第1話
第1話
教室の蛍光灯が、一秒に四回瞬いている。 俺にしか見えない。他の生徒の瞳孔は、そのちらつきに対して一切収縮していないからだ。 「——えーっと、出席番号十八番……」 教壇の教師が名簿に視線を落としたまま、三秒以上沈黙している。喉仏が二度動き、下唇が内側に巻き込まれる。思い出せないときの癖だ。四ヶ月、毎日見ている。 「藤堂です」 自分で名乗った。教師の肩がびくりと跳ねた。俺のことを忘れていたのは、これで通算二十七回目になる。 「あ、ああ、藤堂ね。はい」 チェックが入る。教卓から俺の席まで、視線は一度も上がらない。 「また名乗ってたな、歩く観測対象外」 斜め後ろから、笑いをこらえる声。ランクA適性のクラスメイト、氷川。彼の心拍は俺を嘲笑するときだけ、きれいに毎分九十八回に揃う。 「Fがあんまり自己主張するなよ。観測されたらこっちの適性が下がりそうだ」 小さな笑いが、教室の三分の一に波及した。俺は頷きも反論もせず、ノートの端にその三分の一の人数を記録した。 適性試験でF級判定を受けてから、ちょうど一年。俺、藤堂ハルに与えられた異能は《観測者の瞳》——対象の生体リズムを0.1秒単位で読むだけの、戦闘に一切使えないと鑑定された地味な力だ。 使い道は、自分を笑う人間の脈拍を数えることくらいしかない。 窓の外、校舎の向こう側で黒煙が上がった。また退魔任務だろう。生徒会副会長の神楽坂が、二年の最精鋭を率いて、都内に発生した霊障を駆除している。クラスのざわめきが一瞬止まり、それからすぐ元に戻る。俺みたいな等級にはそもそも関係ない事件だからだ。 俺は、神楽坂の背中を窓越しに目で追った。戦場に入る直前に、彼女の呼吸が一度だけ深くなる。肩甲骨の間隔が二ミリ広がる。——今日も生きて帰るだろう。俺にだけ分かる予測だ。誰にも言わない。言ったところで、Fの観測なんて誰も信じない。
放課後。 教室から最後に出ていくのが、いつもの俺だ。誰に待たれているわけでもない。学生鞄の底で、磨り減った退魔札が三枚擦れている音だけが耳に届く。祖父の形見だが、F級の俺では起動させられない。飾りだ。 裏口から出て十分、古いアパートと古いアパートの隙間にできた路地に入る。湿った苔の匂い。誰かの夕飯の、油の匂い。俺の足音は、靴底が薄いぶん、砂利を踏む音が他の通行人の半分しか立たない。 路地の突き当たり、錆びたダクトの下で、白黒の毛並みが動いた。 「……よ」 声は小さい。野良猫は俺の呼吸に合わせて耳を動かす。吸う、吐く、吸う、吐く。俺の肺の動きを、こいつは一年間で完全に記憶した。人間に懐かない類の個体なのに、俺が路地に入ると、必ず三歩だけ近づいてくる。 しゃがんで、鞄の底から鰹節の小袋を取り出した。指先に震えがある。震えの周期は、俺の鼓動より0.2秒遅い。疲れているということだ。 「今日もな、名前、忘れられた」 野良猫は何も言わない。ただ、鰹節を舐めながら、俺の左手の甲に頬をすり寄せた。毛の先が冷えている。夕方の気温は十五度、風速二メートル。こいつの体温は、いつも俺より一度低い。 ——こいつだけが、俺を個体として識別している。 俺はずっと、それが自分の異能の副作用だと思っていた。観測する側に回りすぎた結果、俺自身がこの世界の観測対象から抜け落ちてしまった。誰の視界にも入らない、Fより下の何か。 だが最近、それが副作用じゃなく、本質なのかもしれないと思い始めている。 「俺が先に、お前を観てたから、懐いたのかな」 野良猫が一度だけ、長く瞬きをした。0.6秒。相手が俺に何かを許しているときの、瞬きの長さだ。 鰹節が尽きた。野良猫は喉を二回鳴らして、ダクトの奥へ消えていった。膝の関節が鳴った。俺の関節は、他の男子より乾いている。栄養状態がよくない証拠だ、と保健の教師に一度だけ言われたことがある。名前は覚えていないくせに、数値だけは覚えていたらしい。 路地を抜け、表通りに出る。 ——その瞬間、俺の呼吸数が乱れた。
正門から二十メートル離れた、桜並木の下。 黒いパンツスーツの女が、一人で立っていた。 通行人は彼女を避けて歩く。だが、誰も彼女を「視て」いない。視線が彼女の顔の手前で、必ず一度逸れる。——結界術式だ。認識阻害の一種。俺の《観測者の瞳》は、生体リズムを読むついでに、術式の干渉も生体の微細な歪みとして拾ってしまう。 だから俺にだけ、彼女がはっきり見えていた。 身長百六十八センチ。年齢、二十代後半。脈拍、毎分五十二。安静時でこの値は、戦闘訓練を積んだ人間の数字だ。 それだけじゃない。瞬きの間隔が、ちょうど七秒で一定している。視野の端で動くものを、一切見落とさないための、訓練された呼吸法。指先の角度、重心の置き方、肩の落とし加減——どれもが「すぐ動ける」ために最適化された立ち姿だった。普通の通行人とは、立っている目的そのものが違う。 俺は足を止めなかった。止めたら、視ていることがバレる。Fの俺が、学院の敵対組織らしき人間を認識したことを気取られるのは、生存上、最も避けたい事態だった。 喉の奥に、鉄の味に似たものがせり上がる。緊張すると唾液の成分が変わる。これも、俺だけが自分の体で観測できる現象だ。歩幅を変えない。呼吸の深さも変えない。視線は、彼女の二メートル先の街路樹の根元に固定する。 通り過ぎる。桜の花弁が二枚、彼女のスーツの肩に落ちて、そのまま留まった。風速は二メートルのままなのに、花弁が動かない。彼女の体表に、ごく薄い斥力の膜が張られている。高位の結界術者だ。 俺の横を、彼女の声が追ってきた。 「——藤堂ハルくん」 背骨の真ん中が、冷える。 俺の名前を、躊躇なく、一発で呼ぶ大人を、俺は一年ぶりに聞いた。 振り返らない、と決めていた手が、勝手に鞄の紐を握り直した。紐の縫い目の位置が、俺の親指の腹にいつもと違う角度で触れた。鞄が、俺の背中で0.5センチ傾いている。観測ミスだ。動揺している。 「振り返らなくていい。そのまま、あと十歩だけ歩いて」 声は柔らかかった。命令ではなく、依頼の抑揚。だが、逆らえない重さがあった。 十歩。 一歩目、靴底が砂利を噛む音が、いつもの倍に聞こえた。二歩目、心拍が毎分百を超えた。三歩目で、自分の足が他人の足のように遠く感じられた。それでも歩幅だけは、平常時と同じ六十二センチを保とうとしている。F級と判定された俺の、唯一の防衛本能だった。 数え終わる前に、彼女の革靴が、俺の真後ろ、五十センチの距離にいた。足音をまったく立てずに、追いついていた。 「初めまして。《夜盤》観察課、雨宮セレナ」 《夜盤》。 学院が「最優先警戒」と位置付ける、敵対組織の名前だ。二年の情報授業で、一度だけ板書された。覚えている。あの授業の日、教師は俺の出席を取り忘れた。 「きみのことを、三ヶ月間、観察していたの」 桜の花弁が、俺の靴の甲に落ちた。 「登下校、食事、睡眠、呼吸。全部、秒単位で記録してある」 俺は、振り返らなかった。振り返れなかった。 ——観測されていた。俺が、誰かに。 この一年間、誰にも視られなかった俺が、三ヶ月間、一人の人間に視続けられていた。 喉の奥が、熱い。怒りなのか、それ以外の何かなのか、俺自身の《観測者の瞳》でも、判別がつかなかった。
「一つだけ、先に伝えておく」 雨宮セレナの声は、俺の左耳のすぐ後ろにあった。吐息が襟足に触れる。体温は三十六度七分。彼女の心拍は、俺に話しかけた瞬間から、一度も揺らいでいない。 「学院がきみに与えたF級という判定——あれは、嘘」 桜の花弁が、また一枚、今度は俺の制服の肩に落ちた。さっきの彼女と同じ位置に、同じ角度で。 「きみの瞳は、対象を観測するんじゃない。観測された側の座標を書き換えるの」 鞄の紐が、俺の指の中で軋んだ。 「その証明は、明日、私がする」 革靴の音が、一歩、遠ざかった。 「また明日。同じ時間に、同じ場所で」 振り返ったときには、桜並木に、彼女の姿はなかった。肩に落ちた花弁だけが、風に逆らって、まだそこに残っていた。