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漆黒竜と素材屋の成り上がり

第2話 第2話

第2話

第2話

黄金の瞳は、瞬きをしなかった。

瞼の縁がわずかに震え、瞳孔の中央に、縦に細く裂けた黒が通っていた。獣のものだ、と頭のどこかが機械的に判定する。けれど、そこに宿る光は、けっして獣のそれではなかった。疲れ切り、諦めに近い色で、それでいて底のほうに、まだ何かを測ろうとする冷たい知性が沈んでいる。

クロウの膝は、岩の湿りに張りついて動かなかった。

掌の紙包みが、指の震えを拾って、かさ、かさ、と小さな音を立てた。自分の呼吸音と、水滴の落ちる音と、そのかすかな紙擦れだけが、坑道の闇を区切っている。山のような黒い塊は、こちらを見据えたまま動かない。目を合わせていることが、奇妙に長く感じられた。

——視線を、そらすな。

鑑定眼を使うときに、母から教わった最初の掟だった。素材は、剥ぐ前に見つめる。色を、線を、傷みの向きを、まず目に刻む。剥ぎ取るのは、そのあとだ。逃げる目で触れたものは、必ず手のなかで崩れるから。

思い出した瞬間、体のどこかが、ごとり、と元の位置にはまったような気がした。完全にではない。けれど、膝の震えが、ほんの少しだけ、止まった。

青い光が、またひときわ明滅した。

巨体の表面で、鉱石だと思っていた青黒い群れが、呼吸に合わせて微かに持ち上がり、沈む。よく見れば、それぞれの輪郭はきっちりと面を取り、岩肌から生えているのでもなく、岩盤に埋まっているのでもなかった。並び、重なり、互いの縁を守るように、鱗の形で並んでいた。

——鉱石じゃ、ない。

喉の奥で、ごく小さく、声にならない音がした。

仲間たちは、最奥の坑道に青い鉱石があると話していた。近づくな、触れるな、あれは坑夫が狂って死ぬ石だと。ガイデンが、真面目な顔でそう言ったのを、クロウは覚えている。だから、自分もそう信じていた。地上の市には出回らない、呪われた鉱石。そう、呼ぶことにしていた。

そうでなければ、置き去りにした仲間への呵責を、どうにか保てなかったのだろう。

【展開】

クロウは、息を長く吐いた。

鑑定眼が、もう勝手に働いていた。意識して起動したのではない。黄金の瞳と目を合わせたあの瞬間から、視界の縁に、熱のような情報の流れが滲みはじめている。焦点を合わせるたびに、鱗の一枚一枚に注釈が重なっていく。

最も近い一枚は、彼の頭ほどもあった。

鱗の表面には、細かな波のような筋が幾重にも走り、その溝に青い光が溜まって脈打っていた。指を触れれば温度を感じそうなほどに、光は生きて見えた。鑑定の感覚が、文字ではなく、色と重さと鉱物学的な比重で、直接頭の奥へ流れ込んでくる。

——硬度、九と二分の一。

——比重、通常の鉱石の三倍。

——含有、魔素。極大量。

——由来、生体。

由来、生体。

その三文字の意味が、一拍遅れて肺を突き上げた。

鑑定眼は、素材の出どころを見る目だ。母に仕込まれたとおり、鉱石には山の気が、骨には獣の気が、牙には魔物の気が残る。鉱石を鑑定すれば、どの層で、どの岩脈から生まれたかが浮かぶはずだった。その文字のところが、いま、生体、とだけ告げている。

生体、とは、生きている、という意味だ。

クロウは、震える指先を、一番近い鱗に、ごく控えめに向けた。触れたのではない。ただ、空中で、一寸ほど手前に止めた。それだけで、鑑定眼の奥で、さらに情報の層が剥がれ落ちた。

鱗の下に、厚い皮。皮の下に、骨格。骨格の内側に、心臓と思しき臓器が、ゆっくりと、大きく、脈を打っている。その一拍ごとに、鱗の青い光がわずかに持ち上がり、沈む。

呼吸の明滅は、心臓の鼓動だった。

漆黒と青の、山と見紛うほどの塊は、ひとつの生き物だった。

一滴、冷たい汗が、こめかみから顎へ伝った。汗は顎の先で止まらず、喉の鎖骨の窪みで小さな点になった。クロウは、ようやく、自分がこの数分、まともに呼吸をしていなかったことに気がついた。意識して、短く吸い、短く吐いた。そのたびに、空気のなかの鉄の匂いが、奥歯の裏に残った。

——竜。

その一字が、頭の中で、ほんの静かに、石のように落ちた。

古文書の挿絵で、一度だけ見たことがある。ハンター養成学校の図書庫に、鎖で綴じられた古書があった。埃で表紙の文字は読めず、ただページの端に、黒い鱗と青白い光を持つ巨大な竜が描かれていた。絵師は、瞳を黄金で塗っていた。周りに書かれた注釈は、クロウには解読できない古語だったが、余白に赤い墨で、禁忌種、とだけ書かれていたのを、なぜか今、鮮明に思い出した。

禁忌種——名を口にすることすら、禁じられた存在。

音のない悲鳴が、喉の奥で潰れた。

逃げろ、と本能が叫んでいる。足は立ち上がれない。代わりに、鑑定眼が、勝手に次の層を剥いていく。皮の下、骨の内側、臓器の間に、いくつも細い亀裂のようなものが走っている。古傷だ、と、鑑定眼の奥で声のない文字が告げた。何本もの槍が、かつてこの体を貫いた跡。折れた切っ先が、まだ骨の隙間に残っている。癒えたはずの傷口に、黒く濁った魔素が溜まっている。

瀕死、と、情報は続けた。

クロウは、わずかに顔を上げた。

黄金の瞳に、ぞわりと、瞳孔が縮んだ。

【転機】

巨体が、動いた。

正確には、首のつけ根あたりの鱗が、一斉に持ち上がったのだった。山がひとつ、息を吸い込むように身をわずかに膨らませ、また沈む。その一拍で、坑道の空気が、ずしり、と下に引かれた。

岩盤が、鳴った。

深い、底のほうから響く音だった。クロウの膝が、また震え出した。さっき止まったはずの震えが、骨の奥からぶり返してくる。それでも、彼は視線を外さなかった。外せなかった、と言ったほうが正しい。黄金の瞳は、いまだに彼だけを見ていた。

「……ぁ」

声にならない音が、口の端から漏れた。

言葉になる前の、ただの空気だった。けれど、それが外に出た瞬間、巨体の奥で、ぐるり、と低い音が転がった。笑ったのではない。怒ったのでもなかった。もっと気の遠くなるほど古い、たとえば地の底にあるはずの熱湯の泡が、ひとつだけ、ゆっくりと浮かび上がるような音だった。

黄金の瞳が、ほんのわずかに、細められた。

——目があった、と、クロウは思った。

ただ視線が合っているのではない。いま、自分のうちに宿る鑑定眼の働きまで含めて、向こうが、こちらをまっすぐに見返している。こちらが鱗を剥ぎ、皮を透かし、古傷の深さを数えている、その視線の向きまで、向こうは知っている。

喉の奥から、ひとつ、乾いた笑いのようなものが、こみ上げかけた。

こんなものに対して、自分のナイフは折れていて、袋の中には携帯食が二つと、干した回復草の束しかないのだった。そしていま、その掌の上には、震えるままに握ったままの、包み一つが残っている。

差し出すための言葉は、まだなかった。

「……食えるかは、わからない」

ようやく、声が出た。

情けないほど、かすれていた。口の中は乾いていたし、喉は何かを噛みつぶしたあとのようにひりついていた。それでも、言葉は外に出た。

「俺が食ってるやつだから、体にいいかは、わからない」

黄金の瞳が、瞬きした。

ほんの、一度だけだった。

その一度が、坑道の空気を、もう一度下へと沈ませた。クロウは、息を止めたまま、掌を、ほんの数寸だけ前に押し出した。紙包みが、指先で小さく回転して、岩の湿った床に、ことり、と落ちた。

落ちたあとも、クロウは手を引かなかった。手を引くことが、なぜか、礼儀に反するような気がした。

そのとき、鑑定眼の奥に、今までと違う情報の層が、ふっと浮かんだ。

——認識、開始。

文字は、鱗や皮や古傷の情報とは、まったく別の場所から流れ込んできた。情報の質が、違った。鉱石や獣や薬草を鑑定しているのではない。向こうのほうから、こちらを、覗き返している感触だった。

クロウの鑑定眼と、黄金の瞳とが、ちょうど一本の糸のように、坑道の闇のなかで結ばれている。

糸の両端で、名前が交換された。

名前、と呼べるほどの明瞭なものではなかった。音でも、文字でもなかった。ただ、この巨体を、この瞳を、この古傷を、丸ごとひとつとして呼ぶための、ひどく古い響きだった。発音しようとすれば、舌が攣れるほど難しい音だった。それでも、それは、名だった。

アザリア、と、頭の芯で、クロウ自身が勝手にそう置き換えた。

置き換えた瞬間、黄金の瞳が、ほんのかすかに、揺らいだ。

【引き】

巨体が、もう一度、ゆっくりと息を吸った。

鱗の青い光が、いっせいに持ち上がる。そのまま止まった。

止まったまま、長いあいだ、沈まなかった。

クロウは、まだ手を差し出している。掌の上に、紙包みはもうない。落ちたものを、彼はまだ、拾えないままでいる。

青い光が、ゆっくりと沈む。沈みながら、ひとすじ、鱗の隙間から糸のような息が漏れた。その息は、坑道の岩肌をなめるように這い、クロウの頬を通り抜け、背負い袋の紐を、かすかに震わせた。

頬の皮膚の、血の引いた場所だけが、その熱を感じた。

黄金の瞳の奥で、長く眠っていた何かが、いま、はじめて、一枚の鱗を動かそうとしている。

次の呼吸が来るのを、クロウは、息を詰めて待っていた。

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