第2話
第2話
鱗と、泥と、焚火の灰。
三つの匂いが、この順で鼻腔へ戻ってきた。レイヴンはそれを、自分が生きているという報告書のように受け取った。頬の下に粗い麻網の結び目が食い込んでいる。下顎がずれているのか、歯を噛み合わせようとすると、頭蓋の内側で小さな火花が散った。左右の肋骨は、呼吸ひとつに音を立てて軋む。息を吸うたび、肺に鉄屑を詰め込まれたような痛みが走った。生きているという事実は、どの器官にも痛覚の形で通知されていた。
「まだ生きとる、の」
割れた声が、頭上に落ちた。老人の声。後にランケンと名乗ることになる漁師の、節くれ立った指が、濡れた襤褸を骨に触れぬ角度で剥がしていった。慣れた手つきだった。猟師か、元従軍医か、どちらにしても、人間の折れ方を幾度も見てきた指だった。
「八本、折れとる。内臓は、奇跡的に、無事じゃ」
老人は小屋の土間に藁を厚く敷き、その上にレイヴンを寝かせた。ヘルモド渓谷から三十里下流、水車小屋の堰でかかった、と後日語った。毒は吐いて、流されて、水で薄められ、致死量の縁で留まった。あと一滴、あと一呼吸遅ければ、網を曳く前に仏だった――そういう運の呼ばれ方をした。
「名は」 「……」
レイヴンは答えなかった。答えないほうが、都合が良かった。
「ほう。都合の悪い名か」
老人は笑わず、薬草を煎じに背を向けた。煎じた根の匂いが、鼻の奥で、あの日の盃の三層目の香――蔦の根――と重なった。焦げた舌の端が、ひりっと痺れる。盃は落ちた。砕けていない。盤面は、まだ続いている。
*
雪が二度降って、二度溶けた。
小屋の煤けた梁を数える日々が、半年続いた。鎖骨がまっすぐに繋がるまでに三月、右膝の皿が砕けた破片を体が包み終えるまでにさらに三月、を要した。梁には煤と一緒に、前の住人のものらしい刻み目が七つ並んでいる。レイヴンは仰向けのまま、それを数えては、十二将の名を当てはめる遊びに使った。一本目はヴァルター、二本目はグラオン、三本目はザンク、四本目はミアル、五本目はドラク、六本目はカレンツ、七本目はヴォラン――名を置くたびに、梁の節が顔に見えてくる。ミアルは酒、ドラクは末娘、カレンツは借金、ヴォランは遠征での敗走の傷――それぞれの急所を、節の歪みに沿わせて記憶へ埋めていった。誰の喉を、どの手順で詰めるか。天井は、図面だった。湿気で膨らんだ梁板が夜ごとに小さく軋み、十二人の将が、自分の名を呼ばれるのを待っているようにも聞こえた。
体を起こせるようになった最初の日、レイヴンは囲炉裏端に座り、灰の上に小枝で図を描いた。ヘルモド渓谷、属国ルーメルの駐屯地、帝国第三軍団の七つの輜重路。記憶の抽斗から、一つずつ駒を取り出しては、灰へ置いていった。小枝の先で灰を掻くと、微かに焦げた松脂の匂いが立ちのぼる。指の震えが、描いた線の端を歪ませた。折れた鎖骨が、肩の内側で一拍遅れて鳴る。鎖骨のすぐ下、心臓の真上の皮膚に、溺れたあの夜の冷たさがまだ薄く張り付いていた。指で押せば、骨の代わりに記憶のほうが先に痛んだ。それでも、灰の上の国境線は、揺るがなかった。
「なんの絵じゃ」 「――河の流れ」
嘘はつかなかった。河の流れだ。ただし、水ではなく、兵站の流れだった。小麦の袋が、馬車が、干し肉の樽が、どの街道を、いつ、どの速さで動くか。帝国の兵站は見事に機能しているように見えて、属国兵への配給比で、十日ごとに小さな齟齬が出る。その齟齬に、十万の大軍を詰ませる余地がある。齟齬は、帳簿では見えない。現場の粥の濃さ、兵の舌打ちの数、馬糞の乾き具合――そういう細部にだけ、姿を現す。レイヴンは、細部を三年かけて記憶してきた男だった。
春の二月目、行商人が一人、小屋に泊まった。塩と釘を背負った痩せた男で、焚火に手をかざしながら、川向こうの噂を落としていった。油紙で包まれた塩の塊が、囲炉裏の熱で微かに汗をかき、湿った木の床に小さな輪を残す。男の指は、塩焼けで赤黒く、爪の付け根に白い粉が噛んでいた。男の声は、塩を売り歩くうちに風化した節回しで、どの地方の訛りでもなく、どの訛りにも少しずつ似ていた。
「帝国軍が、西へ動くぞ。十二将のうち、ヴァルター伯爵の第三軍団が先鋒。目当てはガリアよ。女王様は、まだ十九の娘御じゃ。ひと夏で首が変わる、と賭けが立っとる」
灰の上の小枝が、レイヴンの指の中で止まった。
呼吸が、一拍、遅れた。肋骨の奥で、古い骨折の線が、焼き直された鉄のようにじわりと熱を持つ。肺の底で、毒を吐いたあの夜の嘔吐反射が、半年越しに一度だけ鳴った。指先が無意識に灰を掻き、灰の上に書きかけた河の線が、一本、余計に伸びた。――ヴァルター。名を音として聞くのは、半年ぶりだった。頭の中でだけ転がしていた駒が、他人の口から転がり出た瞬間、それは急に重さを持った。毒杯を寄越した男が、自ら盤上に駒を進めてきた。
十万の軍勢、先鋒第三軍団、女王は若く、宮廷は経験不足。帝国側の計算は、素人目にも正しい。正しすぎた。正しい計算は、正しい罠に詰むように、たった一つの前提が揺らげば崩れる。属国ルーメル兵――あの配給比の齟齬で不満を溜めた兵たち――が、戦場で一歩だけ向きを変えれば、陣形は内側から折れる。
レイヴンは、行商人に気取られぬよう、目を伏せた。口の中で、半年前の毒の苦みが、唾液に混じって戻ってくる。苦みは、もはや憎しみではなく、手順の味だった。憎むだけなら、半年前に死ねばよかった。生き延びた以上、憎しみは、盤の駒に換算しなければならない。
灰の上で、十六手の第一手が、確定した。
「敵国ガリアへ」
声は、半年ぶりに喉の芯から出た音だった。掠れて、低く、自分でも知らない男の声のようだった。行商人は聞きとがめず、塩の塊をもう一つ火の近くへ寄せた。
*
ランケンは、薪を焚べる手を止めなかった。
「行くのか」 「行く」 「足は、まだ曲がっとらん」 「曲がらんでよい。曲がらぬ方が、都合がよい」
老人は、やっと振り向いた。しわだらけの目が、一度だけ細まった。戦場帰りの男が、戦場へ戻るときに見せる目を、幾度も見てきた目だった。止めても無駄だと、老人も知っていた。
「傭兵募集か」 「ああ」 「帝国へ売るのか、ガリアへ売るのか」 「買わせるほうを、選ぶ」
レイヴンは、灰の図を掌で払って消した。残った線は、頭の中にだけある。消せば消すほど、鮮明に輪郭が立つ種類の図だった。
彼は、鏡代わりの水甕を覗いた。甕の底に沈んだ藻が、覗き込む顔を下から揺らす。水面に波紋が立つたび、頬の輪郭が溶けて、別人の骨格に組み替わっていった。頬はこけ、白髪は増え、顎にはもう髭が伸びている。三十二の顔ではなく、四十に近い別人の顔が、揺れる水面に浮いていた。好都合だ。帝国第三軍団の名簿に載った「レイヴン」は、崖下で死んだ。ここにいるのは、名前を失くした一人の漂流者――記憶を失った、と言い張るのに、ちょうどよい顔立ちだった。
「素性を、訊かれたら」 「覚えておらぬ、と答えます」 「傷の古さで、見抜かれるぞ」 「見抜かせます」
老人の眉が、上がった。
「戦場を知る男が、記憶を失くして流れ着いた。――この顔書きだけで、使えると踏む者がガリアにはおる。エルハルト重臣。人を、傷の古さで選ぶ男です」
どこで知った、と老人は訊かなかった。傭兵なら、大陸中の将の癖を頭に入れている。それが生業だった。
「死にに行くのではないのか」 「いや」
レイヴンは、壁に立てかけていた杖を取った。木の節が、掌の古い胼胝に噛み合う。歩くたび、右膝が内側で小さく鳴った。痛みは、もはや情報だった。どの姿勢で、どれほどの距離を、どの速度で歩けば、膝が先に折れるか。すべて計算できる痛みだった。
「詰ましに行く」
老人は、しばらく黙った。それから、炉棚の奥から塩漬けの鹿肉を一塊、布に包んで差し出した。
「三日分じゃ。四日目からは、自分で狩れ」 「恩は」 「要らぬ。鴉に、貸しを作っても、返せぬ」
*
小屋の扉を押し開けると、雪解けの風が、半年ぶりに外気として頬を打った。
空は灰色、南の山稜の向こうに、ガリア国境の関所が霞んでいる。関所の先で、傭兵募集の旗が立っているはずだった。そこに無名の男が一人、杖をつき、名を訊かれれば首を振る。それだけの仕事だった。
レイヴンは、杖に体重を預けて、最初の一歩を踏み出した。右膝が、予定通り、きしり、と鳴った。雪解け水の匂いが、鼻腔の奥で、半年前の盃の一層目の香――山の湧き水の冷たさ――と重なった。盤は、閉じられていなかった。
盤面の第一手が、動いた。