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毒杯の傭兵、帝国を詰ませる

第1話 第1話

第1話

第1話

鉄と腐肉の匂いが、レイヴンの喉に絡みついて離れなかった。

帝国東方国境、ヘルモド渓谷。昨夜まで一千の敵影で埋まっていた谷底は、いま折れた槍と死体で凪いでいる。風は重い。黒鴉の旗が煙の中で湿った音を立てた。三百の兵で一千を破った――そのひと言が、事実として地面に広がっていた。鴉の群れが、まだ低空で輪を描いている。餌の多さに、降りる順番を決めかねているようだった。

「隊長。伯爵の使者が着きなされた」

副官ダーモが、泥で黒ずんだ頬を拭いもせずに告げた。背後で、担架の負傷兵が呻いている。薬師の少年が震える手で麻布を裂いていた。裂く音が、ひどく乾いて聞こえる。レイヴンは返事の代わりに、折れた長剣の柄を地面に突き立てた。指の節が血で固まって、思うように動かない。握り直すたび、皮膚と金具の境でぴり、と何かが剥がれる音がした。

「金貨の袋は、馬三頭分だそうだ」 「それだけか」 「それだけ、だ」

ダーモは低く笑った。笑うと右頬の古い刀傷が引きつれる。二年前、アルテリア戦線で副長ガレスが縫ってくれた傷だった。ガレスはいま、後方の輜重隊に残して来ている。怪我をさせたくない戦場には、必ず残す男だった。ダーモの笑いは、いつもそうやって傷の上で軋む。笑うほどに痛むはずの笑いを、この男はずっと捨てなかった。

レイヴンは兜を外した。黒い髪に、ちらほら白が混じっている。千の敵を前にして十七度、盤面を読み替えた。敵の副将が騎兵を左翼へ回す癖、補給馬車が泥濘を避ける経路、本陣の伝令旗の振り方――すべてを読み、三百で千を詰ませた。

その代わりに、四十七人。

「全員、名前で呼べ」

死者を並べた仮台の前で、レイヴンは低く命じた。番号で呼ぶな。傭兵になって十二年、ずっと守ってきた流儀だった。戦死報告書には顔があるのだと、部下たちに何度も教えてきた。名前を呼ばれなくなった瞬間、人は数になる。数になった人間を、宮廷は平然と計算に組み込む。だからこそ、最後まで名前を捨てなかった。

「今回は、……名前で呼ぶのに、時間がかかりますぜ」

ダーモの声が、詰まった。喉の奥で、砕けた石のような音が鳴っていた。

使者の一行は、渓谷の入口に馬を停めていた。四騎。先頭の男が白貂の肩掛けを羽織り、馬上で扇を緩慢に揺らしている。帝国第三軍団長ヴァルター伯爵の侍従、シャルルという名の文官だった。泥の一滴も、その白い襟には付いていなかった。

「お疲れさまでございました、レイヴン殿」

声は甘く、湿っていた。扇の骨が、ぱち、と軋んだ。戦場の風ではない、香油の匂いが鼻を掠めて、レイヴンは一度だけ眉を寄せた。泥と血にまみれた谷底で、その匂いだけが異物だった。宮廷の回廊でしか成立しない種類の清潔さが、死体の列の前に立っている。

「伯爵閣下より、おふたつ、賜り物を預かっております。ひとつは、金貨の入った革袋。馬三頭に積みましてございます」

レイヴンは答えなかった。泥で重くなった足を一歩進める。血の味が、口の奥で鉄の粉のようにざらついた。舌の上にへばりついた錆が、どうしても飲み下せない。

「もうひとつは」

シャルルは、小姓に目配せをした。

小姓が両手で捧げ持ってきたのは、銀の盃だった。細い脚、縁に茨の紋様。帝国第三軍団の紋章が、底に薄く彫られている。中では、琥珀色の酒が油のように揺れていた。指一本分の深さもない、わずかな量だった。揺れるたびに、盃の内側へ粘る軌跡を残す。――普通の酒ではない。

――毒杯だ。

レイヴンは瞬時に悟った。

十二年の傭兵稼業で、同じ構図を二度見てきた。戦功の大きすぎた平民の将に宮廷が下す、最後の「慰労」。金貨は家族のため、毒は貴族の体面のため。あの二度とも、将は笑って飲み、笑ったまま崩れ落ちた。笑わねば、家族の金貨が消える――そういう作法だった。

「賜杯にて、ございます」

シャルルは微笑を崩さない。

「平民の英雄は、宮廷の目にまぶしい、と」

ダーモの呼吸が止まった。薬師の少年が麻布を取り落とした。三百のうち、まだ立てる者たちが、ゆっくりと武器へ手を伸ばしかける――その肩を、レイヴンは片手で制した。掌で押さえた鎧越しに、ダーモの体が小刻みに震えているのが伝わった。怒りではない。堪えきれぬ嗚咽を、鎧の奥に閉じ込めている震えだった。

「抜くな」

「隊長っ」

「抜けば、お前たちも罪人になる」

彼は盃を見つめたまま、静かに続けた。声はむしろ、日常の指示と変わらぬ平坦さだった。

「俺一人だ」

シャルルの背後、森の影から弓兵が身を起こすのが目の端に映っていた。二十騎。渓谷の出口も、いつの間にか騎兵が塞いでいる。生きて帰さないための数が、静かに整えられていた。矢尻の角度は、揃いすぎている。訓練された処刑だった。

レイヴンは、盃を受け取った。指先に、銀の冷たさが刺さった。

「報酬は、金貨と共に、家族へ届けてもらおう」

「無論、約束通りに」

シャルルは深々と頭を下げた。頭を下げたままの角度で、扇が震えていた。

「どうか、美しき最期を」

甘い香。薔薇油と、杏仁と、もう一つの、苦い香。鼻腔の奥で、その三層目の匂いが、記憶の抽斗を勝手にこじ開けた。アルテリアの毒師が使っていた蔦の根――あれと、同じだ。一滴で牛を殺す。量の少なさは、慈悲ではない。苦しませずに死なせる分量ですらない。宮廷の作法に則った、ちょうどよい「儀式の長さ」に合わせてある量だった。

飲む前に、彼は盃の中の琥珀色に、一瞬だけ自分の顔を映した。三十二歳の、傭兵の顔だった。泥と返り血で汚れた頬の向こうに、意外なほど静かな目が、こちらを見返していた。

喉を焼く熱は、酒ではなかった。

一息で嚥下した瞬間、胸の奥へ、細い針を束ねた焼き鏝を差し込まれたような、白い熱。レイヴンは盃を取り落とした。銀の縁が石に当たって、澄んだ音が鳴った。その音だけが、異様に遠かった。耳の奥に、綿のようなものが詰められていく感覚だった。

「隊長――っ」

ダーモが駆け寄ろうとした。その胸に、森から放たれた矢が三本、同時に咲いた。

膝の下の泥が、冷たい。口の端から垂れた泡混じりの唾が、鎧の胸当てを伝っていく。自分の体が、どこから先が自分でなくなっているのか、もう区別が付かなかった。

――抜くな、と、言ったのに。

視線の先で、薬師の少年が首筋を射抜かれていた。斥候のギヨームが、斧を構えたまま二本の矢で倒れた。三百のうち、まだ立てていた者たちが、次々に森からの矢で崩れていく。少年の取り落とした麻布が、風に巻かれて、血溜まりの上を滑っていった。白かった布が、吸うたびに赤へ染まり、やがて黒ずんでいく。それを追う気力は、もう指先にも残っていなかった。

毒は喉から胃へ、胃から手足へと広がっていた。指先の感覚が、砂のように散っていく。だが、レイヴンの目だけは、不思議と冴えていた。むしろ、生涯のどの戦場よりも、視界が澄んでいた。

盤面が、見えた。

帝国第三軍団の本陣と、背後に連なる七つの輜重路。属国ルーメル兵の駐屯地、その東に位置する帝国西方軍の補給拠点。皇帝直轄の十二将のうち、ヴァルターを動かしたのは宮廷派の三人――宰相ガルニエ、大司祭ドミニク、そして、近衛。

頭の中で、駒が動いていた。

属国兵の不満、補給路の狭隘、河川の流量、嵐期の風向き。無数の要素が碁盤の目のように整列し、ひとつの答えを示している。

帝国を詰ます盤面が、見えた。

笑おうとして、血の塊を吐いた。

シャルルが、扇で口元を隠して近づいてくる。

「まだご存命でございますか。お強いこと」

その目は、すでに屍を見る目だった。

「崖下へ、お願いいたしますわ。河へ落ちれば、遺体も上がりませぬ」

騎兵の二人が、レイヴンの両脇を抱えた。鎧越しでも、乱暴な掴み方だった。渓谷の縁、百尺下を青い河が流れている。

引きずられながら、レイヴンは死んだ部下たちを、名前で呼んだ。ダーモ。ギヨーム。アルベール。ミレイユの息子のジャン。鍛冶屋上がりのトマ。薬師見習いのリリィ。名前の一つ一つを数えるたび、盤面が澄んでいった。一人呼ぶごとに、駒が一つ、あるべき位置へ収まっていくようだった。

「覚えておけ」

彼は掠れた声で、シャルルの背中に言った。

「お前たちが、俺に、教えたんだ」

兵士の手が、肩を突いた。

体が、崖の縁を離れた。

空が、一度回った。

河の青が、下から駆け上がってきた。

叩きつけられた瞬間、肋骨が、左右とも砕ける音がした。水が鉄の蓋のように頭上を閉じる。冷たさは、もう痛みの形をしていなかった。

流されながら、レイヴンは目を開けていた。

濁った水の向こうに、盤面が、まだ見えていた。

帝国を詰ますまでの、十六手。

最初の一手は、敵国ガリア。

死ぬには、遠すぎた。

河の底で、男の手が、まだ折れていない方の指で、石を掴んだ。

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