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白紙のブランク、最弱無双

第3話 第3話

第3話

第3話

セーフエリアの石畳に、強制転送の青い粒子がまだ漂っていた。

俺は動かなかった。視界の右下、藍色の枠。名前のない項目。脈打つ間隔が、さっきより少し速い。走った直後の人間の呼吸に似ていた。焦っているのか、こちらを呼んでいるのか、どっちにしても、書き込む準備に入っている。

「待てない、な」

三年ぶりに、自分の心拍が耳より先に聞こえた。奥歯の付け根に、まだ鉄の味が残っている。現実の右手がコップを探って、それが空だったのを指の関節で確認して、また戻した。口の中の乾きが、喉を通って胸の奥まで降りる前に、俺はログアウトしないと決めた。

青い光。転移ゲート。第十二層廃坑最下部。

鉄扉の前で、扉の鉄錆が、前回より一段、深く匂った。気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。三年、ここに通って、この扉の匂いは嗅ぎ分けられる。今日の匂いは、前回の死と次の挑戦のあいだに、何かが挟まった匂いだ。湿った土の下に、まだ血にもなっていない鉄の粉が、ひと粒だけ混ざっている。そんな匂い。

粗布のローブの袖を、一度、握り直す。縫い目のほつれを指の腹で数える動作も、三年で染みついた。装備確認じゃない。補正が一個も乗っていないことを、毎回、指で確かめる作業だ。

Lv5。粗布。木剣。スキルなし。バフなし。パーティなし。

何もない。

何もない俺だけが、この扉の向こうで、ほんの半拍ぶん、システムから数え忘れられる。

「──書かせる」

扉を押した。湿った鉄の軋み。篝火の油が爆ぜる音。巨体の影が、ゆっくり立ち上がる。

ゴブリンキングの黄色い眼は、俺を見た瞬間にもう棍棒を振り上げていた。三年、八千回、同じ挙動。でも今日は、振り上げの動作がコンマ数秒、遅い。向こうが遅いのか、俺の体感が早いのか、区別はつかない。たぶん、両方。

俺は踏み込んだ。

半拍。

数え忘れの半拍に、自分の体を挟み込む。木剣の先端が、手首の腱の隙間に、音もなく入る。こつん。軽く置くだけ。力はいらない。力を込めた瞬間に、システムは俺を数え始めてしまう。置く、というより、預ける。木剣の重みを、ほんの一瞬だけ、敵の腱に預けて、すぐに引き抜く。指先の感覚は、針に糸を通すときの、あの静かな手先の温度に近い。

三ミリ。HPバーが、軋む。

敵の眼球の奥で、処理がまた一瞬、迷う。その迷いに、二撃目を置く。腱の反対側。三ミリ。

「──四度目」

三撃目を振り切る前に、棍棒の逆手が来る。避けない。避けると体が大きく動いて、数えられる。俺は棍棒の内側に、体ごと吸い込まれるように寄った。胴を掠める風圧でローブが鞭の音を立てる。頬の産毛が、熱気で一本だけ焦げた。焦げた一本が、皮膚の上で、ちり、と縮れて消える感触まで、はっきり残った。痛みではない。熱の記憶だ。

その頬の熱と引き換えに、四撃目が、膝の裏。三ミリ。

HPが、累計で、ひとマス減った。レベル五の木剣で、第十二層ボスのHPが、ひとマス。

ゴブリンキングの喉の奥から、今まで聞いたことのない音が漏れた。唸りでも咆哮でもない。プログラムが自分の想定していない体勢を取らされたときの、ラグの、ねじれた吐息みたいな音。

視界右下、藍色の枠の脈打ちが、早くなる。

『──測定条件照合中』

枠の中に、初めて、文字の破片が浮いた。まだ、名前じゃない。条件照合。システムが、俺という変数を、どの枠に押し込むかを、必死に探している。

五撃目。肩の付け根。三ミリ。

六撃目。肘の内側。三ミリ。

俺は、攻撃の一回ごとに、呼吸をひとつずつ潰していた。吸うタイミングをずらす。吐くのを半拍、遅らせる。呼吸は、システムから見て、プレイヤーの生存信号の一番分かりやすい指標だ。その信号を、意図して、濁らせる。俺は、俺を、システムから隠している。三年の縛りは、そのための練習だったんだと、今、指先が勝手に理解していく。肺の奥で、空気が行き場を失って、細かく震える。その震えさえ、相手に読ませない。読ませるのは、木剣の先端の三ミリだけでいい。

七撃目。棍棒の柄を握った、親指の付け根。三ミリ。

ゴブリンキングの棍棒が、初めて、空を掴んだ。

「──まだ、足りない」

掲示板のことは、もう見ていない。視聴者数のことも、九千九百八十四位のことも、指先は忘れている。三年で忘れたふりをしてきたものを、今だけ、本当に忘れている。

視界の枠の脈打ちが、限界まで早くなった。

人間の、走りきった直後の心拍。

『──条件一致 / 書き込み開始』

藍色の枠が、初めて、光った。

白い線が、その一点から、視界の全域へ、ひとすじ走った。

そして、俺の頭の中じゃない、VRの画面の中でもない──このゲームの、全サーバーの、全プレイヤーの視界の上部に、一本の帯が、出ようとした。

世界一斉アナウンス。プレイ人口百三十万人が、同時に頭上に見る、白い帯。

『世界初 隠し実績解放 ──月白コウ──《無欲──』

そこまで、出た。

そこまで出て、帯が、止まった。

止まった、というより、止められた、と言ったほうが近い。帯の右端で、文字の続きが、出ようとして、出られずに震えている。発声の寸前で誰かに口を塞がれた人間の、喉の動きに似ていた。

一秒。二秒。三秒。

廃坑ボス部屋の篝火が、三つ同時にぶれた。ゴブリンキングの巨体が、また動きを止めた。黄色い眼球の奥の処理が、今度こそ完全に迷子になっている。瞳孔のテクスチャの縁が、ほんの数ピクセル、ぶれて滲んだ。描画が、持ち主の指示を待っている顔だった。

視界全域の白い帯が、ぎっ、と軋んだ。

文字列が、一斉に乱れた。

『世──界──初──隠──し──実──▓──解──放──』 『月──白──▓──ウ──』 『《──無──▓──の──徒──》──』

読めない。

読めない、けど、名前は、確かに、ある。

無欲の徒。

アナウンスが、帯ごと、ぱきん、と音を立てて割れた。ガラスみたいに白い破片がVR空間に散って、頬の横を掠めて、石畳にぶつかる前に、空中で、俺以外の誰にも届かない場所へ吸い込まれて消えた。破片が消える瞬間に、ほんの一瞬、石畳の継ぎ目の苔の匂いが強くなった気がした。気のせいだと思った。気のせいじゃない気もした。

全世界に届こうとしたアナウンスが、俺ひとりの視界の中で、一人ぶんの大きさに縮んで、消えた。

百三十万人の、誰の視界にも、この帯は出ていない。

運営のログにも、たぶん、残らない。

視界の右下だけに、藍色の枠が一瞬、金色の縁を帯びて、すぐにまた藍色に戻った。

枠の中に、今度こそ、名前が書かれていた。

『実績:無欲の徒 / 解放 / 通知:失敗』

通知失敗、の五文字が、妙に優しく見えた。誰にも届かない。運営の画面にも、掲示板にも、隣のプレイヤーの耳にも、届かない。三年、一人で振り続けてきた木剣の先で、俺は、俺以外の誰にも知られない実績を、ひとつ掴んだ。

掴んだ、と言っても、手応えはない。

ステータス画面を開く。レベル欄。装備欄。スキル欄。どこも、変わっていない。何も、増えていない。

ただ、木剣を握った掌だけが、さっきより、わずかに重かった。

重い、というのとは違う。木剣は木剣のままだ。重くなっているのは、木剣を握っている俺のほうだ。システムから見た俺の情報量が、ほんの一滴、増えている。まだ数えられてはいないが、数えるための「場所」が、枠ごと、確保された。掌のしわの一本一本に、その一滴がゆっくり染み込んでいくのが、皮膚の内側から分かる。冷たくも熱くもない。ただ、ある。

「──何を、貰ったんだ、俺は」

声は、ボス部屋の天井に、細く、長く吸い込まれた。ゴブリンキングは、まだ、動いていない。

藍色の枠は、まだ、視界の右下にある。

名前は、書かれた。中身は、まだ、書かれていない。枠の縁が、脈打つのをやめている。書き終えて、息を整えているみたいに。

俺は、木剣を担ぎ直した。掌の湿り気が、さっきよりも、ほんの少しだけ、指の皮膚に深く食い込んだ。

ステータスウィンドウ。レベル欄。

『Lv5』

変わらない。装備欄。

『粗布ローブ・木剣』

変わらない。スキル欄。

空欄──の、はずだった。

空欄の一番下の行に、三年間、一度も見たことのない空白が、一マスだけ、挟まっていた。空欄と空欄のあいだに、違う種類の「空」が、ひとマス。

書かれていない、のではない。書かれるのを、待っている空白だ。

次の潜行で、ここに、名前が下りてくる。

三年の指先が、また、そう確信した。

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