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影走りの軍師

第2話 第2話

第2話

第2話

矢は、灰色の空に細い裂け目を刻み、低く重い唸りを引きながら落ちてきた。  カイルは反射的に頸を縮め、冑の鍔の下に視界を埋めた。  一矢ではなかった。二矢、三矢、十矢、百矢——ヴェルド軍の長弓隊が、開戦の儀礼を終え、鉄騎が脚を止める間に矢の雨を降らせる手筈であったらしい。矢柄が泥に刺さる鈍い音、革に弾ける乾いた音、骨に当たる湿った音。三種類の音が、それぞれ違う高さで耳の奥を裂いた。

 二歩前で、ダリオが前のめりに崩れた。  背中に矢が一本、肩甲骨のあいだから生えていた。 「ダ——」  名を呼びかけて、カイルは口を噤んだ。ダリオの背は、すでに動かなかった。泥の上に広がっていく赤は、思っていたよりもずっと黒に近かった。朝霧と混じり、湯気のような薄い白を立てている。

「下げよ、下げよ!」  誰かの叫び。 「下げるな、退くな!」  別の誰かの叫び。  二つの命令が頭の上で衝突して、どちらも風に流された。味方の隊列の右後方で、第二次の矢が降ったらしく、悲鳴が連鎖した。

 ブロッカの濁声が、左から響いた。 「冑、低くせい。盾——盾は隣のやつと合わせろ。重ねて、重ねて」  古参兵の手がカイルの左肩を掴み、半歩前へ押し出した。押し出された先に、ダリオの屍があった。カイルは反射的にそれを跨ぎ、跨いだ瞬間、自分の脛がダリオの肘に触れたのを感じた。冷えていなかった。まだ温かかった。温かさは、数秒前まで生きていた、という事実そのものだった。鉄の味が、舌の上で広がった。さきほど噛んだ木の実の渋みではない。自分の唇を、いつ噛んだのだろう。

 ヴェルド鉄騎の地鳴りが、矢音の合間を縫って近づいてきた。七千頭の蹄が腐土を打つとき、土は音を立てない。代わりに大地が低く呻く。カイルの両膝が、その呻きに共振して震えた。震えを止めようと内腿に力を込めれば、こんどは膝裏が攣って、片膝が泥に落ちた。

 第二次の矢が止んだあと、第三次は来なかった。代わりに、敵騎の先鋒が突入してきたからである。  最前列の盾兵が、ぶつかった瞬間に消えた。消えた、としか言いようがなかった。鉄騎の楔が槍衾を割って通過し、後ろの騎兵がその割れ目を踏み広げ、三列目の重騎兵が踏み残した兵を蹂躙して通った。血と土と腸が、雨のように左右に散った。  ブロッカの口からひゅう、と短い音が漏れた。古参兵の笑い方だった。 「来たな」 「……来たな、では」カイルは喘いだ。「ないでしょう」 「来た時は来た、と言うしかなかろうよ、貴族殿」

 本陣のほうで、ロラン卿の馬がいなないた。  カイルの位置からは、天幕脇に立つ指揮官の姿が、霧と人垣の隙間に小さく見えた。赤い外套が、朝日に煽られていた。  その外套の胸の高さに、黒い線が一本、突き立った。  矢だ。  ロラン卿の身体が、馬上で半秒ほど止まった。傾いだ。落ちた。金属の鎧が泥に触れた音は、思いのほか軽かった。

「卿が——」  誰かが言いかけて、その声は、後ろから来た馬の蹄に踏み消された。赤い外套を、別の兵が抱え起こそうとした。抱え起こす腕にも、矢が立った。副官が叫び、副官の馬が後ろ脚で立ち、副官は鞍を失った。本陣の天幕が、誰かの引いた支綱に巻き込まれて傾き、横に倒れた。倒れた天幕の柱が、伝令の少年の足を打ち、少年が泣き声をあげた。  泣き声が、それまでの戦場のどんな音より、カイルの腹の奥にこたえた。

「退け——」  誰かが叫んだ。誰か、と思ったのは、その声がロラン卿のものではなかったからだ。 「退け、退いて再編!」  別の声が叫んだ。 「退くな! 壁を保て!」  さらに別の声が叫んだ。  三つの命令が味方の陣の後背で交錯し、どれもこれも、互いを打ち消した。  それは、指揮系統が、いま、この瞬間に死んだ、ということだった。

 カイルの右手で、若い従兵が首を刎ねられた。首を失った身体は、二歩、三歩と前へ走り、四歩目で泥に倒れた。倒れる前に、彼の手から離れた水筒が、宙で水を撒いて回転した。撒かれた水が頬にかかったとき、カイルはようやく、自分が呼吸を止めていたことに気づいた。吸い込んだ空気は、血の鉄錆と焼けた革と、腐土の青臭さを混ぜた、粘りのある匂いだった。胸の奥で、肺がそれを拒むようにひと震いした。

「ダリオは、死んだ」  口に出して、自分でその事実を確かめた。動かないものを引きずっても、重いだけだ。  退がろうとした足が、別の重さに引っかかった。  誰かの腿だった。  ベルナルド——たしか、そういう名前だった。同じ村から徴兵された、靴職人の倅。腹に深く矢が突き刺さり、両手で柄を握って震えていた。震える指の節々が、白く、爪の下まで土が入り込んでいた。彼の靴は、彼自身の父親が縫ったものだろうか、と、こんなときに、ふと思った。 「カイル殿、抜いて……抜いてください」  矢を抜けば、腸ごと出る。 「抜くな」カイルは反射的に答えた。「抜けば、死ぬ」 「もう、死んでます」  ベルナルドは笑った。笑いながら、カイルの袖を掴んだ。掴んだ指は冷えていなかったが、握る力だけが、すでに別の生き物のもののように弱々しかった。 「家、家まで、引きずって——」  家までは八十里あった。  カイルは答えなかった。代わりに、ベルナルドの脇に肩を入れた。革の胴当ての縁が頸の付け根に食い込み、血が、すぐに鎖骨の窪みへ伝った。百八十斤はあろうかという重さが、一瞬で右肩に乗った。膝が、二度、泥に落ちた。立ち上がった。左肩には自分の槍。右肩にはベルナルド。歩けるはずがなかった。歩いた。

 退路を、目で探した。  本陣方向はだめだ。指揮官が斃れた場所には、敵騎兵が群がっている。正面はもっとだめだ。鉄騎の楔がまだ走り込んでくる。左、ロラン卿が「退くな」と命じた緩斜面。右、霧の濃い湿原。

 ——左翼、緩斜面、敵騎兵の速度が落ちる地形。  ——右翼、沼地に近い。霧は午までに晴れまい。

 朝、自分の頭のなかで勝手に呟いた、あの誰の声でもない声が、ふたたび、かすれた囁きで耳の裏に立ち上がった。  カイルは、頭蓋の内側を温水が押す、あの厚ぼったい鈍痛を、また感じた。こめかみが脈打つ。脈打つたびに、戦場の音が、薄紙一枚向こうへ退いていく。鉄の打ち合う音、馬のいななき、ベルナルドの喘ぎ。それらの音量が、揃って一段下がった。  代わりに、目の奥に、何かが映りはじめた。

 絵だった。  朝、開戦前の一瞬に見たのと、同じ絵だった。ただし今度は、もう少し色がついていた。  味方の陣形が崩れていく順序が、紙の上に墨を垂らしたように形を変えながら広がる。敵騎兵の楔が、自分たちの右翼後方をどう抜けようとしているかが、矢印のように見えた。湿原のへりが、霧の下で光っていた。光っているのは、水を含んだ葦の葉の艶だった。  そのへりに、もし、敵騎兵を引きずり込めたら——  ただし、いま自分にできるのは、引きずり込むことではなかった。引きずり込まれぬよう、自分とベルナルドが湿原の手前で止まることだけだった。

「ベルナルド」カイルは喘いだ。「左だ。斜面、ずる、ずる、滑って降りるぞ」 「は……はい」 「降りたら、どうします」 「降りたら、考える」

 自分でもよく分からない命令を、自分の口が出していた。出した命令を、自分の脚が、追いかけて履行しようとしていた。耳の奥では、まだ、誰でもない声が、低く、ひと拍ずつ脈に合わせて鳴っていた。半刻、半刻、と、それは時を刻む水時計のように、繰り返した。

 斜面の縁に出たとき、カイルの膝は、もはや膝としての形を保っていなかった。脛と腿のあいだで、関節が、勝手に折れたり伸びたりしていた。それでも、二人ぶんの体重は斜面のほうへ傾いだ。  傾いだ瞬間、カイルは振り返った。  振り返った目に、戦場の全体が、また、入った。  入った瞬間、また、絵が広がった。  今度は、紙ではなく、生きて動いている絵だった。味方の右翼が湿原に押し出されていく。押し出した敵騎が、湿原のへりで、わずかに速度を落としている。落としている速度の、そのわずかさが、半刻後、致命傷になる。  半刻後、と頭のなかで、誰かの声が言った。  半刻後、何が起きる。  カイルには、まだ、わからなかった。  わからないまま、彼は斜面を、ベルナルドの重さごと、滑り落ちた。泥が、また、口の中に入った。鉄の味と、土の味と、誰かの血の味が、舌の上で混ざった。  半刻後——  誰の声でもない声が、もう一度、頭の奥で、低く鳴った。

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