第2話
第2話
廃鉱の闇に吸い込まれた笑いが、岩肌に二度跳ね返って消えた。
ガルド・レンフォードは坑口から十間奥の岩棚に背を預け、瀕死の獣のように呼吸を整えていた。右肩の銃創は外套の裏地で布止めしてあるが、止血の縛りはすでに三度緩んでいる。指は黒く、爪は剥がれ、左脚は感覚を失っていた。それでも、彼は懐の油紙の硬さで、自分が生きていると確かめることができた。
外で、遠く――谷一つ越えた向こうで、鐘が鳴った。三つ。間を置いて、二つ。
ガルドは目を細めた。北辺の鉱山街道、エレ村の塔鐘である。三と二は、戦況の触れ書きが届いた合図だ。週に一度、王都リヴァンから早馬で運ばれる戦死者名簿が、村役人の手で読み上げられる。十年、彼自身が国境の塞となって守ってきた村の鐘である。鐘の数も配達の刻限も、団のいずれの兵も諳んじていた。
(行かねばならぬ)
廃鉱の闇から這い出て、谷を一つ越え、自らの名がどう呼ばれるのかを聞きに行く。生きた者として、ではない。死者として、聞きに行くのだ。
ガルドは岩棚の隅に転がしていた帝国散兵の屍から、外套を剥がした。死人の血で板になった裾を、雪で擦って柔らかくしていく。仕草は手慣れていた。十年の傭兵稼業、剥ぐ側にも、剥がれる側にも、彼は等しく立ってきた。
* * *
同じ頃、王都リヴァン、軍務省第三筆耕室。
南向きの窓から差す薄い冬の光が、黒檀の卓を七つに区切っていた。卓の一つに屈み込むのは、白髪の筆耕長クレマン。羽根筆の先で、戦死者名簿の「黒鉄峠の項」を仕上げている。室内は鯨油の匂いと、古い羊皮紙が放つ甘く湿った皮の匂いが混ざり合い、その上に墨の鉄錆めいた香が薄く重なっていた。卓の縁に置かれた青銅の硯では、細く薄い湯気が冷気にほどかれては消える。書記たちの羽根が走る音だけが、規則正しく室の沈黙を刻んでいた。
「――団長、ガルド・レンフォード」
独り言にも似た低声で、男の名を一度なぞる。隣の卓では二人の若い書記が、同じ名簿の写しを取っていた。原本一通、写し三通。一通は王宮文庫、一通は神殿、一通は街道沿い七十二村の役場へ。
クレマンは羽根筆の先で「戦死」の二字を書き込み、墨が乾く前に朱印を押した。印字は「召不要」――遺族なき者、追悼不要、という意である。朱は卵白で練った古い調合で、押された瞬間、羊皮紙の繊維にまで染み入って、もう二度と剥がれない。クレマンは押し終えた印面を懐紙で軽く拭い、ふっと一度だけ短く息を吐いた。長年の癖である。
「老師、レンフォード団長は身寄りがおられぬので」
若い書記の問いに、クレマンは頷きもせず答えた。
「平民の傭兵に身寄りなど、戦の側に書かれぬのが慣わしよ。書いても、評議会が削る」
「されど、十年の北辺守備でございましょう。せめて街道の村々には、戦功の一行なりと――」
「書いて、誰が読む。読んだ者は、書いた者を覚える。覚えた者は、いずれ消される」
クレマンの羽根筆は止まらなかった。若い書記は唇を噛み、自分の写しに視線を落とした。
卓の脇に、もう一通の書類が置かれていた。ヴェルディエ公爵の署名入り、傭兵団残党の財産処分書。十年分の俸給、三度の戦勲褒賞、そのすべてが「戦死」の二字とともに国庫へ吸い上げられる。クレマンは羽根筆の先で、その書類の隅にも「戦死」と書き加えた。墨は、二度目の方が薄くなった。
* * *
同日、夕刻。エレ村、聖堂前広場。
雪を踏み固めた広場に、二十数人の村人が肩を寄せ合っていた。村役人ベルトーが、王都から届いたばかりの羊皮紙を広げる。寒気で文字が霞むのを、息をかけて溶かしながら、男は声を張った。吐く息は白く、たちまち頬の灰色に溶けていく。聖堂の軒からは細い氷柱が垂れ、夕日に押されて時折、ぽつ、と一滴ずつ雪に落ちた。
「黒鉄峠戦没者、読み上げる。第三連隊歩兵中隊長、ロラン以下七十二名――」
読み上げは長かった。村から征った若者の名が、合間合間に挟まれる。母親の喉から細い泣き声が漏れ、雪の上に蹲る祖父がいた。鍛冶屋の寡婦は息子の名を聞いた瞬間、声も上げず両手で口を覆い、ただ膝から崩れた。隣の老女が黙ってその背を抱き、自分の外套の裾を寡婦の肩にかけた。広場の端では幼い兄妹が父の名を待ち、呼ばれぬまま読み上げが進むたび、互いの手をきつく握り直していた。
ベルトーが羊皮紙を裏返す。
「レンフォード傭兵団、団長以下、百二十名。全員、戦死」
広場の隅、聖堂の梁の影に、ぼろ外套を被った男が一人、佇んでいた。村人たちは身を寄せ、互いの肩を借りて泣いていたから、誰もその影には気づかなかった。
ガルドは、影の中で動かなかった。
自分の名が呼ばれる瞬間を、十年待った男のように、彼は静かに息を止めていた。右肩の創が、布止めの内側で熱を持ち、脈に合わせて鈍く疼く。その疼きすら、今この瞬間は遠くにあった。耳の奥にあるのは、ベルトーの掠れた声と、自分の名がまだ呼ばれていないという、薄い、しかし確かな実在の音だけだった。
「ガルド・レンフォード、戦死」
その四音節が、聖堂の梁を伝って、広場の雪に降りた。
* * *
ガルドは、影の中で一度だけ目を閉じた。
肺の中で、薄氷の割れる音がした。胸郭の内側を、底の見えぬ井戸の冷気がゆっくりと這い上がってきて、喉のあたりで一度止まり、それから指の先まで降りていった。指は黒く凍えていたが、その冷えとは別の、もっと深い場所が冷えるのを彼は感じた。
死んだ。書類の上で、彼は確かに死んだ。十年、王国の北辺を塞いだ男が、ヴェルディエ公爵の朱印一つで「召不要」の二字に畳まれた。
(――よかろう)
開いた目の奥に、ぬるい光が灯った。それは怒りでも哀しみでもなく、長く、深く、底冷えのする了解だった。怒りはとうに使い切っていた。哀しみは、戦場で部下の喉を圧すたびに、少しずつ目減りしていた。残ったのは、寒い水の澄み方によく似た、ただの理解であった。
死者であるなら、死者としてしか為せぬことがある。
生きた傭兵団長ガルド・レンフォードは、貴族の盤上で常に「使える駒」であった。手柄を立てれば賞金が要る。賞金が惜しければ、手柄を消す。手柄が消えなければ、駒ごと雪に埋める。盤の上にある限り、彼の動きは貴族の指で予測される。
だが、盤の外に出てしまえば、話は違う。
名簿から消された者は、討たれる前に、まず存在を疑われる。存在を疑われている間に、貴族の喉元へ、刃の届く距離まで歩み寄ることができる。
ガルドは、外套の襟を立てた。広場の隅から聖堂の裏手を回り、村役場の脇へ抜ける。役場の壁には、名簿の写しが釘で留められていた。彼は雪に跪き、写しの右下、署名欄を指で確かめた。指先は感覚を失いかけていたが、紙の繊維に残る朱印の盛り上がりだけは、爪の根に微かに引っかかった。
ヴェルディエ公爵。モルガン伯爵。ほか五名の連名。評議会七貴族、満場一致で「戦死報告」を承認した、その筆跡の癖を、ガルドは指先で記憶していった。ヴェルディエの字尾は右下に長く流れ、モルガンの「M」は二つ目の山が浅い。ほか五名のうち一人は、明らかに代筆――書記の手癖が混じっていた。
署名はやがて、刃の振り下ろし先となる。
役場の裏戸が、軋んで開いた。村役人ベルトーが、空になった布袋を片手に出てきた。彼の足が止まり、雪に落ちた影と、影を踏んでいる男の輪郭が、暮色の中で重なる。
ベルトーの口が、形だけで動いた。
「――団長」
ガルドは、唇に指を立てた。
ベルトーは布袋を取り落とし、その場に膝を突いた。村役人の口から、声にならぬ嗚咽が漏れた。彼は十年前、エレ村の若衆を率いて征き、ガルドの旗の下で命を拾った男であった。
「死んだことに、しておけ」
ガルドは、囁いた。
「俺の名を呼ぶな。鐘も、悼みも、要らぬ。――それから一つ、頼みがある。役場の写しを、月に一度、廃鉱の北の岩穴に挟んでおけ。誰の目にも、雪に飛ばされた紙屑と映る場所だ」
ベルトーは雪に額を擦りつけ、無言で三度、頷いた。
* * *
廃鉱への帰り道、雪は再び降り始めていた。ガルドの足跡は、降りしきる雪が一刻のうちに律儀に消していく。死者の足跡を、雪が消していく。彼は喉の奥で笑い、笑いは血の味で潰れた。
坑口に戻ると、岩肌の前に、見覚えのある靴跡が一つ、二つ、三つ。深く、踵を引きずる癖。彼が知る癖は、大陸でただ一人――闇商人ネイア・ヴェルナの歩き方であった。
ガルドは短刀を抜き、坑口の闇に身を沈めた。
死者の名で歩む男の許に、最初に訪れたのが、生者の名簿にもまた載らぬ女であったことを、彼は奇しき符合と感じた。岩棚の奥から、低く、聞き馴染んだ女の声が、闇を揺らした。
「死人にしては、足音が重いね。団長」