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白紙のブランク、最弱無双

第1話 第1話

第1話

第1話

──ゴブリンの顎骨を砕いた反動が、手首の腱まで軋ませた。

木剣の柄が掌に食い込み、湿った緑色の返り血が、粗末な布ローブの袖口をじわりと染める。生臭い。味覚まで届く高没入型VRは、ちゃんと臭いも設計してある。俺は舌打ちして、三百二十七体目のゴブリンを踏み越えた。

VRMMO『エターナル・コード』第十二層「廃坑最下部」、封印されて久しい最底辺プレイエリア。ここに俺以外の人間はいない。今日も、三年前の最初の日も。

『月白コウ』──総合ランキング九千九百八十四位。レベル五。装備は粗布のローブ一式と木剣のみ。スキルツリー未解放、バフ魔術全拒否、パーティ募集無視、クエスト報酬自動破棄。「完全縛りプレイ」専門。

掲示板ではおなじみの名前だ。視界左上、メタ掲示板ウィジェットに、いつもの調子のスレが流れている。

『【悲報】月白コウ、今日もLv5で下水みてえなとこにいるwwww』 『誰かあいつにチュートリアル読ませてやれ』 『ネタ枠超えて怖い。もう信仰だろ』

俺は流し見て、また湧いたゴブリンの眉間へ木剣を叩き込んだ。

ごっ、と、音にならない手応え。HPバー一本分の減り。三百二十八体。

信仰じゃない。

ただ、俺は測っているだけだ。装備とレベルっていう物差しを捨てた先に、このゲームの本当の底がどこにあるのか。その一点を、三年。

『エターナル・コード』のランキングは、レベルと装備で九割が決まる。廃人が金と時間を注いだ順に並ぶ、ただの課金行列。そこに興味はない。

俺が知りたいのは、補正ゼロの生身に限りなく近い状態で、どこまでやれるのか、だ。

攻撃力+0、防御力+0、クラス特性なし。その縛りで、運営が想定した最低プレイヤーの辿り着ける最果てを、誰より深く踏み込む。それだけ。

「──お兄さん、ここ第十二層だよね? ソロで?」

背後で声がした。振り向くと、レベル五十台のライトメイジ装備の女プレイヤーが立っている。星屑色の杖、タグには見知らぬギルド名と『配信中』マーク。杖の先端に浮かんだ光粒子がゆっくり回転していて、この廃坑の黴臭い空気を余計に際立たせる。彼女のローブの裾には上位素材特有の反射光が走り、俺の粗布とは同じゲーム内とは思えないほど質感が違っていた。

ああ、またこれか。

「迷子?」と俺は返す。声が少し嗄れていた。三時間前に水を飲んで以来、現実の俺も何も口にしていない。 「違うってば。下層探索の撮影。月白コウ本人見つけたら三十万再生いくって言われてさ」 「そりゃどうも」 「ね、なんで縛ってるの? 累計一万時間近いんでしょ?」

彼女のカメラアイコンが、こちらを捉える。赤いレンズマークが小さく脈打って、視聴者数のカウンタが『2,147』で止まったまま微かに震えている。俺はゴブリンの死骸を踏んだ姿勢のまま、木剣を肩に担いだ。柄の湿り気が鎖骨に触れて、ひやりとした。

「測ってる」 「はい?」 「装備とレベルを盛るとさ、敵の強さが見えなくなる。HPバーは数字の引き算でしか動かない。補正を全部外して殴って、はじめて、こいつが本当はどれくらいの奴か分かる」 「……それ、意味あります?」 「ない。だから、縛りプレイって言うんだよ」

女プレイヤーが噴き出した。杖の光粒子が笑いの振動に合わせて一瞬だけ揺らぐ。視界の端に『月白コウ、謎の哲学者ムーブwww』のコメントが流れる。嘲笑じゃなく、困惑の笑い。それで構わない。俺はコメント欄をそれ以上追わなかった。追ったところで、三年前から何も変わらない語彙で消費されるだけだ。

俺は踵を返して、廃坑の奥へ歩き出した。石畳の、ひやりとした感触が足裏に伝う。土埃が鼻の奥に染みて、かすかに咳が出る。現実の俺の部屋より、こっちの湿度の方が正確に肌にまとわりつく。この没入感を最低装備で味わえるのが、このゲームの一番贅沢な遊び方だと、俺は本気で思っている。背後で女プレイヤーが何か言いかけて、結局言葉にしなかった気配だけが、杖の光と一緒に遠ざかっていった。

もう三年。ここに、いる。

ゴブリンを三百五十匹ほど片付けた頃だった。振る腕の角度も、ステップの歩幅も、呼吸を吐くタイミングも、全部身体が勝手に組んでいる。考えることはほとんどない。ただ、視界の端々を流れていく情報のうち、どこか一粒でも『いつもと違う』ものがあれば、それを拾い上げる──そのためだけに目を開いている。

視界の右下、ステータスアイコンの縁。

ちりっ、と、ノイズが走った。

砂嵐の欠片みたいな粒子。黒地に走る白い線、一瞬。瞬きほどの間に消える。三年間、同じ画面を見続けた人間じゃなければ絶対に気づかない、極めて局所的なバグ。網膜の奥を細い針で一瞬だけ掻き上げられたような違和感が、一拍遅れて後頭部へ抜けていく。まばたきの裏側にだけ、白い残像がうっすらと貼りついた。

「──なんだ、今の」

口に出してから、自分の声が妙に張り詰めているのに気づく。指先が、柄を握る強さを勝手に一段上げていた。

試しにステータスウィンドウを開く。

『月白コウ Lv5 HP320/320 MP0/0 装備:粗布ローブ・木剣』

見慣れた貧相な数字列。異常はない。閉じる。ノイズは、もう走らない。

気のせい、じゃない。

見えた。確かに、見えた。

心臓がひとつ、余計に打った。三年で網膜にすり込んだこのフロアの景色の中に、三年間いっぺんも混じっていなかったものが、今、確かに走った。粗布のローブ越しに、二の腕の産毛がひとつずつ立ち上がっていくのがわかる。

俺は息を整え、廃坑最奥のフロアボス部屋へ向かった。今日の最終目標、第十二層ボス『岩喰らいのゴブリンキング』。推奨レベル三十五。レベル五の俺が挑めば、開幕で死ぬ。

それでいい。何手で死ぬか、何発まで耐えられるか、を記録する。三年間の、その日の分の、データ取り。

鉄錆色の扉を押す。湿った鉄臭さが顔を撫でた。篝火の油が爆ぜる音。巨体の影がゆっくり立ち上がり、こちらを見下ろす。黄色い眼。腐った肉の息。扉の軋みが廃坑の天井に跳ね返って、小石がぱらぱらと肩に落ちた。床には前の挑戦で俺が残したと思しき、乾いた血の黒い染みが十数個。自分の死を座標として記憶する場所だ。

いつも通りだ。

いつも通り、開幕で死ぬ──はずだった。

ゴブリンキングが棍棒を振り上げる。

その瞬間、また、走った。

視界全域を縦断する、白い線。ひとすじ。

続いて、俺のステータス表記が、ひと文字だけ、化けた。

『月白コ▓ Lv5』

「……は?」

首の後ろに、冷たい粒が落ちる感覚。VR内の空調が下がったのか、現実の俺の背中が汗をかいたのか、区別がつかない。呼吸が、半拍遅れて戻ってくる。

棍棒が振り下ろされた。避ける暇もない。衝撃。

──のはず、だった。

棍棒は俺の頭上で止まっていた。正確には、棍棒のダメージ判定より先に、俺の手が勝手に動き、木剣の先端がゴブリンキングの手首の関節に、こつん、と触れていた。触れた、というより、置いた、に近い。力は入れていない。入れる暇がなかった。手応えというには軽すぎ、空振りというには重すぎる、妙な抵抗が、木剣の繊維を通して肘へ這い上がってくる。関節の隙間に木の棒が砂のひと粒として噛み込んだような、奇妙な噛み合い。自分で動かしたはずの腕が、自分の身体より半テンポ早く到着したような、ずれの残り香が肘の裏側に残っている。

敵のHPバーが、軋むような音を立てて、三ミリだけ、減った。

三ミリ。

通常、レベル五の木剣攻撃は、このボスのHPを一ミリも削れない。減算処理が丸められて、0として扱われる仕様だ。今、削れたのは、システムが想定していない削り方だ。

ゴブリンキングが、動きを止めた。黄色い眼球の奥で、何かの処理が追いつけずに迷っている。データが道を見失った獣の目だ、と俺は思った。棍棒を振り下ろす姿勢のまま、巨体が、ぴたり、と空中で凍っている。篝火の油が爆ぜる音だけが、やけにくっきりと部屋に残る。腐った肉の息が、さっきまで一拍置きに俺の頬に吹きかけられていたのが、不自然にぴたりと止んでいる。

俺も、動けない。

視界の隅、実績欄の下の方に、一行だけ、うっすらと項目が明滅する。

『──観測不能域 到達 / 00:00:01』

明滅は、一秒で消えた。掌に残った木剣の重量が、一秒前とは微妙に違っている気がする。いや、違っているのは重量じゃない。自分の腕が、いま何を握っているのかを、システムが数えきれていない。その隙間の感触だ。

指が、勝手に木剣を握り直した。掌の湿り気。鉄の匂い。三年間、誰にも見られない場所で振り続けてきた棒の重さが、今だけ、別物に感じる。

「──測り直すか」

一匹目の、本当の敵へ、俺は踏み込んだ。

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