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F級観測者は世界を採寸し返す

第3話 第3話

第3話

第3話

苔の亀裂の虫が、呼吸を止めた。 俺の《観測者の瞳》が、それを信号として受け取った。男たちが動く0.8秒前。雨宮セレナの指は、俺の第四胸椎から離れ、いつの間にか、彼女自身の黒革ジャケットの裏、脇腹の高さに滑り込んでいた。鞘の金具が、シャツの繊維に擦れる音。細身の短剣、刃渡り十七センチ程度。 ——武装している。

左の男が札を一枚、空中に滑らせた。朱線が、三差路のアスファルトの真上に、二等辺三角形の結界を描こうとしている。描き切られれば、俺たちは中に封じられる。発動までの残り、俺の脈拍で数えて五拍。 右の男の踵が浮いた。前に出るための体重移動だ。膝の屈曲角度、十二度。左足から踏み込む動作。蹴撃を混ぜた体術タイプだ。 真ん中の男の左頬の古傷が、二度、歪んだ。笑った、のではない。口腔内で、呪文の第一音節を噛んでいた。

俺はノートを左手で鞄の隙間に押し込んだ。革装の重みが、鞄の底で祖父の札三枚に触れ、小さく擦れた。 「雨宮さん」 俺は、自分の声が鉄の味で湿っていることに気づいた。 「札の男が先です。0.8秒後、三角形が閉じる」 「把握」 雨宮セレナの声は、呼気を最小にして絞り出された。俺の制服の袖口を、彼女の左手の指が、もう一度だけ掴んだ。指先は、さっきより一度、冷えていた。

「覚えておいて」 彼女は、俺の耳の奥だけに、言葉を差し込んだ。 「あなたの瞳は、観測する瞳じゃない。観測された側の座標を——書き換える瞳」

俺の瞼が、その瞬間、重くなった。 一度だけ瞬きをしたかった。それだけのことが、地平を動かすくらいの重さで、俺の睫毛に降りてきた。 だが、まだ瞬かなかった。 苔の虫の呼吸が、あと三拍、止まり続けている。

雨宮セレナが、先に動いた。 彼女の左の袖口から、薄青い光の糸が六本、滑り出した。糸というより、霧の筋に近い。空気の湿度をその場で上げて視覚化した、結界術者の基礎技だ。俺は五年前、祖父が縁側で一度だけ見せてくれたのと同じ形状を、目で覚えている。 六本の筋は、三差路の四つの出入り口に向かって放射状に広がった。出口の封鎖じゃない。音の封鎖だ。通行人が俺たちの争いを聴き取れなくするための、対外遮音結界。彼女はまず、周囲の無関係な市民を切り離しにかかった。民間人を巻き込む戦い方を、彼女はしない。

左の男が、それを見て、舌を打った。 「認識阻害と遮音を同時に張る……やはり、観察課の主任クラスか」 札の朱線が、加速した。三角形の、最後の一辺が引かれ始める。

右の男が踏み込んだ。膝の屈曲は、俺が予測した十二度よりも、二度深かった。修羅場を踏んだ人間の、最適化だ。彼の左拳の軌道は、雨宮セレナの顎ではなく、彼女の右肩の関節を狙っていた。結界術者の利き腕を潰すのが、対術者戦闘の定石だ。

雨宮セレナの短剣が、鞘から出る音を、俺は聞いていない。 気づいたときには、刃の背が、右の男の手首の内側、橈骨動脈の真上で止まっていた。止められていた。皮膚に触れる寸前、ほんの一ミリ手前で。 「——学院の生徒じゃない。大人の拳を、大人の刃で受けただけ」 雨宮セレナの声は、俺の右耳の後ろで、まだ絞られていた。 「藤堂くん、瞬いていい。今」

俺は、瞬きを、まだ、していなかった。

真ん中の男の、呪文の第一音節が、口腔から吐き出された。低い、喉の奥から搾る発声。聞いたことのない古い言語。俺の鼓膜が、その周波数に反応して、奥の三半規管が微かに傾いだ。平衡感覚を削る、呪音だ。 左の男の札が、完成した。三角形の朱線が、閉じた。 俺と雨宮セレナの足元に、床の文様が発光し始めた。結界が起動する。発動までの残り、二拍。

——瞬く。 それだけでいい、と彼女は言った。 だが、F級の俺が、瞼一枚で、何が変わるのか。 一年間、何も変えられなかったこの瞼が。教師の名簿で飛ばされ、氷川の笑いの内側で削られ、自分でも観測対象外だと認めていた、この睫毛一本一本が。

雨宮セレナの指が、俺の袖口を、もう一度、握り直した。 「あなたの瞳が《観測者の瞳》と判定された日——あなたは、何を視ていたの」 一拍。結界の文様が、青みを増した。 「思い出して。F級と刻印された、あの瞬間に」

思い出す必要は、なかった。 十二歳、春、鑑定塔の地下三階、白い部屋。検査官が俺の左目に小さな光を当てた、その直前。 俺は、視ていた。 検査官本人の、瞳孔の奥の、七秒周期の瞬きを。 検査官の右手の、腱の一本を。 検査官の心拍が、俺の観測を感知した瞬間、0.4秒だけ、跳ねたのを。 そして——俺の瞬きに合わせて、検査官の呼吸が、一瞬、止まったのを。

俺は、その日、何かを「止めた」。 止めたことを、忘れた。忘れるように、塔は俺にF級の烙印を押した。

苔の虫が、呼吸を、再開しようとしていた。 それが、動き出す合図だった。

俺は、瞼を、落とした。

落とした、というより、俺の意志より先に、瞼が降りた。睫毛が、頬の上に0.04秒だけ伏せられた。 その0.04秒の間に、三差路の、空気の層が、わずかに揺れた。

——揺れたのが、俺には、見えていた。 瞼を閉じているのに、見えた。観測する瞳は、光を必要としなかった。光を必要とする目は、光を失えば盲目になる。観測する瞳は、世界のほうが、光を失う。

左の男の、心臓の拍動が、止まった。 止まった、と、俺は知覚した。 俺の耳ではなく、俺の瞳の、まだ閉じている瞳の内側で、男の胸郭の振動が、一拍、消えた。二拍目は、来なかった。 真ん中の男の、呪文の第二音節が、吐き出される前に、気管の途中で、止まった。男の横隔膜の動きが、一瞬で凍結した。 右の男の、橈骨動脈の脈が、雨宮セレナの短剣の刃の下で、拍動を失った。 三人とも、同じ瞬間に。

俺は、瞼を、開けた。

三人の男が、同時に、膝から崩れた。 左の男の札が、空中で止まった三角形のまま、朱線を保てずに、端から粒子状にほどけていった。真ん中の男の、左頬の古傷の上に、汗の粒が一つ、動きを止めたまま留まっていた。右の男の拳は、雨宮セレナの肩まで、あと十五センチのところで、宙に浮いていた。

アスファルトに、三人の身体が、倒れた。 音は、雨宮セレナの遮音結界の内側で、薄く響いた。

俺の耳には、三人の胸郭が動かない音だけが、はっきり聞こえていた。 動かない音、という矛盾。無音を、俺の瞳は「音」として知覚していた。

呼吸が、うまく、できなかった。 肋骨が、自分の体の中で、置き場所を忘れた。肺の中の空気が、吐くべきものなのか、吸うべきものなのか、分からなくなった。

「三人とも、心停止」 雨宮セレナの声が、俺の、どこか、遠い位置から、聞こえた。 「……生きてる。可逆」 彼女は、三人の首筋に、順に短剣の柄頭を当てた。一人ずつ、柄頭の水晶が、淡く光った。 「一時停止。五分後に再起動する。書き換えの範囲が、心拍の停止だけに、抑えられている」 抑えられている、と彼女は言った。

俺は、それが、自分の意志で「抑えた」ものだとは、思えなかった。

自分の右の掌を、見た。 掌の皮膚の、生命線の三番目の分岐が、わずかに、震えていた。 この震えは、観測する側の、震えじゃ、なかった。 観測した対象に、俺自身が、初めて「揺らされた」側の、震えだった。

一年間、自分は観測対象から抜け落ちている、と、俺は思っていた。 違った。 抜け落ちていたのは、俺の名前を呼べなかった世界のほうで、俺は、ずっと、世界の中心にいる側の瞳だった。それだけの話だった。

「これが」 雨宮セレナが、俺の掌の前に、自分の指先を差し出した。 触れはしなかった。 「あなたの、本当の力」

彼女の声は、褒めているようには、聞こえなかった。 怯えているようにも、聞こえなかった。 ただ、確認していた。三ヶ月、毎日、ノートに書き続けた仮説の、最後の一行を、埋めるように。

「《観測者の瞳》は、観測されたものの座標を、書き換える」 彼女は、続けた。 「書き換えた側は、書き換えた分だけ、対価を払う。あなたの掌が震えているのは、そのせい」

俺は、掌を握った。 握っても、震えは止まらなかった。握った拳の内側で、震えは、さらに、俺の骨の芯に響いた。

三人の男たちは、アスファルトに倒れたまま、呼吸を再開する気配が、まだ、なかった。

「十五分後には、学院の対策班が、この三人の生体反応の消失を、感知する」 雨宮セレナが、鞄のノートを、俺の手から、一度取り戻した。最終ページを開き、そこに、新しい一行を書き加えた。 「藤堂ハルくん——今日、十七時四十三分、《観測者の瞳》の反転覚醒、確認」 万年筆のインクが、桜の花弁の色に、近い、薄い朱だった。

「家には、帰れない」 彼女は、ノートを閉じた。 「あなたの両親に、今夜、学院から、通知が届く」 何の、通知、ですか。 俺は、声に出せなかった。

彼女の瞳が、俺の瞳を、まっすぐ、観た。 「『保護施設への、移送命令』」 桜の花弁が、一枚、俺の、まだ震えている掌の上に、音もなく、落ちた。

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