第1話
第1話
折れたナイフの刃先が、クロウの手のひらを浅く裂いた。
握り直したときだった。砥ぎ石の目を失った鉄が、皮膚の薄い場所をざらりと削る。痛みは遅れてやってくる。血はすぐには止まらず、柄を伝って指の股に溜まっていった。彼は血を拭う余裕もないまま、坑道の冷たい壁に背を押しつけ、息を殺した。
遠ざかる足音を、数えていた。三人ぶんだったはずだ。先を行く仲間の松明が、角の向こうで橙色に揺れてから、ふっと消えた。
「ここで止まれ。いいか、叫ぶな。走るな」
さっき、元パーティのリーダー・ガイデンが低く言った声が、まだ耳の奥で反響している。
「お前が素材屋でも、囮くらいはできるだろう」
言葉は静かだった。だからこそ、振り払えなかった。怒鳴られたのなら、まだ抵抗のしかたがあった。けれど、その声は日常の延長のようで、昼食の当番を決めるような平坦さで告げられていた。誰かを置いていくという判断に、もう迷いの色は残っていなかった。
クロウの背負い袋には、今日採取したばかりの苔石と、柔らかな絹糸苔がまだ半分ほど詰まっている。重みはいつもと同じなのに、足が鉛のように重い。仲間たちは、岩場を曲がる直前にもう一度だけ振り向いた。視線が合ったのは一瞬だ。誰も、彼の名を呼ばなかった。
坑道の奥から、湿った風がぬるりと押し寄せてくる。鉄錆と、腐った苔と、何か甘く饐えた匂い。魔物が徘徊する気配ではない。もっと古い、動かないものの匂いだった。
死にたくない、とだけ、彼は自分に言い聞かせた。
それ以外の言葉は、いま持ってはいけない気がした。
手の中の採取ナイフは、根元から三分の一を失っている。さっき、背後から迫ってきた巨大蟻の顎に挟まれた瞬間、刃は乾いた音を立てて折れた。仲間たちが松明を振って巨大蟻を別方向へ誘導した一瞬の隙に、クロウは坑道の横穴へ飛び込み、倒木のように這い進んで、ここまで来た。折れた刃は一緒についてきた。柄だけでも握っていたかった。それがなければ、自分がまだ人間として動いている実感が保てない。
素材集め屋。ハンターギルドのなかでも、最下層に据え置かれる肩書きだった。戦闘力を期待されない代わりに、魔物の殻・鱗・牙・鉱石・薬草を見分け、損なわずに採る技術で食っていく。月に銀貨十枚。宿代と食費を引けば、靴は何年も買い換えられない。
それでもクロウが、六歳のころから鑑定の本を開き続けてきたのは、別の理由があった。亡くなった母が、毎晩のように話してくれた——ダンジョンの鉱石には、地上の人間には見えない色があるのだ、と。その色を見分けられる目を持つ子は、きっと誰かを助けられる、と。
助けられる。その言葉を、クロウは今日まで信じていた。
ガイデンに雇われたのは三年前だ。最初のうちは、魔物の死骸から素材を剥ぐ仕事にも、仲間から「いい仕事だ」と声がかかった。採取した火石の質が高いと褒められ、胸が熱くなったこともある。けれど半年前、ガイデンが中層攻略を宣言してから、風向きが変わった。戦闘要員ではない彼は、食事を運ぶ者、荷物を運ぶ者、そして——囮。
同じ言葉を、もう五度は聞いていた。
坑道の岩肌に、彼はそっと手を伸ばす。指先が滑らせた苔のぬめりに、かつて覚えた採取の手順がひとりでに甦る。五本指を揃えて、爪を立てずに、繊維を傷めずに剥がす。何度繰り返しても、手は覚えていた。覚えていることだけが、今の武器だった。
遠くで何かが、低く唸る。
音は坑道の天井を這い、岩盤の内側を長く震わせた。巨大蟻の声ではない。もっと深い、胸の底に直接触れてくるような、長い息遣い。
クロウは思わず、折れたナイフを胸の前に構えた。構えたところで斬れるはずもないのに、手が勝手に動いていた。手の甲の傷から、また一滴、血が床に落ちた。小さな音だった。
それでも、彼は奥へと進んだ。戻る道は、ガイデンたちが閉じていた。岩場の分岐で転がされた落石が、ちょうど人一人通れる幅を塞いでいたのを、さっき確かめたばかりだ。偶然ではない。
行けるのは、この一本だけだった。
松明の油が尽きた。
芯が最後に小さく膨らんで、橙色の光がふっと縮む。クロウは咄嗟に指先で炎を庇ったが、熱は湿気に食われるようにして消えていった。
闇だった。
目を開けているのか、閉じているのか、一瞬わからなくなる。手探りで壁に触れると、岩は冷たく、水気を帯びていた。指の腹がぬめりを拾い、どこまでが岩肌で、どこから自分の皮膚なのか、その境すら曖昧になっていく。耳に届くのは、自分の心音と、遠くで鳴る水滴の音、そして——さっきから絶えず続いている、あの長い呼吸。心臓が胸の内側で暴れている。呼吸は浅く、喉の奥が渇いて貼りついたように動かない。舌を動かしても、唾は出てこなかった。
数秒、闇に慣れるのを待った。
やがて、彼は息を呑んだ。
闇の奥に、微かに青い光があった。最初は錯覚かと思った。目の疲れが作る残像のような、ぼんやりとした滲み。けれど視線を合わせるほどに、光は形を持ちはじめる。無数の小さな輝きが、坑道のはるか奥で群れをなしていた。青みを帯びた、冷たい光。雪解けの朝の空を、そのまま鉱石の内側に閉じこめたような色だった。岩の内側から、発光しているのだ。
鉱石だ、と、鑑定の本で学んだ記憶が一瞬で告げる。しかし、クロウは足を止めた。
それだけではない。光の中心に、何かが座っている。
山と見紛うほどの、黒い塊。
最初は、坑道が崩れた岩山なのだと思った。けれど、岩山は呼吸をしない。青い光はその塊の表面で、鱗のように並んで明滅していた。明滅は不規則で、時折まとめて弱まり、また弱々しく灯り直す。その呼吸に、ぴたりと合わせるように。
クロウは、膝をついた。立っていられなかった。膝の骨が岩に当たり、鈍い音が坑道に短く響いた。足の力は抜けていたが、不思議と、逃げようとは思わなかった。逃げても間に合わない——そう頭が判断したのではない。逃げる、という言葉そのものが、この場所では意味を失っていた。地上の言葉が、ここには届いていない。ここにあるのは、もっと古い、人間が口にする前から岩の奥で眠っていた律のようなものだった。
湿った空気の奥から、鉄の匂いがする。血だ、と思った。自分のではない。もっと深く、もっと古い血の匂い。何日、あるいは何十日ぶんの——餓えた呼吸が、ふうっ、とクロウの頬を撫でた。
彼の指が、袋の紐を掴んだ。中に入っているのは、携帯食が二つと、干した回復草の束、そして折れたナイフ。戦える道具は、何一つない。
震える手で、彼は携帯食を一つだけ、掌に載せた。理由はなかった。ただ、頭の中で母の声が鳴っていた。
——その色を見分けられる目を持つ子は、きっと誰かを助けられる。
助ける、という言葉が、こんな場所で、こんな姿で、帰ってきた。
青い光が、ひときわ強く灯った。奥の塊から、ゆっくりと、巨大な瞼が持ち上げられるのがわかった。
鑑定眼が、勝手に起動していた。目に焼き付いた情報が、文字の代わりに熱となって脳の奥へ流れ込む。鱗。鉱石。古い傷痕。そして——どんな魔物図鑑にも載っていない、ひとつの名前が、指先に浮かんだ気がした。
呼吸が止まった。
口を開けることも、閉じることもできないまま、彼はその場に座り込んでいた。
漆黒の瞼の奥で、黄金がひとつ、点った。ただ、それだけだった。けれど、坑道の空気そのものが、そこから発する視線の重みで下に沈んだ。クロウの肺のなかで、空気が行き場を失っていく。
瞳は、彼を見ていた。
見られている、というより、見透かされている、という感覚だった。背負い袋の中身も、掌の傷も、母から受け継いだ記憶のかたちまでが、その一点の黄金にゆっくりと読み取られていく。隠すものも、偽るものも、もう残らなかった。そしてまるで、遠くから近づく足音を聞くかのように——巨大な何かが、初めて一度、ゆっくりと息を吸い込んだ。
クロウの掌の上で、携帯食の紙包みが、小さく震えている。
彼はまだ、それを差し出すための言葉を、何ひとつ持っていなかった。