Novelis
← 目次

白紙のブランク、最弱無双

第2話 第2話

第2話

第2話

踏み込んだ俺の足の裏に、石畳のひやりとした感触が戻ってきた。

ゴブリンキングの巨体は、まだ空中で凍ったままだ。棍棒を振り下ろす途中の姿勢。黄色い眼球の奥で、何かの処理が延々と追いつこうとしている。俺は、その止まった敵の正面に立って、木剣を肩で担ぎ直した。

柄の湿り気。掌に食い込んだ木の繊維。呼吸。

この「止まっている」の質感が、普段のラグとは違う。普段のラグは、世界全体がぐにゃりと粘る。今は、この敵だけが、世界から少し浮いている。周囲の篝火の揺らぎも、天井から落ちる小石のパラパラとした音も、俺の袖口で乾いていく血の滴も、全部、正常な速度で進んでいる。浮いているのは、こいつ一匹だけだ。

視界右下、ステータスの表記。

『月白コ▓ Lv5』

化けた一文字は、さっきから戻らない。俺は、こつん、と木剣の先でゴブリンキングの手首にもう一度、小さく触れた。今度はちゃんと意識して、最小の力で。

HPバーが、また、軋む。三ミリ。

「──同じだ」

同じ削り方。同じ挙動。同じ、システムが想定していない動き。

再現する。ということは、偶然じゃない。

俺は木剣を引いて、一歩下がった。鉄臭い部屋の空気を、肺の底まで吸い込んでみる。指先の震えは、ない。三年、ここに通って、ゴブリンキングに殺され続けた俺の指先には、今さら震える余裕がない。ただ、後頭部のあたりだけが、やけに冷えている。

三年。毎日、同じ第十二層。同じ鉄扉の軋み。同じ篝火の位置。同じ、黄色い眼球の濁り方。千百日あまり、俺はこの空間のミリ単位を暗記するほど殺され続けてきた。そのはずの空間が、今、ほんの一点だけ、俺の知らない呼吸をしている。後頭部の冷たさは、たぶん、それを皮膚で先に察知している。脳より皮膚が先に知る、というのはあまり気分のいい順番じゃない。

システム側のなにかが、俺を数え間違えている。

それだけは、分かる。

視界左上、メタ掲示板ウィジェットに、いつもの調子のスレがまだ流れっぱなしだ。

『月白コウ、今日も第十二層ww』 『もう一万時間くらい縛ってんじゃねえの』

一万時間。

一万時間。俺の三年が、他人の口では二文字に丸められる。いつもならどうでもいい。スレの連中が俺をネタにして一日を潰しているのも、俺が第十二層でゴブリンキングに潰されるのも、同じくらい意味のない日課だ。でも今は、妙に意味があった。まるで、その言葉が誰かの合図ででもあるみたいに。

その単語が、俺の網膜の内側で、妙な引っかかり方をした。

俺はステータスウィンドウの隅、プレイ統計を開いた。累計プレイ時間。数字が、ゆっくり回っている。

『9,999:58:47』

秒が、動いている。

目を離せなかった。三年のあいだ、一度も注視したことのない数字が、今、ひどく張り詰めた速度で、俺の残りの人生みたいに減っていく。いや、増えていく。どっちだ。区別が、つかない。秒ひとつ動くごとに、篝火の油が爆ぜる音と、妙に歩調が揃ってくる。

『9,999:59:58』

『9,999:59:59』

『10,000:00:00』

桁が上がった瞬間、視界の右下、実績欄の下の方が、また、ちりっとノイズで焼けた。

ノイズの焼け方は、ブラウン管のそれに近かった。VRなのに、妙に古い。古い、というより、新しいシステムが古い質感を不器用に真似た、というような、ざらついた手触り。運営が意図して入れているエフェクトじゃない。俺は、こういう「意図されていない」ノイズを三年で一度も見たことがない。

さっきより、長い。二秒、いや三秒。白い線が縦に走り、その隙間に、一行、薄く浮かぶ。

『──縛り継続 / 10,000:00:00 / 未定義項目:解析中』

「未、定義」

口の中で繰り返す。

実績欄の通常項目は、ぜんぶ名前がついている。『初討伐』『初昇級』『初死亡』。ぜんぶ、運営が先に用意して、プレイヤーが埋めに行く。未定義、という表記は、俺が三年で一度も見たことがない。欄そのものが、名前を持っていない、ということだ。

名前を持たない項目。それは、運営の誰かが書き忘れたバグじゃない。バグなら、枠ごと出ない。枠はある。中身の定義だけが、空だ。つまり、誰かがこの枠を「いつか書くつもりで」残していた。そしてその「いつか」が、どうやら、たった今、俺のところに回ってきている。

浮かんだ行は、三秒で消えた。消えた跡に、うっすらと、青い枠だけが残る。いつもの実績欄の行とは、枠の色が違う。通常は金か銀。今のは、もっと深い、インクが水を吸ったみたいな藍色。俺は指先で、そこを二度ほどタップしてみた。反応しない。枠の中身は空で、タップの波紋だけが、水面みたいにうっすら広がって消えた。

ゴブリンキングが、ようやく動いた。

棍棒が、俺の頭の横をかすめて床に叩きつけられる。床が割れる。衝撃波で篝火が一斉に傾いだ。俺は半歩だけ下がって、それをやり過ごす。熱い。風圧で粗布のローブが鞭みたいに鳴った。

ああ、戻った。

こいつは、戻った。いつものゴブリンキング。いつもの、レベル五を一撃で挽肉にする、巨体。

でも、俺の中の何かは、もう戻っていない。

「もう一回」

自分の声が、さっきより低い。俺は踏み込んだ。三年で染み付いた歩幅で、棍棒の内側に潜り込む。いつもなら、ここで死ぬ。カウンターが来る。来た。来た──はずの、蹴りの軌道が、俺の肩口で、ほんの半拍、遅れた。

半拍。ほとんどの人間は知覚できない幅。でも、三年で八千回死んだ俺の神経は、そのズレを、皮膚の浅いところで確かに拾った。蹴りの筋肉が、起動命令を受けてから発火するまでの、システム側のほんの短い沈黙。その沈黙に、俺の体だけが先に入り込んでいる。向こうがまだ俺を「ここにいる」と認識し終えていない、そういう種類の、薄い穴だった。

その半拍の、ほんの僅かな隙に、木剣の先端が、ゴブリンキングの膝の関節に、置かれる。

三ミリ。

「──やっぱり、噛み合ってる」

システムの処理と、俺の動作の間に、数えきれていない隙間がある。普段は無視される隙間。補正で埋められる隙間。だが、レベル五、粗布、木剣、スキルなし、バフなし、パーティなし──補正が、一個もない。俺の動きはシステムから見て、限りなく『素』に近い。

もしかしたら、素に近すぎて、数えられていないんじゃないか。

補正が一つでも乗っていれば、システムはそこを基準に俺を計算する。基準があるから、足したり引いたりできる。基準が無いと、どう引き算すればいいか、システムは一瞬、迷う。迷っているあいだの、ほんの一拍。その一拍の中に、俺は三年かけて、知らず知らず、自分の居場所を削って収めてきたのかもしれない。縛りプレイは縛りじゃなくて、システムから「俺」という項目を、少しずつ削り落とす作業だった。

仮説にしては、まだ粗い。でも、指先は、もう答えを知っているみたいに動く。

俺は棍棒の二撃目を腕で受けた。HPが三二〇から十二に落ちた。痛覚フィルタ越しの衝撃でも、現実の歯が食いしばる。口の中に鉄の味が滲んだ気がしたが、VRの再現はそこまで細かくない。だから、これは、俺の現実の方の唾液だ。三年、一度もしなかった味がする。

奥歯の付け根のあたりが、じわりと熱い。自分の血の味を、自分の口で確かめたのは、たぶん中学の喧嘩以来だ。三年、痛みはずっと、フィルタの向こう側にあった。それが今、フィルタを貫通して、現実の粘膜まで戻ってきている。体のどこか深い場所が、久しぶりに「生きている」ほうの合図を送ってきている気がした。

三撃目が来る前に、実績欄の藍色の枠が、もう一度、明滅した。

今度は、ほんの半瞬。

でも、その半瞬の間に、枠の中に、文字が一瞬だけ、浮いた。

『無──』

そこまで読んだ。

読めたのは、そこまでだった。

続きが出る前に、枠ごと、霧散した。青い粒子が、部屋の石畳に落ちて、染み込むように消える。篝火の音と、ゴブリンキングの荒い息と、俺の心臓の音だけが、妙にくっきりと残る。

棍棒の三撃目が、俺の胴体を横から殴った。視界が白く飛ぶ。HPゼロ。強制退出。

『あなたは死亡しました。セーフエリアへ転送します』

いつものアナウンス。いつもの、青い光の転送エフェクト。

でも、俺の指先は、まだ、木剣の柄の湿り気を憶えている。

セーフエリアに転送された瞬間、視界の右下に、もう一度、ちりっと、ノイズが走った。

実績欄の、通常項目じゃない、下の方。

藍色の枠が、ひとつ、残っていた。

中身は空。名前もまだ、ない。

でも、枠の縁が、ゆっくり、脈打っている。まるで、中身を、これから書き込む準備をしているみたいに。

脈打ち方は、人間の心拍に近い。速くもなく、遅くもない。誰かが呼吸を整えながら、最初の一画目を、まだ書かずに、筆先だけを空中で置いている、そんな間合い。書くのは、運営じゃない。運営の枠は金か銀で、こんな藍色をしていない。じゃあ、誰だ。

俺は掲示板を閉じ、フレンドリストを閉じ、全部の通知を閉じて、その藍色の一点だけを、じっと見た。

次の潜行で、この枠は、名前を得る。

三年、測り続けてきた俺の指先が、はじめて、そう確信した。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ