第3話
第3話
青い光が、持ち上がったまま、降りてこなかった。
クロウは、息を吐くことも忘れて、その明滅を見つめていた。鱗の一枚一枚が、胸を膨らませたまま固まった獣の肋骨のように、中空で止まっている。止まった光の重さが、坑道の空気を押し下げる。耳の奥で、自分の心音だけが、忙しない。
一秒。二秒。三秒——。
数えられないほど、時間が長くなった。時間そのものが、青い光のそばで、鱗に吸い取られて動かなくなっているように思えた。岩の湿りが、膝の皮膚を這い上がり、骨の奥まで冷やしはじめる。差し出したままの掌が、筋の限界で震え出した。握ることもできず、引くこともできない。そのあいだで、手首の腱だけが、糸のように張っている。
やがて、持ち上がっていた光が、ゆっくりと、長い坂を降りるように沈みはじめた。
沈みながら、鱗の隙間から、ひとつ、重たい音が漏れた。息ではなかった。呼吸のもっと底にある、胸の壁が内側から軋むような音だった。その軋みが長く尾を引き、坑道の天井へ登って、岩盤に吸われて消えた。
沈みきったあと、巨体は動かなかった。
ただ、息だけは続いていた。
細く、歪な、途切れそうな呼吸だった。吸うのに時間がかかり、吐くのにはさらに時間がかかる。一拍の間に、クロウは自分の呼吸を五つも重ねられた。呼吸の音が途切れるたびに、クロウの胸も、つられて一度、止まった。止まった胸が、次の息で痛みをともなって動きはじめる。その痛みは、自分のものなのか、目の前の巨体のものなのか、境目がわからなくなるほど近かった。
瀕死、と、さっき鑑定眼の奥で告げられた文字が、あらためて肺の底に沈みこむ。
この、山のような獣は、いま、死にかけている。
膝を岩につけたまま、クロウはわずかに姿勢を変えた。
すると、掌に落としたまま忘れていた折れたナイフの柄が、太腿に当たる感触で戻ってきた。鉄の温度は、もうない。坑道の冷気が、とうに金属の熱を奪っていた。柄の木の部分が、手汗と血で湿って、指の腹に張りつく。その感触だけが、いまこの瞬間、自分がまだ地上から続いている人間であることを教えていた。
視線を、鱗の上にゆっくりと滑らせる。
一枚の鱗が、首のつけ根の近くで、歪んでいた。表面の波模様が、そこだけ螺旋を描くように乱れ、内側の青い光が、ほかの鱗よりわずかに濁っている。濁りの中央に、古い傷の線が走っていた。傷の縁には、折れた槍の切っ先が、黒ずんだ鉄片となって、鱗の隙間から覗いている。
鑑定眼が、勝手にその切っ先を拾い上げた。
——鋼、上位。
——加工、人の手。
——刺入、およそ八十年前。
人の手、という情報が、冷たく胸に落ちた。八十年。自分が生まれるよりも、父が生まれるよりも、さらに前の年月だ。その長さが、鱗のひとひらに錆びついたまま、いまもこの坑道の底で呼吸を続けている。
古文書の挿絵を、まぶたの裏に重ね合わせる。ハンター養成学校の、もっとも奥の書架。鎖で綴じられた古書のページ。絵師の筆は、竜のまわりに、幾人もの小さな人影を描き込んでいた。人影は、皆、槍を構えていた。赤い墨で、禁忌種、と余白に書かれていた。その下に、もう一行、読めない古語が並んでいたのを思い出す。
いま、その一行の意味が、ようやくつかめた気がした。封じた、と、書かれていたのだ。
討たれたのではない。封じられた獣。
鱗の濁りが、もう一度、ゆっくりと明滅した。明滅のたびに、クロウの喉の奥で、乾いた唾が小さく鳴った。
クロウは、ほとんど無意識に、背負い袋の紐へ手を伸ばした。指は震えていた。震えの幅が、呼吸の拍と重なっている。袋の口を押し開け、内側の油紙を探る。携帯食が二つ。干した回復草の束。水の革袋には、半日ぶんの飲み残し。そして、折れたナイフの残り。
回復草の束に、指が触れた瞬間、クロウは自分でも意外なほど、はっきりと手の動きを止めた。
——これを、差し出すのか。
喉の奥で、別の声が、遅れて上がった。
差し出したところで、この巨体に効くはずがない。回復草は、せいぜい擦り傷や浅い裂傷を塞ぐためのものだ。ハンターの腰袋に常備される、銅貨数枚ぶんの、ごく平凡な薬草。鱗ひとつほどもない、小さな、乾いた葉の束だ。八十年ぶんの古傷を、癒せるはずもなかった。
それでも、指は回復草をつかんでいた。つかんだまま、しばらく動かなかった。動かせない、というのが、正しかった。
掌の中で、干した葉がかさ、と軽く折れる音がした。枯れた苔の匂いと、ほのかな薬草の苦い香り。自分の汗の匂いも、そこに混じっていた。匂いの層の、いちばん下のほうに、遠い畑の土の匂いがある気がした。母が、裏庭で摘んで陰干ししていた頃の、あの匂いだ。
視線を上げれば、黄金の瞳は、まだこちらを見ていた。
見ている、というより、鑑定眼と同じ向きで、こちらの掌の中身を、ひとつずつ読み取っている。そう感じられた。向こうが、こちらの袋の中身を、数えている。数えながら、値踏みをしているのではなく、確かめている。そういう静けさのある、視線の重さだった。
クロウの膝が、ひとつ、前に出た。
自分で動かした、というより、体のどこかが、声の出ない場所で、動け、と命じたような一歩だった。岩の湿りが、膝頭にぬるりと広がる。ざらつきが、皮膚の細かな傷に沁みた。痛みは、遅れて、しかし確かにやってくる。
二歩目で、さきほど落とした携帯食の紙包みを、指先が拾った。
包みは、岩の湿りで底が濡れていた。湿気で、紙が青黒く色を変えている。包みの中身は、干し肉と粟の粉を練って焼いた、いつもの素材屋の昼食だった。硬くて、塩辛くて、安くて、何日ももつ。ガイデンの隊に加わる前から、母の代から食べつづけてきたやつだ。
包みを胸元に当てて、軽く湿りを拭う。
湿りは取れなかった。代わりに、自分の服の胸元にも、青黒い染みが一つ増えた。
彼は、それを構わなかった。拭うほどの余裕も、本当は、なかった。
岩の上に、包みを置いた。握ったままでは差し出せない。差し出す、ということが、どういう形で成り立つのか、彼にはわからなかった。だから、置いた。次に、袋から回復草の束を取り出し、包みの隣に、一束ぶんを横たえた。葉の一枚が、自分の意思で動くように、岩の斜面をわずかに滑った。クロウは、葉の先を指で止めた。止めるときに、指の腹に、葉脈の細かな線がざらりと触れた。指を離したあとも、その線の感触だけが、しばらく皮膚に残っていた。
それから、革袋の水を、ほんの少し、岩の窪みに垂らした。
水は、湿った岩の上で、透明な池を作らず、すぐに溝を見つけて奥へ流れていった。流れの向きは、そのまま、巨体の鼻先のほうだった。水の先が、鼻先の手前で一度止まり、それからまた、ひと筋だけ、吸い寄せられるように細く伸びた。
黄金の瞳が、ゆっくりと、水の流れを追った。
瞳の中の、縦に裂けた瞳孔が、水の動きに合わせて、一度、二度、微かに伸びた。
クロウは、岩の湿りに両掌をついた。
「俺は、素材屋です」
声が、自分で思ったよりも、低く出た。
喉が渇いていたせいだろう、と思う。それでも、その低さが、思いがけず、この場の空気を壊さなかった。
「剝ぐ仕事を、してます。ちゃんと見るのが、仕事で」
言葉は、途切れ途切れだった。舌が、うまく回らなかった。口の中が粘ついて、次の音を出すまでに、一度、唾を飲み込まねばならなかった。
「だから、見るだけなら、痛くしません」
言ってから、クロウは、自分の言葉の稚拙さに、胸の底で小さく笑いかけた。笑えなかった。口の端が、歪んだだけだった。それでも、その歪みが、黄金の瞳に届いたのがわかった。
瞼が、もう一度、ゆっくりと下り、また持ち上げられた。
返事ではなかった。でも、拒絶でもなかった。
手は引かなかった。差し出した掌を、岩の上に置いたまま、もう一度、長い呼吸を、意識して吐いた。吐いた息が、自分の掌の上で白く濁り、岩の冷気に溶けていくのが見えた。
巨体の鱗が、首のつけ根のあたりで、ゆらり、と動いた。
動いた、というには控えめな、わずかな揺らぎだった。それでも、坑道の空気が、その一枚ぶん、静かに押された。青い光が、岩の上の紙包みのあたりまで伸びて、包みの湿った染みを、一瞬だけ青く染め上げる。
染めたあと、光は、ゆっくりと、巨体の内側へ引き返していった。
引き返す途中で、鱗の一枚が、音もなく、わずかに反転した。
鱗の裏側の色は、青ではなかった。
もっと深く、底の見えない——クロウが、いまだ名を知らない——色だった。
黄金の瞳の奥で、眠りのあいだに凍りついていた何かが、ほんの数度、解けた気配があった。
巨体は、まだ、口を開いていない。
けれど、次の呼吸は、いままでと、同じではなかった。
アザリア、と、クロウが心のなかで置き直した名が、坑道の湿りの中で、初めて、ほんの小さく、熱を持った。