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白狼の旗 凍原の死神は亡国の王子

第1話 第1話

第1話

第1話

雪融けの泥に鉄錆が混じると、血の匂いは妙に甘くなる。 カイエン・ヴォルクは長剣の刃に張り付いた脂を鞘の麻布でぬぐい、短く息を吐いた。白い呼気が踏み荒らされた雪面の上で一瞬だけ形を保ち、掻き消えた。足元には、たった今まで槍を構えていた男が俯せに伏している。鎖帷子の継ぎ目から、まだ湯気が立ちのぼっていた。 視線を上げれば、クリュガの丘はもう終わっていた。 旗を折られた敵兵が、雪に脚を取られながら谷の底へ落ちていく。撤退とは呼べぬ、ただの瓦解だった。丘の南斜面には、黒地に白の縁取りを施した旗が四十本——黒旗傭兵団の旗印が、春浅い風を孕んで並んでいる。

「団長、数えました。敵、三百十二。こちらは七、うち四は軽傷」 背後で声がした。副長のガロンが、血の付いた手甲を叩き合わせながら歩いてくる。赤褐色の髭に霜が固まり、目の縁は笑っているのに口許だけが引き締まっていた。 「七か」 「堰を切り、雪面を崩し、あとは陽動ひとつ。こうも綺麗に嵌まるなら、傭兵稼業も悪くありませぬ」 「悪くはない」カイエンは短く応じ、「だが甘くもない」と付け足した。 丘の下では、若い兵が敵将の首を高く掲げて吼えている。黒旗のしきたりだ。首級は雇い主の領主へ届け、銀貨に替える。金で雇われ、金で死ぬ。十年、その規矩でやってきた。 「今日も呼ばれましたぞ。凍原の死神、と」ガロンが肩を竦めた。「城下の吟遊詩人どもが、さぞ酒の肴にしておることでしょう」 「呼ばれるだけだ」 カイエンは剣を鞘に収めた。鞘口の金具に、雪と血が一粒ずつ凍りついている。指でそれを弾き落とすと、親指の腹に微かな切創が走った。感覚が鈍い。ここ数日、冷気に指先まで浸されて、痛みが遠くへ退いている。 ——遠いといえば、もう十年か。 胸の内で、ふと数えた。 十年前のこの季節、祖国レヴィナ公国は一夜で焼け落ちた。父王の首は寝所で刎ねられ、十二歳の遺児はひとり、雪の中を逃げた。その少年が今、三百を相手に七しか喪わぬ傭兵団を率いている。因果とも、呪いともつかぬ。 「城へ戻ります。ドレクセル卿が首を長くしておられる」 ガロンの声に引き戻され、カイエンは手綱を取った。

ドレクセル城は、クリュガの丘からひと谷越えた湖畔に建っていた。 春の入り口とはいえ、湖面は半ばまだ凍っている。岸辺の葦が雪の重みで折れ、胸壁からは氷柱が大人の背丈ほどに垂れ下がっていた。四十騎が石の城門を潜る頃、麓の村では勝ち戦を告げる鐘が鳴っていた。 「派手ですな」ガロンが苦笑した。「まだ首級を届けてもおらぬのに」 「気の早い城主だ」 「気の早さは、後ろめたさと同じ匂いがしませぬか」 カイエンは応じなかった。ガロンは時々、こういう言い方をする。西方の街道で、まだ少年だったカイエンが盗賊の矢を喉許に受けそうになったとき、横合いから飛び込んで代わりに肩を裂かれたのもこの男だ。肩の痕は今も残り、湯屋嫌いの口実になっている。——信じる、という感覚は、たぶんこの男の肩の古傷と同じ形をしている。そうカイエンは思うことにしていた。

広間の祝宴は、日が沈む前から始まった。 長卓には羊の丸焼き、冬越しの根菜を甘く煮たもの、南方から運ばれたのだろう小ぶりの蜜柑まで並んでいる。暖炉で薪が割れ、樺の脂が爆ぜる度に、香ばしい煙が天井の梁へのぼった。吟遊詩人が竪琴を爪弾き、兵たちは甲冑を脱いで革の上衣のまま杯を掲げる。羊の脂が卓の木目に染みを作り、蜜柑の皮の油が指に残るのを、カイエンは妙に遠くの出来事のように眺めていた。背後の壁際では、城の従者らしき少年が、落ちた骨を拾いながら、時折こちらを盗み見ている。兵団の旗が立て掛けられた柱のそばで、誰かが「凍原の死神」と囁くのが聞こえ、それに別の誰かが乾いた笑い声で応じた。 上座のドレクセル卿は、五十がらみの痩せた男だった。頬骨の高い、どこか鳥を思わせる横顔。銀の糸で縁取られた深紅の上着は、北方辺境の領主という肩書きにしては、いささか派手すぎる。指には三つの指輪。そのうちのひとつ、親指に嵌められた黒い石の印環が、暖炉の光を受けるたびに、濡れた鴉の羽のような艶を放った。 「凍原の死神どの」 ドレクセルは自ら酒瓶を取り、カイエンの杯に紅い酒を注いだ。瓶の首を傾ける角度が、慣れた領主のそれではなく、もう少し媚びた、もう少し何かを量るような動きだった。 「三百の兵を、たったの七人で片付けたか。噂に違わぬ」 「運が良かっただけです、卿」 「運。——そう、運だ」ドレクセルは薄く笑った。「運がどちら側に立つかで、王国は燃え、また新たに建つ。わしは運のよい側にいるつもりだ」 何気ない言葉だった。しかしカイエンの指が、杯の把手で一瞬止まった。燃え、建つ——その語の並びが、十年前の夜の匂いを、舌の下に呼び戻した。焦げた木材、溶けた蝋、そして母の髪が焼ける、あの、決して忘れられぬ匂いを。 「……ご機嫌なことで」 ガロンが割って入り、杯を掲げた。黒旗の兵たちが唱和する。カイエンは酒を舐めるだけに留めた。舌の上に、果実の酸味と鉄の味が混じる。傷ついた親指の血が、ほんの少し杯に落ちたらしかった。

「団長、何か、お目当てでも?」 隣席のガロンが小声で訊いた。カイエンの視線が、広間の壁に吸い寄せられていたからだ。 壁には戦利品が飾られていた。折れた敵将の槍。三十年前の叛乱で討たれた騎士の兜。異国の織物。——そして、それらの脇に、不自然に古びた短剣が一振り、木の台の上に置かれていた。 柄は白銀、鞘は鞣し革。鞘の中ほどに、一匹の狼が月を見上げる意匠が彫り込まれている。 狼の目には蒼玉。左耳が欠けている。 カイエンの息が、一瞬だけ止まった。

——左耳の欠けた、白狼。 それは十年前、一夜で焼け落ちた祖国レヴィナ公国の、父王の佩刀に他ならなかった。 父が寝所の枕元に置いていた短剣。少年だったカイエンが剣の振り方を教わる時、父は決まってその短剣を卓の端に置いた。「これは盟約の印だ。剣の前に、言葉の重みを覚えよ」と言った。蒼玉の狼の目は、幼い自分を見下ろすには優しすぎ、叱るには静かすぎた。父の掌が柄頭を覆うとき、その指の関節の節くれだった感触まで、今も掌に蘇る。狼の左耳が欠けているのは、初代公が戦で斃した魔獣に耳を食い千切られた、という古き逸話の証である。 父王は寝所で首を刎ねられたと聞いている。刎ねた者が短剣を持ち去ったはずだ。バラグの奇襲部隊か——あるいは、内側から門を開けた者の手に。 カイエンは喉の奥で唾を呑んだ。舌に、鉄の味が戻ってきた。血の味か、記憶の味か、もはや分かたれない。杯の紅い酒の底で、暖炉の火が小さく揺れ、それが父の寝所に灯っていた最後の燭台の光と、不思議な具合に重なった。 「……あの短剣は、卿。どちらでお手に」 努めて平らな声を作った。自分でも驚くほど、その声はよく響いた。 ドレクセル卿は、口髭の端を指で撫でて、少し考える仕草を見せた。考えるというより、言葉を選んでいる、と言ったほうが近い。カイエンはそれを、十年間戦場で鍛えた目で、正確に読み取った。 「ああ、あれか。十年ほど前、北方の某所で買い取ったものでな。ある流しの傭兵が持ち込んだ、と記憶しておる。狼の意匠が気に入った。この城の守りの験担ぎに、壁へ掛けさせておる」 ——十年前。 ——北方の某所。 ——買い取った。 ひとつひとつの言葉が、火のついた糸のように、カイエンの肋骨の内側を這った。 爪が、掌に食い込む。指先の感覚が戻る。凍てついていた親指の傷口が、ふいに熱を持ち、ずくり、と脈打つ。十年遠ざけていた痛みが、一息に追いついてきた気配だった。 彼は杯を卓に戻し、静かに立ち上がった。ガロンが怪訝な顔をした。ドレクセルも眉を上げる。 「どうされた、死神どの」 「……酔いが回りました。少しだけ、夜風を」 「おお、戦のあとの酒は効きが早い。庭に池がある。凍りかけておるが、風は澄んでおるよ」 ドレクセルは満足げに笑い、竪琴の方へ視線を戻した。 カイエンは広間を横切った。歩きながら、短剣を飾った台の前を通り過ぎる。指先でそっと、鞘の金具に触れた。冷たい。冷たいが、父の手の熱が、まだどこかに残っている気がした。革の鞘は年月の脂を吸って飴色に鈍り、縫い目の一針ごとに、幼い日の記憶が縫い留められているようだった。狼の蒼玉の目が、暖炉の灯を受けて一度だけ瞬き、カイエンを見返した——そんな錯覚がした。

石造りの回廊に出ると、風が吹き抜けた。 雪を含んだ夜気が、首筋の汗を凍らせていく。頭上には半分の月が浮かび、白狼の蒼玉の目に、少しだけ似ていた。 「……あれは、確かに父の短剣です」 カイエンは誰に言うでもなく呟いた。呟いて、呟いた自分の声の低さに、僅かに驚いた。十二の夜、雪の中で噛み殺した泣き声と、今の声の温度が、ほとんど変わっていなかったからだ。 祖国を焼いたのは、バラグの奇襲だけではなかった。十年間語られなかった何かを、あの一振りの短剣が、たった今ひと息で語り始めていた。 回廊の奥、祝宴の灯りが、ゆらゆらと石壁を舐めている。そこで笑うドレクセル卿。そしてその隣で、同じように笑う副長ガロン。ガロンの笑い声はいつも通りの、乾いた薪の爆ぜる音によく似た笑い方だった。それが今夜だけは、なぜか、石壁に跳ね返って二重にも三重にも聞こえた。 カイエンは静かに拳を握り、口の端だけで笑った。 「——もう一杯だけ、付き合おう」 舌の奥に、鉄の味が残っていた。

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