第1話
第1話
その日、黒鉄峠に降った雪は、すべて鉛の色をしていた。
標高千二百の稜線、ヴァリス王国第三連隊の胸壁の内側で、ガルド・レンフォード傭兵団長は凍り付いた顎を親指で砕いていた。口を開かねば下知が通らぬ。下知が通らねば、残る百二十の部下は刻一刻と雪に埋もれていく。
「団長、中央砲座、三つとも沈黙いたしました」
副将ヴァインの声が硝煙越しに届く。ガルドは地図から目を上げずに問うた。
「狼煙は」
「三度上げてござる。――王国軍本陣、いまだ応えませぬ」
その一言で、盤の全形が見えた。敵は帝国第七軍団二個師団、火砲五十門。味方は歩兵三個中隊と傭兵団百二十、火砲は八門、兵糧は三日前より途絶。布陣の右翼では馬が凍りつき、左翼の塹壕は遺体で蓋をされている。帝国の後装砲が不規則な間隔で鳴るたび、胸壁はひび割れ、雪と臓腑が同時に宙を舞った。
ガルドは唇の端だけで笑った。
(――捨てられたか)
狼煙三本の意味を本陣が読めぬはずはない。応えぬとすれば、応えぬために峠に置かれたのだ。十年、この団は国境の穴を塞ぎ続けた。平民出の傭兵が貴族の武勲を超えれば、その首が早晩刎ねられるのは乱世の常である。ガルドは覚悟していた。ただ、部下ごと雪に埋める筋書きだとまでは、読んでいなかった。
「ヴァイン、狼煙は止めろ。火薬が勿体ない」
副将は一呼吸置き、静かに頷いた。言葉の裏の意味を、この男はとうに読み終えている。
* * *
時を同じくして、百里南の王都リヴァン、大理石の評議院控室。
暖炉の薪が弾ける小さな音に、ヴェルディエ公爵は杯を傾けていた。卓上にはレンフォード傭兵団の兵数票と、七貴族の署名入り命令書。命令書の末尾に記されているのは、わずか一行――「援軍を発せず」。
「――公爵。黒鉄峠より、三度目の狼煙にございます」
若い伝令武官の顔は青い。公爵は杯を置かず、微笑すら浮かべぬまま答えた。
「狼煙を見たのは、お前だけか」
「は、いえ、本陣の歩哨も……」
「では、見なかったことにしておけ」
短い沈黙ののち、武官は踵を揃え、退いた。扉が閉まると、隣席のモルガン伯爵が薄く笑う。蝋燭の炎が伯爵の頬に揺れ、その影が天井の漆喰の花模様に、ひび割れのような黒い線を引いた。
「あの平民が、三年前から目障りでしたな」
「三年前からではない」公爵は杯の紅を揺らした。「十年前、メルドの戦で帝国重騎兵を単騎で退けた時からだ。貴族が買えぬ剣は、王国が持つべきでない」
* * *
同じ刻、峠の胸壁。
「団長っ」
ヴァインが腹を押さえて倒れ込んできた。雪が飛び散り、副将の顎から滴った血が、倒れた瞬間に凍って小さな赤い珠となった。指の間から、黒い血が湯気を立てて溢れる。ガルドは素早く傷口を外套の帯で縛り、副将の頬を雪で拭った。外套の裏地はすでに幾度も誰かを縛って絞れており、新しい結び目は、乾いた古い血の層の上に重ねて締められた。
「歩けるか」
「なに、この程度の穴――」
「口を利くな。血を吐く」
胸壁の外では、帝国の黒煙が第三列まで前進していた。後装砲の連射音が、山塊を削る鋸のように規則正しい。人の呼吸で撃てる火器ではない――ガルドはそう悟り、背筋を一本の冷たい糸が走った。前装式なら、装填に少なくとも五呼吸は要る。この鋸の目は、二呼吸にも満たぬ。音の間隔だけが、敵の砲架に別の機構が組まれている事実を、正直に告げていた。ガルドの脳裏を、一つの問いがよぎる。――あの連射の仕組みを、奪い取れぬか。
彼は腰の短銃を抜き、胸壁の裂け目から飛び出した。
雪は腰まで来ていた。一歩ごとに脚が千切れるように痛む。息を吐けば睫に霜が結び、瞬きをする間に、その霜がまた凍った。正面から襲い来る帝国散兵を、三人、五人、七人と至近距離で射ち倒していく。銃身が焼ける匂い、肉が焦げる匂い、鉄と血と雪の匂いが、舌の上で混じった。引鉄の金属は指の肉に喰い込み、剥がれた皮膚が撃鉄の側板に黒く貼り付いたまま動かない。痛みは遠く、熱だけが手首を這い上がった。最後の一人を短刀で抉った時、雪の底に蹲る影を見た。血煙の向こう、白い雪原が、その影だけをわずかに黒く染めている。
帝国の技師服。胸には焼きごて印。懐から、油紙の包みが覗いている。死線を越えて逃げ惑ったのだろう、服の裾は裂け、膝の下は凍りついた血で板のように固まっていた。瀕死の男は唇を動かし、凍った舌で帝国語を吐き捨てた。息の端々が白く千切れ、声の後ろで、怒りとも哀願ともつかぬ小さな嗚咽が混じる。
「やめろ……これは、戦場を……変える……」
ガルドは無言で油紙を抜き取った。四つ折りの紙片に触れた指先が、焼けるように熱かった。紙の縁は、幾度も手に擦られたのだろう、柔らかく毛羽立っている。――この男にとって、この一枚は、命より先に守るべきものであったのだ。ガルドはそれを理解し、喉の奥で、拭いようのない苦さを一度だけ呑み込んだ。
背後で、ヴァインの微かな声が届く。
「団長、左翼が落ち申した。――右翼も、保ちませぬ」
ガルドは短刀を雪に突き立て、油紙を外套の裏へ押し込んだ。
* * *
黒鉄峠が完全に沈黙したのは、その夜半であった。
月の出は遅く、雪原は青黒く冷えていた。胸壁の残骸の上に、帝国軍は旗を立てなかった。この峠に旗を立てる価値なしと判じたのだろう。撤退の蹄音が薄れ、代わりに吹き下ろしてきたのは、死体を凍らせる乾いた風だけである。
ガルドは、膝と片手で雪を掻いていた。
左脚は感覚がなく、右肩の銃創は外套の裏で血を凍らせている。息を吐けば肺の奥で薄氷の割れる音がした。十間進むごとに、意識が幕のように落ちる。そのたびに、懐の油紙の硬さが彼を引き戻した。
(これを、王都に届けねばならぬ)
否――違う。
(届けて、誰に渡す)
本陣は援軍を出さなかった。狼煙を握り潰したのは、他ならぬ自軍の貴族である。届けた瞬間、この紙は貴族評議会の金庫に入り、ガルドの首は戦死報の末尾に印字される。
十間、また十間。
雪の下に硬いものが当たった。指で掻き出すと、ヴァインの兜であった。中身は、無い。ガルドは兜を雪の上に置き、右手で軍礼を切った。口から出たのは、声にならぬ声である。
「――済まぬ。先に、行っていろ」
三年前、ヴァインがこっそり彼に見せたことがある。大陸横断の密偵網の結節点。亡き副官レヴィアスが遺した「灰の糸」の概念図であった。その時ガルドは、戦が終わったら貴族相手の娼館でも開いたらどうだ、と笑って受け流した。笑って、受け流して――今、その副将の兜に軍礼を切っている。
ガルドは、唇を噛み切った。
血の味で意識を繋ぐ。鉛色の雪に、四つん這いの影が一本の線を引いていく。十間、二十間。峠の北、廃鉱の鉄扉に辿り着いた時、夜は明けようとしていた。
坑口の鉄扉に背をあずけ、ガルドは懐の油紙を取り出した。凍えた指で、ゆっくりと四つ折りを開く。紙の折り筋に沿って、吐き出した白い息が薄く染み、染みた途端に霜の粒へと変わっていく。
――後装式、連発機構。図面の下段には帝国語の小さな註釈。「毎分二十八発。射程六百歩。量産可能」。
ガルドは、笑った。
肺の奥で、やがて血の混じる笑いが、廃鉱の闇に吸い込まれていく。百二十名を殺した火薬の、その次の火薬を、彼は今、懐に抱いている。
「貴族ども」
乾いた血の裂けた唇から、声が漏れた。
「駒は、盤の上でしか死なぬと思ったか」
* * *
同じ頃、王都リヴァンの暁光の下、王国軍本陣から早馬が駆け込んでいた。
「――黒鉄峠、我が軍壊滅。生存、なし」
評議院の卓で、ヴェルディエ公爵は小さく頷いた。卓上の命令書に、赤い印章が押される。「レンフォード傭兵団長、戦死」。印字が乾かぬうちに、公爵は次の書類へ手を伸ばした。半年後、王女殿下と帝国皇子の婚礼に用いる、絹織物の発注書である。
「盤は、綺麗になりましたな」
モルガン伯爵が杯を掲げる。公爵は杯を合わせぬまま、窓の外の雪に目を細めた。
「盤は、駒を取った側だけが綺麗だと思うのだ。取られた駒は、いつでも盤そのものを割りに来る」
――廃鉱の底で、ガルドは油紙を胸に抱き直した。王都で自分の名が今いかに呼ばれているのか、己の目で確かめねばならぬ。死者として記された男がどのように歩くかを、貴族どもはまだ知らぬ。