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白狼の旗 凍原の死神は亡国の王子

第3話 第3話

第3話

第3話

自室へ戻るまでの廊下は、思いのほか長かった。 カイエン・ヴォルクは甲冑を外さぬまま、革靴の踵で石畳の継ぎ目を数えていた。九十三、九十四——歩幅は先刻の広間で作り直したとおり、酔いに引き摺られた形に乱してある。十年ぶりに故国の名を口中で鳴らした男の足取りとは、敵にも味方にも悟られてはならぬ。袖口から吹き込む夜気が、腋の汗を薄く凍らせていく。その冷たさが、今は在り難かった。 扉を閉め、閂を落とす。燭台に火を入れる前に、卓の上の革袋を探った。行軍用の焙じた麦、塩漬けの干肉、油紙に包んだ火口と火打石。——逃げる支度は、十年、荷のどこかに常に入れてきた。十二の冬の夜、雪の中を一人で駆け、三日を飲まず食わずで越した体験が、カイエンを未だに「荷を解き切らぬ男」にしていた。 燭の芯に火を移しながら、己に命じる。 ——為すべきは、三つ。父の短剣を取り戻す。四十騎のうち信ずるに足る顔を選ぶ。そしてガロンから、眼を離さぬ。 最後のひとつで、指先が一度、震えた。

扉の向こうで、軽い足音が止まった。 肩の古傷を庇う、右脚を僅かに引きずる歩み。二度、扉を叩く音がした。 「団長、眠られたか」 カイエンは燭に息を吹きかけ、火を消した。闇の中で、帯剣の金具の位置を掌で確かめる。 「起きている」 「……失礼する」 閂の外れる音。ガロンは、いつの間に合鍵を拵えていたのか。あるいは今夜のために、城の鍵番を抱き込んだか——そう思う間にも、扉は静かに開いた。燭の灯を廊下に残したまま、副長は部屋の中へ半身を入れてきた。赤褐色の髭の影が、頬骨で一度だけ揺れた。扉の陰に、もう一人分の気配が立っている。城の近習の呼吸。それと回廊の奥で息を殺す、城兵が三、四人。 「ドレクセル卿の客将の話、受けるおつもりか」 「思案中だ」 「良い話でしょう。黒旗も、そろそろ腰を据える時期でござる。死神と呼ばれるにも、節度というものがござろう」 「節度、か」 「ええ、節度です」 ガロンは笑った。暖炉の外で聞くその笑いは、もはや乾いた薪の爆ぜる音に似てはいなかった。石壁にこもるような、低い、湿った響きだった。 「団長。壁の短剣を、長くご覧になっておられましたな」 「戦利品を眺めるのは傭兵の癖だ」 「——狼の、左耳が欠けておりました」 カイエンは、応じなかった。舌の下に、先刻の祝宴の鉄の味が、濃く残っていた。 副長は一歩、部屋の中へ踏み込んだ。 「十年、共に馬を駆った仲でござる。なれば、打ち明けましょうぞ。あの短剣、卿の壁に納めたのは、他ならぬ、この某でござる」 胸の奥の燠火が、吐息ひとつ分、ゆっくりと揺れた。 「十年前、雪の寝所の扉を内から開いたのも、また、この某」 カイエンは、初めて振り向いた。 「……何故、言う」 「言わねば、団長が抜かれぬ。抜かれねば、某が斬れませぬ」 言葉が、刃よりも乾いた音で落ちた。卓上に散らばった塩の粒が、廊下から差し込む燭の残光を受けて、ひとつぶずつ、白く瞬いていた。カイエンは、その瞬きの数を、なぜか数え始めていた。三、四、五。——五つ目の粒が消える前に、己は何かを決めねばならぬのだ、と腹の底でだけ、知っていた。決めるよりも先に、十年の馬上の景色が、瞼の裏を一息に駆け抜けていった。 ——斬る。その一語が、十年を共にした男の口から、ごく自然に落ちた。ガロンの右手は、既に帯剣の柄にかかっている。その指の置き方を、カイエンは知っていた。十年、隣で同じ獲物を斬ってきた指の、抜き打ちへ移る前の、ほんの一瞬だけ深まる握り。副長が誰かを「斬る」と腹で決めたときに必ず見せる、馴染みの形であった。馴染みというものは、刃よりも先に、人を殺せるものらしかった。肩の古傷を庇う右脚が、半歩、床を滑った。あの日、盗賊の矢からカイエンを庇ったとされる古傷。——よく考えれば、ガロン自身が説明しただけで、誰も傷の形を見ていない。十年、カイエンはそれを、信じることの形として掌の内で温めてきた。その温もりが、たった今、掌の上で霜に変わっていく音が、確かに聞こえた。 「すまぬ、若」 初めてだった。副長がカイエンを「若」と呼んだのは。レヴィナ公国滅亡の夜、幼い遺児を「若」と呼んだのは、父王の近習のみであった。

刃が鞘走るより先に、カイエンは卓を蹴った。 燭台と麦袋が宙を舞い、闇の中に塩の粒が散った。同時に背を壁へ預け、左手で帯剣の柄を掴む。十年、戦場で鍛えた反射は、意識より速く動いた。——だが、今夜の敵は、その反射の順番を誰よりも知る男だった。 「お早いな、若」 ガロンの太刀は、カイエンの左手の柄へではなく、その裏側、甲冑の胴の合わせ目、肩甲骨の下の隙間へ、下から斜めに突き込まれていた。戦場で盾を構える刹那に必ず肩が上がる癖——カイエン自身すら意識していなかった、その半瞬の隙を、十年、背後から見続けてきた男だけが、突けた。 刃が、肋の下を滑った。焼き鏝を肉に当てたような、ひと筋のまっすぐな熱が、左の脇腹を縦に走った。鎧通しの細い切先が、革の合わせ目を裂き、麻の下着を裂き、肉を割った。鉄が骨に触れぬ深さを、指先で測ったような、職人めいた寸法だった。即死は与えぬ。だが立ち直らせもせぬ。十年、隣で寝起きした男にしか引けぬ間合いであった。熱い、と感じた。熱いだけだった。痛みはいつものように遠く、冷気に浸された指先と同じ遠さで、裏切りの痛みもまた、ずっと先で待っていた。口の中に鉄の味が戻る。先刻の親指の傷の味より、もう少し濃い、まことの血の味だった。 それでも、カイエンは膝を折らなかった。 左手の剣は鞘走らせぬまま、鞘ごとガロンの顎を下から突き上げた。副長の顎が逸れ、突き込まれた刃が更に奥へ進もうとするのを、己の肋で噛み止めた。肋が軋む。骨が鉄を噛む、嫌な音がした。歯の付け根が痺れ、視野の端で、闇の奥に残った燭の残光が、ぐらりと傾いて見えた。 「——若、死なれよ」 「……十年、世話になった」 笑ったつもりだった。血の泡が唇の端から零れた。 扉の外で、城兵が踏み込む足音。その音を、別の三つの足音が、廊下の反対から潰していった。 「団長ォッ」 声を上げたのは、斥候のサーシャだった。続いて老将リデル、若きユリク——ガロンの実弟である。三人が城兵の一団と刃を交え、狭い廊下に鉄の雨が落ちた。城兵の悲鳴が二つ、短く潰れた。リデルの槍が石壁を擦って火花を上げる。 ガロンが、弟の名を叫ぼうとした。その喉に、サーシャの投げた短刀が突き立った。血が赤褐色の髭を赤く染めた。それでもガロンは倒れなかった。倒れる前に、もう一度、カイエンの胴へ刃を押し込もうとした。ユリクが兄へ向かって何かを叫び、剣の柄で兄の頭を殴りつけた。鈍い音。ガロンは、ようやく膝を折った。 「——若」 その口から零れた最後の一語が、「若」であったのか、「噓」であったのか、カイエンには聞き取れなかった。

サーシャの肩が、カイエンの脇下を支えた。 「団長、歯を食いしばって。血が冷えれば、止まりまする」 老リデルが扉を蹴破り、ユリクが実兄の屍を跨いで先を駆けた。ユリクの顔は、見なかった。見る余裕がなかった。四人は廊下を駆け、裏手の酒蔵へ降り、凍った湖へ続く抜け道を潜った。夜気が、開いた肋の傷口で啼いた。 城の方では、既に炎の手が上がっている。誰が火を放ったのか。——黒旗のうち、ガロンに寝返った半数の仕業であろう。戦勝の祝宴は、今夜、そっくり裏返されるように仕組まれていた。吟遊詩人の竪琴も、蜜柑の皮の油も、羊の脂の染みも、全ては今夜の屠殺台の上に並べられていた皿だったのだ。 湖の氷の上に出ると、雪が舞い始めていた。 サーシャが、背に担いだカイエンの耳元で囁いた。 「団長、喋ってくださいませ。眠ったら、死にますゆえ」 カイエンは、血の泡の下から、ひとつ、短く笑った。 「……眠らぬ。まだ、短剣を、取り戻しておらぬ」 老リデルの白い息。ユリクの乱れた呼吸。サーシャの、背中越しに伝わる鼓動。——雪の上に点々と、己の血が黒い花のように落ちていく。十年前、祖国を逃げた十二の少年の足跡と、不思議と同じ間隔だった。 背後で、城の鐘が鳴った。 勝鬨の鐘ではない。追撃の鐘であった。そして炎を背負った城からは、寝返った黒旗の蹄の音が、既に凍った湖面へ向かって走り出していた。雪の奥、遠く北の森の端で、一頭の狼が、応えるように、ただ一度だけ低く吠えた。

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