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毒杯の傭兵、帝国を詰ませる

第3話 第3話

第3話

第3話

杖の先が、関所前の乾いた砂を、軋ませた。

アルバス関所――ガリア王国東境、帝国領との最後の緩衝地帯である。レイヴンは杖を突き直し、延びた列を斜めに数えた。三十七人。甲冑の擦り傷の古さ、靴底の減り方、首の筋の太さ――ひと目で、三割は本物の剣筋を持っている、と判じた。残りの七割は、戦場で荷運びをした程度の男たちか、脱走兵崩れか、そのいずれかだった。

雪解けの風が、低く吹き抜けた。馬糞と鉄油と、薄く混じる血の匂い。半年前、ヘルモド渓谷で嗅いだものと、同じ配合だった。砂利の軋みと、馬の嘶きの粗さと、誰かが甲冑の内側に溜めた汗の塩気――記憶の鋳型に、風が、ぴたりと嵌まった。胃の奥が、毒の記憶で、一度だけ痙攣した。痙攣する臓器があれば、まだ盤は回る。

「おい、そこの。片足も、まともに動かぬ老いぼれが、何しに来た」

声は、列の後方から、わざと届く大きさで飛んできた。薪のように痩せた男――仲間が「北街の熊」と呼んでいる男――が、鼻で笑った。周囲の男たちが追随する。レイヴンは振り向かず、杖の先で、砂にすっと一筋、線を引いた。帝国第三軍団の輜重路の、西端である。誰にも見えぬ線だった。

「無言か。よほど、名乗るのも恥ずかしい素性と見える」

別の男が言った。レイヴンは顔を上げない。

選考官の張り上げた声が、天幕の奥から漏れてきた。

「次」

杖が、砂を噛んだ。右膝が、予定通りの音で、鳴った。

天幕の内は、煤けた油布の匂いと、獣脂燭の湿った光で満ちていた。奥に三人、卓を挟んで座っている。中央の、頬に蛇のような刀傷を走らせた男が、選考長らしかった。左右は記録官と、剣の点検役。卓の上には、入隊願書の木札が散らばり、その隅に、折りたたまれた地形図が一枚、押さえの銅盤の下から角だけ覗いていた。

レイヴンは、その角を、見た。

「名は」

選考長が、顎で促した。

「……覚えておりませぬ」

しわがれた声を作った。ランケンの小屋の水甕で、五十回練習した声だった。奥で、記録官の羽根ペンが、一瞬止まった。

「ほう。記憶が、ない、と」

選考長の口の端が、歪んだ。面白がる顔ではない。値踏みの顔でもない。疲れた顔だった。こういう男を、この半月で、三十人は追い返した、という顔である。

「どこで戦った」 「……覚えておりませぬ」 「手柄は」 「覚えておりませぬ」

笑い声が、天幕の外まで届いた。列の男たちの嘲りが、幕布を透かして入ってくる。「帰れ」「物乞いなら隣村じゃ」「ガリアも落ちたな、そんな男まで」――雑音を、レイヴンは数えなかった。数える価値のない言葉は、盤上の駒の動きに関わらぬ。

点検役の男が立ち上がり、杖を取り上げようとした。レイヴンは、握りを緩めた。抵抗はしない。杖は、武器ではない。武器でないものを奪っても、盤面は動かない。

「出て行け」

選考長が、手を振った。

レイヴンは、動かなかった。代わりに、痩せた指を伸ばした。

「卓の、その地形図を」

一瞬、天幕の中が、静まった。

「何と申した」 「地形図を、お広げ願いたい。帝国第三軍団、ヴァルター伯爵の、次手を、お伝え申し上げる」

選考長の、蛇の刀傷が、ぴくりと動いた。記録官の羽根ペンが、卓の上でころりと転がった。点検役が、杖を取り落とした。幕布の外の嘲笑が、ふっつり、途絶えた。

「――お前」 「一度、ご覧になるだけで、よろしゅうございます」

天幕の外の風が、帷を、ぱたりと叩いた。獣脂燭の炎が、応じて、細く尖り、また丸く萎んだ。

レイヴンは、卓に両手を突いた。右膝が、内側で鳴る。痛みは、情報だった。

選考長は、しばし、動かなかった。獣脂燭の炎が、一度、ちりちりと音を立てた。頬の蛇の刀傷の上を、黒い影が、這い、また戻った。

やがて、銅盤の下から、地形図を引き出した。広げた図は、手擦れで角が丸まっていた。紙の縁は、指の脂と蝋と、誰かがこぼした葡萄酒の染みで、幾重にも色を変えていた。ガリア東部、属国ルーメル境、ヘルモド渓谷下流――レイヴンの半年を焼き付けた、まさにその一帯であった。レイヴンの目は、紙の上の等高線を、一度も追わなかった。追う必要が、なかった。あの渓谷の、砂利の一粒一粒を、爪先で、覚えていた。

「ヴァルターは、今、ここにおる」

選考長は、地図の一点――東境の都市、カランツ――を指した。

「先鋒八千、主力は二週の後にルーメル駐屯地へ合流の報。どう詰まる、と言うのだ」

レイヴンは、卓に覆いかぶさるように身を傾けた。痩せた指が、図の上を滑る。

「第三軍団の兵站路は、七つございます」

指が、七本の街道を、一本ずつ、なぞった。爪の先が、乾いた紙を、かすかに引っ掻く音を立てた。点検役が、喉を鳴らす音が、幕布の下で、小さく撥ねた。

「このうち、四本は帝国直轄、三本は属国ルーメルが管理。ヴァルターは、この三本の属国路を、主力の補給に使いまする」 「なぜ、と分かる」 「属国兵への粥が、薄うございますゆえ」

選考長の眉が、寄った。

「……粥」 「配給小麦の比で、属国兵一人当たり、帝国兵の六割七分でございます。この比は、三年、変わっておりませぬ。主力が到着すれば、比はさらに下がる。下がれば、属国兵は、戦場で、半歩、向きを変えまする」

記録官の羽根ペンが、かたかたと震え始めた。

「半歩、とは」 「敵陣形の、内側に鋒を向けるか、向けぬか、半歩分の迷いでございます。迷いが半歩あれば、陣は、折れまする。折れる位置は――」

指が、図の一点で止まった。

「このヘルモド渓谷の下流、サドル丘陵。ここで、主力が渡河を試みる。先鋒八千は、本隊より三日、前に出て、この丘を押さえにかかる。押さえ切れぬまま、側面を晒す」 「断言、致すか」 「ヴァルターの、癖に、ございます」

レイヴンは、顔を上げた。

「あの男は、先鋒に三日、必ず、無理を強います。本陣の体面の、ためでございます」

選考長の蛇の傷が、もう一度、動いた。今度は、嘲りではない何かが走った顔だった。記録官は、もはやペンを握っていなかった。点検役は、杖を拾うのも忘れて立ち尽くしている。

「お主――」 「一つだけ、お訊ね、申し上げても」

レイヴンは、しわがれた声を、落とした。

「ヴァルター伯爵の、侍従、シャルルと申す者。白貂の肩掛けを羽織り、扇を、使いまする。――この男は、今、本陣か、後方か、いずれに」

選考長が、一瞬、考えた。

「……本陣だ、と、間諜の報にある」

レイヴンの顎の筋が、一度、鳴った。それだけだった。掌の下で、地図の紙が、微かに汗を吸った。半年ぶりの、甘い香油の気配が、鼻腔の奥で幻として立ちのぼり、毒の苦みと一緒に消えた。顔を動かさぬことだけに、レイヴンは、右膝の内側の痛みを使った。痛みは、情報であると同時に、秤でもあった。秤の上に、扇を弄ぶ白い指先の記憶を載せると、盤は、一度、静かに傾き、そして、また元の平衡へ戻った。半年、磨いた、戻し方、であった。

天幕の、帷が上がった。

入ってきたのは、選考長の上役の、男だった。灰混じりの顎鬚、厚い手甲、肩章はガリア王国軍、参謀本部のもの――エルハルト重臣、と、レイヴンは一瞥で判じた。人を、傷の古さで選ぶ男である。

「話は、幕の外で、聞かせてもろうた」

重臣の声は、低かった。一語ごとに、空気の重みが増していく。

「傭兵試験は、免じる」

卓の上の木札を、重臣は一枚、指で弾いた。

「明朝、作戦会議じゃ。参られよ」

重臣は、それ以上、言葉を足さなかった。足す性分の男ではない、とレイヴンは判じた。判じる対象が、自分の側から重臣の側へ移った、その事実だけで、盤の輪郭は、わずかに押し広がった。

天幕を出ると、列の男たちが、一斉に視線を逸らした。さきほどの「北街の熊」が、口を半分開いたまま、石のように固まっている。嘲笑の音は、もう、どこにもなかった。

レイヴンは、杖を拾った。杖は武器ではない。武器ではないものを、もう一度、握り直した。

「明朝、作戦会議」

重臣の言葉を、口の中で、一度だけ転がした。盤上の駒が、二手目の位置へ、収まる音がした。ヴァルターの本陣へは、まだ遠い。だが、遠さだけなら、この半年で、慣れた。

関所の向こうで、ガリアの旗が、風に、一度、翻った。

雪解けの風が、頬を打った。

レイヴンは、右膝を内に鳴らしながら、重臣の背を、追い始めた。

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