の派遣で第十三課に来るなんて話は、一度も聞いたことがない。視察、という単語の意味が、頭の中でうまく像を結ばない。  なぜ、こんな時間に。  なぜ、わざわざ、E級の俺の家に。  俺は唾を呑む。喉が、紙のように薄く鳴る。 「……どちらさま、ですか」  声が、上ずった。十七歳の声というより、十二、三歳の子どもの声に聞こえた。  ドアの向こうで、男は一拍だけ間を置いた。  それから、俺の名前を呼ぶときに使われたのと、同じ、低くて、よく通る、けれど不思議と耳の奥がくすぐったくなるような声で、こう言った。 「夜伽冬夜。──お前の符を、見せてもらいに来た」  俺の指先で、握りしめていた符が、ぴくり、と跳ねた。  起動したわけではない。  ただ、紙の繊維の中の何かが、ドアの向こうの男に呼応して、ひとりでに身じろぎしただけだ。  俺はドアノブに手をかける。  チェーンを外す音が、四畳半に、やけに大きく響いた。

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