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黒鉄峠の幽霊 — 捨て駒が盤を燃やす

第3話 第3話

第3話

第3話

廃鉱の闇は、坑道の奥へ三十間ほども奥行きを持っていた。坑口から差す薄明は十間で尽き、その先は炭塵と凍えた湿気の匂いに沈んでいる。ガルドは短刀を逆手に構えたまま、岩肌に背をすり合わせて闇へ沈んだ。雪を踏んできた靴底に、坑道の冷えた砂利の音が混じる。

「下ろしな、団長」

闇の奥で、女の声がもう一度、低く落ちた。

「闇商の女に短刀を抜く男は、この大陸でお前さんが二人目だよ。一人目は、もう墓の下だ」

ガルドは短刀を握ったまま、足を止めた。

「ネイア」

「久しいね」

岩棚の影で、灯芯の細い火が一つ、ぽっと点った。蝋燭ではない。獣脂を絞った携行の火皿である。火皿の灯は弱く、女の輪郭の半分しか照らさなかった。被った灰色の頭巾、頭巾の縁から零れた銀混じりの黒髪、落ちた左の瞼、右目だけが灯に揺れる。耳には大陸南部の遊牧民が好む鉛の小環、首には商人組合の銘の打たれていない無銘の革紐。十年前と、ほとんど変わらぬ。

「足音で分かったよ」ネイアは火皿を岩棚に置き、腰の革袋から黒い干肉を取り出した。「左脚を引き摺っているね。膝より下が凍えているだろう。あと半日も雪に晒したら、切り落とすしかなくなる」

「お前は、どうやってここを」

「死人の匂いってのは、この稼業をやっていれば嗅ぎ分けられるのさ。――黒鉄峠の壊滅は、三日前に王都の闇市で値が付いた。レンフォード傭兵団の退路を断った貴族どもの署名が、銀貨二枚で売られていた」

ガルドは短刀を鞘に納め、岩棚の手前まで歩み寄った。膝を折って座すと、左脚の感覚が今ようやく戻りはじめ、火に炙られたような鈍い痛みが踝から這い上がる。痛みは、今はむしろ歓ばしかった。

「銀貨二枚、か」

「安いだろう。王国の北辺十年を支えた男の死神の名簿が、酒一杯ほどの値だ」

ネイアは干肉を裂き、半分をガルドに差し出した。

* * *

「お前が来た用件を、聞いておこう」

ガルドが干肉を口に含むと、長く凍えた舌に塩の刺激が刺さった。喉の奥で、今ようやく自分が三日も食を絶っていたのを知る。

「単刀直入が好きなのは、団長の昔からの癖だね」

ネイアは火皿を二人の間に引き寄せ、革袋からもう一つ、薄い羊皮紙の小束を取り出した。商人の客先帳である。指で頁を繰りながら、彼女は声を低くした。

「ヴェルディエ公爵は、半年後の春、王女殿下を帝国皇子に嫁がせる。婚礼の絹織物の発注書が、すでに南部の織元七軒に回っている。婚礼の名は『白い婚礼』。表向きは和平、裏では国土南半分の割譲さ」

「割譲」

「シルヴァン河から南、塩鉱三つを含めて」

ガルドは火皿の灯を見つめた。塩鉱三つ――あの一帯の村々が、塩税で十年食えるはずの土地である。

「平民は売られるよ、団長。二度目だ」

「一度目は」

「黒鉄峠さ。お前さんと、お前さんの百二十が、その一度目の値段だった」

短い沈黙のあと、ネイアの右目が、灯越しにガルドの懐へ向けられた。

「――懐の油紙、出しな」

ガルドは外套の裏地から、四つ折りの紙片を取り出した。指の凍えはまだ抜けず、紙の縁を捲るのに二度つかえた。広げた図面を、火皿の上にかざす。獣脂の灯が、図の上に鈍く滲んだ。

ネイアの右目が、細くなった。

「後装式」

「うむ」

「連発」

「毎分二十八発、射程六百歩」

ネイアは無言で図面の隅々を辿っていた。撃針の構造、薬莢の押し出し機構、槓桿の角度。商人の指は、軍人の指よりも図を読むのが速いことがある。長く、武器を金に換えてきた指であった。

やがて彼女は顔を上げ、低く、息を吐いた。

「これが大陸に出回ったら、戦は半年で姿を変える」

「半年」

「前装式の連隊は、六百歩の外で挽き肉になる。騎兵突撃は意味を失う。城壁の意義も半分は失せる。――団長、これは、戦場の常識を一枚でひっくり返す紙だ」

ガルドは図面をゆっくり折り畳んだ。

「だから、お前は来た」

「設計図一枚で、王国を買えるとは言わない。だが、設計図一枚で、貴族評議会七人を盤から落とすことはできる。――取引をしないか、団長」

「条件を、聞こう」

「製造は、私の南部商路が抱える鍛冶集落で。技師は、帝国を追われた腕の立つのを一人、心当たりがある。名はヨナス。流通は、私の闇市網。生まれた銃の、四分の一が、私の取り分だ」

「四分の一は、欲が深い」

「死人を生かす値段だよ、団長」

ガルドは火皿の灯越しに、女の片目を見つめた。十年前、メルドの戦の帰り道、半死半生で泥沼に倒れていた彼を、馬車の荷台に押し込んで運んだのは、この女であった。あの時も値は取られた。剣一振りを持っていかれた。今度は、銃の四分の一だという。

「四分の一、呑もう」

ガルドが言うと、ネイアは少しだけ眉を上げた。早い、と思ったのだろう。実際、早かった。だがガルドの計算では、設計図はネイアの手を経て初めて武器となる。図のままでは、ただの紙である。値は、生まれてから争えばよい。

「商談成立だね」

ネイアは火皿に手を伸ばし、灯芯を少しだけ伸ばした。獣脂の炎が、ふっと一段明るく坑道の岩肌を舐め、二人の影を岩壁に長く投げた。

* * *

半年前、リヴァ街道、雪解けの泥道。

南部の樅林を抜ける裏街道に、馬車一台が音もなく止まっていた。御者台に座すのはネイア・ヴェルナ。客は、頭巾を深く被った長身の男――レンフォード傭兵団副将ヴァインである。

「商人殿、長くは話せぬ。本陣の歩哨が、刻限まで道を空けてくれている」

「副将殿、ご注文の品は、これで間違いないかね」

ネイアが革袋から取り出したのは、青銅の鍵一つ。長さは指三本、軸は細く、鍵頭には文様が一つ刻まれている。糸を縒り合わせたような、三筋の渦――亡き副官レヴィアスが生前好んだ徽章であった。

ヴァインは鍵を受け取らず、ただ凝視した。

「商人殿。これを、預かってもらえぬか」

「私が、ですか」

「団長が、万一、生き延びた時は、この鍵を渡してほしい。錠の在り処は、その時に伝えてくれればよい」

ヴァインは懐から、二つ折りの油紙を出した。地図と、短い書付。それをネイアの掌に押し込み、馬車の御者台で軽く頭を下げた。

「副官殿が三年かけて拾い集めた糸が、この錠の中で眠っている。私は、それを団長に渡す前に死ぬ。間違いなく、死ぬ」

「副将殿、何故そうまで」

「黒鉄峠の死亡率を、私は自分で計算した。生き延びるのは、団長ただ一人だ。――その一人を、私は信じる」

ネイアは長く沈黙した。やがて、青銅の鍵を革袋の底に押し込み、無言で頷いた。

御者台で、ヴァインの口の端だけが、わずかに笑ったように見えた。

* * *

廃鉱の岩棚に、その青銅の鍵が置かれていた。

「――ヴァインの」

ガルドの喉から、声が掠れた。

「副将殿の、最後の遺品さ」

ネイアは淡々と続けた。

「半年前、副将殿が南部のリヴァ街道で私を呼び出した。あの方は、自分が長くないことを知っていた。北辺の戦の死亡率を、自分の目で計算なさる方だったからね」

ガルドは鍵から目を離せなかった。三筋の渦――亡き副官レヴィアスが、生前好んだ徽章である。レヴィアスが死んでから、その徽章は副将ヴァインに引き継がれていた。引き継いだことを、ガルドはヴァイン本人から聞いていない。聞かされぬまま、ヴァインは黒鉄峠の雪に首を埋めた。

「中身は」

「鍵だけだよ。錠の所在は、鍵を渡す時に教える、と頼まれていた」

ネイアは火皿の灯を、もう一段、伸ばした。

「錠は、王都リヴァンの外れ、廃された油倉庫の二階の床下。倉庫の所有者は、もう死んだ豚商人の名義で書類が偽造されている。――その錠の中に、副官レヴィアス殿が三年かけて編んだものが、眠っているそうだ」

「三年」

「大陸横断の、密偵の名簿」

ガルドの喉の奥で、低い、引き絞られたような音が漏れた。

レヴィアスがかつて廃鉱の灯の下で語った、あの「灰の糸」。戦が終わったら娼館でも開けと笑って受け流した、あの夜の冗談が、今、青銅の鍵一つに化けて、岩棚の上に置かれている。

「副将殿は、お前さんに最後の数時間で渡したかったのさ。だが、戦場では渡せなかった。代わりに、私を中継ぎにした」

「四分の一は、もう取らぬ、ということか」

ネイアは、初めて薄く笑った。

「鍵は、商談の外だよ。これは副将殿の遺言だ。闇商の女でも、遺言の上には金を乗せない」

ガルドは岩棚に手を伸ばし、青銅の鍵を掌に握り込んだ。冷たい金属が、凍えた指の中で、わずかに、人の体温の名残を伝えてきたような気がした。気のせいだろう、と思いながら、それでも彼は鍵を握り直した。

* * *

「鍵は、いつ使う」

「お前さんが歩けるようになってからだ。今、その脚で王都に入れば、城門で凍え死ぬよ」

「ひと月か」

「半月で歩けるように、私が薬を回そう。回した薬の値は、銃の四分の一に乗せておく」

ガルドは小さく、笑った。

ネイアは火皿の灯を吹き消す前に、最後にひとつ、付け加えた。

「鍵を回す前に、団長、心に留めておきな。あの錠の中の名簿には、評議会七貴族のうち、五人の名前が、密偵の通信先として書き込まれているそうだよ。誰が、どの帝国貴族と、どの密談をしているか。三年分、副官殿が拾い集めたんだ」

「五人」

「ヴェルディエ公爵の名も、あるそうだ」

火皿の灯が、ふっと消えた。

廃鉱の闇が、二人を呑み込んだ。闇の中で、ガルドは青銅の鍵をもう一度、握り直した。鍵頭の三筋の渦が、掌の皺に、ひそやかに食い込んでいく。

王都の油倉庫の床下で、亡き副官の三年が、彼を待っている。

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