第2話
第2話
朝、制服の袖口が、指先に擦れた。
昨日、雨宮セレナが十歩の距離から俺を追いかけた、その同じ指先だった。糊のきき方が、いつもより強い。母が寝不足の朝に限って洗濯に時間をかける癖を、俺は五年前から記録している。昨夜、俺が「ただいま」と言ったとき、母の呼吸が0.3秒遅れた。俺の帰宅時間が、普段より八分ずれていたからだ。
二階の自室の窓から、俺は路地を三度確認した。黒いパンツスーツは、立っていなかった。野良猫も、いなかった。鞄を背負い、玄関で祖父の形見の札を指で撫でる。三枚、位置はいつも通り。
登校路で、心拍を数えた。毎分八十二。俺の平常値より十四回多い。歩幅を普段の六十二センチに合わせようとして、五十九センチに縮んでいるのが自分でも分かった。自分の体が、自分を裏切りたがっている。
昇降口で、氷川と目が合った。正確には、氷川の視線が、俺の肩口の先の掲示板に吸い寄せられ、俺の顔は素通りした。毎度のことだ。
だが、今日は違う感触があった。 視線が素通りしたのではなく、俺の顔に一度触れて、それから逸らされた。0.2秒の差。
——昨日、俺が観測されたことが、誰かの観測網に伝わっている。
教室の後方、普段は見ない位置に、俺の担任ではない教師が立っていた。生徒指導部の腕章。瞳孔が、俺を認識した瞬間、0.1秒拡大した。一限の英語の教師が、俺の名前を出席簿で探し当てるまで、今日は二十秒かかった。忘れられていたのではない。むしろ逆だ。彼は俺の名前を、視線だけで二度、読み直していた。
読み直された名前は、忘れられた名前より、重い。
喉の奥に、昨日と同じ鉄の味が戻ってきた。学院も、動き始めている。
放課後までの六時間、俺は呼吸を常より浅く、一分あたり十四回に抑えた。深く吸えば、相手に読まれるものが増える。祖父から教わった退魔家の基本で、F級の俺には役立たないはずの作法だ。今日は違った。
授業の合間、水飲み場で、蛇口をひねる指の角度を意識した。生徒指導部の腕章が、廊下の曲がり角で二度、同じリズムで俺を視界に収めていた。監視の交代が下手だ。昨日まで俺を認識すらしていなかったはずの人間が、一晩で、俺の動線を覚えようとしている。
六限が終わり、俺は最後に教室を出た。これだけは、昨日と同じ手順を崩さなかった。崩せば、相手に「崩した理由」が一つ渡る。
校舎裏の非常階段から回り込み、正門ではなく通用門を抜けた。守衛室の窓ガラスに、自分の顔が一瞬だけ映った。思ったより、普通の顔だった。
桜並木の、昨日と同じ木の下。
雨宮セレナは、昨日と同じ立ち姿で、立っていた。
違うのは、手に黒い革装のノートを持っていることだった。厚み、一センチ半。角が擦れている。少なくとも二ヶ月以上、毎日開かれ続けた本の擦れ方だった。
「時間通り」 彼女の心拍は、毎分五十二。昨日と同じ値だった。
俺は三メートル手前で止まった。止めた足の爪先に、アスファルトの亀裂が沿っていた。この位置に、昨日から誰かが爪先を合わせていたような、整い方だった。
「渡しておく」 ノートが差し出された。受け取るには、あと二歩踏み込む必要があった。
「嘘だったら、投げ返していい」 彼女の瞬きが、七秒周期から八秒に伸びた。俺の判断を待っている時間だった。
俺は二歩踏み込んだ。指先でノートを受け取る。革の表面は、誰かの掌の脂で、わずかに湿っていた。
開いた。
一月三日、六時二十三分、起床。七時十一分、朝食——鮭切り身、ご飯、味噌汁(具は豆腐とわかめ)、緑茶。咀嚼回数、右奥歯十四、左奥歯九。
二月十八日、二十三時四十七分、就寝。呼吸数、毎分十二。寝返り、一時十二分、三時四十分、五時五分。
三月七日、路地裏、十七時三十二分、野良猫と接触。野良猫の瞬き、0.6秒。摂取した鰹節、推定二グラム。
ページを二枚めくるごとに、俺の一日が、俺自身より正確に記録されていた。
俺が観測する側に立ち続けた三ヶ月、誰も俺を視ていなかったわけでは、なかった。
「きみの生体リズムは、他のどの観測記録と比べても、振れ幅が狭い」 雨宮セレナの声は、風に混じらないよう、低く絞られていた。 「これは、観測する側の人間の体質。観測される側の人間は、もっと揺れる」
ノートの最終ページに、俺の一ヶ月先までの、起床時刻の「予測値」が並んでいた。全て、誤差三分以内で当てる自信のある人間が書く、細い文字だった。
俺は、自分の手の震えが、観測される側の震え方をしていないことに、気づいた。
「——なぜ、俺なんですか」 声が、思ったより掠れていた。
雨宮セレナが、答える前に、瞼を伏せた。 その瞼の裏で、彼女の眼球が、俺の後方、桜並木の根元を三度、舐めるように動いた。
——気づかれている。
彼女が、俺の手首を取った。 指先の温度は、彼女の皮膚のどこよりも低かった。
「路地へ」 囁きは、俺の耳の穴の中だけで響く角度に、調整されていた。
引かれるまま、俺は桜並木の裏手の、昨日野良猫と会った路地ではない、もう一本南側の細い抜け道に押し込まれた。ノートは、受け取ったまま、俺の左手の中にあった。
抜けた先の三差路で、足が止まった。
三人の男が、立っていた。
白いワイシャツに、紺のネクタイ。学院の教員服だ。だが、三人とも、俺が授業で一度も見たことのない顔だった。非常勤の名簿にも載らない、対外任務専属の退魔部隊。通称、校外処理班。二年の情報授業で、板書されなかった方の組織だ。
「雨宮セレナ、並びに藤堂ハル」 真ん中の男が、淡い声で言った。左頬に、薄く二センチの古傷。傷の端が、発声のたびに0.5ミリ動いている。口唇筋が傷の繊維に癒着しているタイプの、古い戦傷だ。
「学院への出頭を要請する」 男が一歩踏み出した。左右の二人は、俺たちの退路側に、扇を閉じるように回り込んだ。
四方。完全に、包囲されていた。
「《観測者の瞳》の再鑑定。および、《夜盤》観察課接触の事実確認」
俺の背中に、雨宮セレナの指が触れた。指は、ブレザーの生地の上から、背骨の第三胸椎を押した。これは退魔家の古い符牒だ。祖父の葬儀で、参列した遠縁の誰かが、祖父の柩に同じ位置で触れていた。「そこから動くな」の合図。
彼女は、退魔家の作法を、知っている。
左の男が、右手を内ポケットに差し入れた。指先が、札の束に触れた音がした。紙の擦れ音は、俺の耳には、重ねられた紙の角が七枚分触れる音だった。七枚組の呪符。一組で中位の結界術者を二秒間停止させる、出力。
右の男の心拍が、毎分七十二から七十八に上がった。術式の発動準備。
「一つ、確認する」 真ん中の男が、俺ではなく、雨宮セレナを見ていた。 「F級の判定を覆す気か、観察課」
雨宮セレナの指が、俺の第三胸椎から、第四胸椎へと、一つ下にずれた。
これは、別の符牒だった。 祖父の葬儀で、同じ遠縁の人間が、柩の前で呟いた符牒と同じ。「息を、浅く保て」の合図。
俺は、雨宮セレナの顔を見上げなかった。 ただ、路地の壁の、苔の生えた亀裂に視線を固定した。 亀裂の中で、小さな虫が一匹、呼吸をしていた。 俺には、それが見えていた。
左の男の指が、札の束から一枚を抜き出した。薄い朱色の線が、空中に引かれ始めた。 右の男の踵が、アスファルトから三ミリ浮いた。 真ん中の男の、左頬の古傷が、笑うように、一度だけ歪んだ。
「雨宮さん」 俺は、自分の声が、思ったより平らに出たことに驚いた。 「この人たち、三人とも、俺の名前、覚えてますか」
雨宮セレナの指が、俺の第四胸椎の上で、ほんの一瞬、止まった。 それから、彼女は、俺にだけ聞こえる小さな声で、答えた。
「覚えている。だから、消しに来た」
俺の右手が、ブレザーの内ポケットの、祖父の退魔札に、無意識に触れていた。札の表面は、F級の俺の霊力では、一ミリも温まらなかった。温まらないことを、俺は、生まれて初めて、受け入れずにいた。
苔の亀裂の虫が、一度だけ、呼吸を止めた。 ——彼らが動く、0.8秒前だ。
桜の花弁が、俺たち四人と一人の間に、まだ一枚も、落ちていなかった。