第2話
第2話
ep2 本文を執筆します。前話末尾の「もう一杯だけ、付き合おう」を受け、父の佩刀の確証と城主への確信、そして副長ガロンへの疑念の芽を配置します。
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石の回廊を戻るあいだ、カイエン・ヴォルクは三度、呼吸を整えた。 歩幅は意識して乱した。酔った傭兵に見せるためだ。広間の灯りが床に伸び、己の影が歪んで揺れていた。頬の内側を奥歯で軽く噛む。血の味が戻ってくる。十年のあいだ、戦場で幾度も使ってきた手だ。痛みを一点に集めると、瞳の奥の熱が沈む。 長卓に近づくと、吟遊詩人の竪琴が新しい唄に移っていた。北方辺境伯の武勲を褒めそやす、陳腐な韻である。兵たちの笑い声。羊の脂の匂い。暖炉の薪が爆ぜる音。——すべてが先刻と同じはずなのに、広間の空気の色が、わずかに青みを帯びて見えた。 上座のドレクセル卿が、にこやかに手を挙げた。 「死神どの、顔色が戻られたな。夜風の効能というものだ」 「ご厚意、痛み入ります」 カイエンは笑みをつくり、酒瓶のそばに腰を下ろしかけて、視線をわざと壁の戦利品の並びへ流した。 「先ほどの短剣、よろしければ、近くで拝見しても」 「おお、気に入られたか」ドレクセルの声が、一拍早く弾んだ。「構わぬ。狼の目の蒼玉は、この城で最も古い宝じゃ」 従者が台ごと運んでくる。木の台に置かれた短剣は、蝋燭の下で、先刻よりもなお古びて見えた。柄巻きの革には、幼い頃の記憶にはなかった深い疵が幾筋か走っている。十年のあいだ、どの手を渡り、どの湿気を吸ってきたのか——だが、鞘の鐺の象嵌だけは、あの夜、寝所の燭台の光を弾いていたあの色を、そのまま留めていた。蒼玉の奥で小さな火花のようなものが一度だけ震え、すぐに消えた。
カイエンは右手で鞘を支え、左手で柄を取った。 掌に、革の冷たさ。それから、木と金具の、僅かな軋み。——確かに、ここに触れたことがある。幼い掌が触れたときと、今の傭兵の掌とでは、覆う面積がまるで違う。だが、指がひとりでに、覚えている場所を探した。 柄頭の、僅かに凹んだ一点。親指の腹で押すと、狼の意匠の耳許の金具が、ほんの僅かに浮く。少年の日、父王が「仕掛けだ」と教えた、隠しの合わせ目だ。 あの日、父は玉座の間の柱の陰で、声をひそめてこう囁いた。——王の剣は、名ではなく、かたちで受け継ぐものだ。お前の掌がこの凹みを忘れぬうちは、ヴォルクの血は絶えぬ、と。幼い自分は意味も解らず、ただ父の大きな掌に包まれた己の指先の体温を、不思議に覚えている。父の掌は剣胼胝で硬かったが、節くれだった指の付け根だけが妙に柔らかく、そこに頬を寄せると、草と革と香油の、混じり合った匂いがした。十年を経て、その体温は失われ、代わりに戦場で幾度も剣を握り替えてきた皮の硬さだけが残っていた。それでも、指は、記憶していた。金具の浮く角度も、凹みの深さも、柄巻きの革の撚り目の向きまでも。 ——ある。 息を止めて、鞘の口を半分だけ引いた。刃はよく手入れされている。鉄の地に、細かな波の紋。根本に近いあたりに、米粒ほどの刻みが三つ。父が、自らの治世の三年目、四年目、五年目の誓いを、刃の腹に彫らせたという、あの「三つの結びめ」であった。 これで、もう疑いの余地はない。 舌の奥から、込み上げるものがあった。酸でも、血でもない、もっと鈍い、鉛のような塊である。それを奥歯でゆっくりと噛み潰し、潰して、呑み下す。表情は、動かさない。まつげの一本すら、動かさない。指先に流れそうになる震えを、柄に伝わる前に、肩の付け根で堰き止めた。 十年前、雪の寝所で父王の首を落とし、この短剣を抜き去った者がいる。そして、その短剣は、戦場の土を踏むことなく、この北方辺境の壁に掛けられている。——なぜ。 視線を上げた。 ドレクセル卿は、カイエンを見ていた。 にこやかに、にこやかに。だが、暖炉の光が鳥のような頬骨にかかるその角度が、先刻よりも一度だけ深くなっている。狙うときの影の落とし方を、カイエンは知っていた。弓兵が風を読むときの、あの僅かな重心の傾き。——この男は、こちらを量っている。 「見事な鍛えでしょう」 「見事だ」 「狼の目、というのは、なかなかに珍しい意匠だ。卿、これを差しておられた領主は、さぞ立派な御仁であられたろうな」 ドレクセルの口許が、一瞬、止まった。 「さて、売り主は下っ端の傭兵であったからな。元の主など、わしは聞かされておらぬよ」 「左様でございましたか」 鞘を閉じ、台へ戻した。金具の音が、思ったよりも大きく広間に響き、ガロンが振り向いた。 「団長」 副長は笑っていたが、その眼の底が、僅かに鋭い。 「先ほどから、その短剣ばかりお気にかけておられますな」 「昔、似たようなものを、故郷で見た気がしただけだ」 「故郷、とは」 ——訊くか、ガロン。 十年、片時も離れず戦場を共にしてきた男が、今夜に限って、その言葉を問うた。カイエンは盃を取り、唇に触れるだけに留めて、静かに答えた。 「雪の深い、北の方だ」 「我らは皆、北の者ばかりだ」 ガロンは杯を掲げて笑った。その笑い声が石壁に一度跳ね、別の誰かの低く含みのある笑いと混ざった。ドレクセル卿の喉の奥から漏れた、短い笑声だった。
広間の喧騒が、急に遠ざかった。 カイエンは杯の底の紅い酒を見つめた。液面に暖炉の火が映り、揺れるたびに、十年前の寝所の燭台の光と重なった。父王の寝所の扉は、外からではなく、内から開いた——落ち延びた乳母が息絶える前に、それだけを告げた。バラグの騎馬隊は、最初から門の鍵の在り処を知っていた、と。——内通者は、誰だ。 あの夜、父王の命で幾人かの近習が北方辺境へ密使に発っていた。鉱脈の交易と、国境の兵站を任される家柄の者たちだ。北方辺境——ドレクセル家の所領。短剣は、その地の領主の壁に掛かっている。買ったのではない。渡された。あるいは、分け前として受け取った。 胸の内で、石をひとつずつ積むように事実を重ねていく。最後の一石を置いたとき、カイエンは静かに呟いた。 ——この男だ。 爪が、掌の傷口を抉る。血が一滴、指の節に滲んだ。祝宴の熱が、耳鳴りのように遠ざかる。目の前でドレクセルが何か冗談を言い、兵たちが声を上げて笑った。ガロンもまた、同じ呼吸で笑った。カイエンは少し遅れて、唇の端だけで笑った。 怒りは、燃えなかった。 燃えるのは、もっと浅い感情である。今、肋骨の奥にあるのは、燠火のような、青く静かな熱だった。十年前、雪の中を逃げた少年が、十年のあいだ灰の下に埋め続けた熾だ。それが、たった今、息を吹き返した。 ——ここで、剣を抜かぬ。 己に、命じた。黒旗四十騎は、城の内郭深くに酒を回されている。城の私兵の数と配置は、まだ読み切れていない。何より、ガロンの今夜の眼の底の色が、まだ掴めない。今夜、斬るべき相手は、ドレクセル一人では済まぬかもしれぬ。——そう思った瞬間、舌の奥で鉄の味がいっそう濃くなった。 上座のドレクセルが、ふいに盃を掲げた。 「さて、死神どの。一つ、訊いてもよいか」 「なんなりと」 「そなたほどの腕、傭兵で終わらせるのは惜しい。どうだ、わが辺境伯家の客将として、禄を食らう気はないか」 広間が、一瞬静まった。 ——客将。この男は、こちらを手駒に入れようとしている。あるいは、繋ぎ止めておこうとしている。短剣の元の主の顔を、こちらの顔のどこかに見つけたのかもしれぬ。 カイエンは盃を置き、ゆっくりと頭を下げた。 「……身に余るお言葉」 「返事は急がぬ。明日の朝までに、聞かせてもらえればよい」 「承知いたしました」 そう応じた瞬間、視界の端でガロンが、ドレクセル卿の近習と、一度だけ目を合わせたのを、カイエンは捉えた。ほんの一瞬の、互いにそれと判らぬほどの合図。だが、十年、共に斥候の合図を交わしてきた男の眼差しだ。見誤るはずがなかった。
夜が更け、兵たちは次々と卓に伏していった。 カイエンは自室に下がる前に、もう一度だけ回廊に出た。半分の月は、いつのまにか雲の裏に隠れている。遠くで湖の氷が、軋むように鳴った。 指先に残った短剣の冷たさを、掌の中で確かめる。明朝までに、為すべきことは三つ。——父の短剣を、この手に取り戻すこと。ドレクセルを生かして口を割らせるか、斃すか、定めること。そしてもう一つ。 扉の向こう、城の廊下に、二人分の足音が遠ざかっていった。一人は城主の近習の歩幅。もう一人の足音を、カイエンは、誰よりもよく知っていた。肩の古傷を庇うために、右足を僅かに引きずる、あの歩み方だった。 氷の軋みが、もう一度、遠くで鳴った。十年、共に血を分け合ったはずの背が、今夜、別の方角へ歩み去っていく。その事実を、カイエンは息を吐くように受け入れた。驚きは、すでに無かった。ただ、胸の底の燠火が、ひとつ、また色を変えた。青から、もっと深い、紺青に近い色へと。裏切りに気づく痛みよりも、気づいてしまった自分の冷静さのほうが、今夜はいくらか遠くに感じられた。 窓の外で、北風が鳴った。十年ぶりに、カイエンは祖国の名を、声に出さずに呼んだ。 ——レヴィナ。 胸の内で、白い狼が、ただ一度だけ、吠えた。