第3話
第3話
斜面は、泥と折れた葦と、誰かがこぼしたらしい葡萄酒のように赤黒い染みで、ひと筋の滑り台に変じていた。 カイルは、ベルナルドを抱えたまま、滑った。革鎧の背で泥を掻き、肘で草の根を掴み、膝が砕けぬよう身体の横を使ってうねった。二人分の重さは、重力に正直だった。斜面の底、風で斜めに育った杉の幼樹にぶつかり、ようやく止まった。止まった途端、ベルナルドが咳をした。口の端から、血混じりの唾が、ひと筋、斜面の泥に吸い込まれた。 カイルは、肩から崩れるように横になった。空は、まだ灰色だった。鉄騎の地鳴りは、斜面の上から降ってきて、地面を通して、直接に頬骨を叩いていた。 頬骨を叩く振動が、一定の拍を持っていた。 (……足並みが、揃っていない) カイルは、なぜ自分がそれに気づいたのか、わからなかった。わからぬまま、その拍を数えた。三、三、三、二——敵騎の先鋒は、一度、足並みを乱していた。楔の先端が、腐土に食われはじめているのだ。 頭蓋の内側で、また、温水が押し広げるような鈍痛が立った。立った痛みの、その向こうに、絵が、また、広がりはじめた。
——風、北北西から弱。昼過ぎ、南東へ回る気配。敵の長弓隊の矢は、午後には、斜面の下へは届かなくなる。 ——湿原のへり、葦の折れ方は、馬の通った跡である。昨日、敵はここまで斥候を出している。ゆえに湿原は、敵の脳の地図に「踏み抜く場所」として刻まれている。刻まれているがゆえに、敵は、自ら追い込む方向としては、そこを選びにくい。 ——敵の補給線、背後の小川を渡って北へ。鉄騎の蹄鉄は、昨夜の雨で、泥の重さに食われている。鉄騎は、速ければ速いほど疲れる生き物だ。 ——味方の退路は、本来、左の緩斜面。だが、その斜面の「上」は、敵の矢兵が抑えつつある。抑えているのは、斜面の上だけだ。下は、まだ、敵の視線の死角にある。
誰の声でもない声が、そこまで呟いて、黙った。 カイルは、起き上がった。ベルナルドの脇に肩を入れ、杉の幹に背を預けて、立った。立った視界に、ちょうど、斜面の影に身を潜めた味方の敗残兵が、十数名、ばらばらに散らばっているのが見えた。伝令が一人、大腿に矢を受けて這っている。弓兵が二人、弦を切られ、短剣だけを握って膝を抱えていた。盾兵は盾を失っていた。誰もが、顔の半分を泥で塗り、残り半分を自分の吐息の湯気で白く曇らせていた。鉄の匂いと、糞尿の匂いと、濡れた羊毛の匂いが、斜面の陰のくぼみに、ひとつの澱みとなって溜まっていた。 みな、上から「退くな」と叫ばれたのち、しかし、退いた者たちだった。退いて、叱責の声の届かぬ斜面の陰に、吸い寄せられていた。叱責の声が届かぬところ、それは、指揮の届かぬところでもあった。誰も、次の一歩を決めていなかった。決めていないというよりは、決めた先に死しかないと信じこんで、瞼の裏で膝を抱えているようだった。 「——ブロッカ殿は」 カイルは、自分でも不思議なほど、乾いた声で問うた。 這っていた伝令が、顎を上げた。顎は、泥と、自分の吐瀉物で汚れていた。「古参のブロッカ殿なら、右後方、中隊旗の脇に……」 「まだ、生きておられるか」 「……存じませぬ」 存じませぬ、という言葉は、戦場では「おそらく、もう」という意味だった。カイルは頷いた。頷きながら、頭蓋のなかで、絵を、もう一度広げた。絵のなかで、ブロッカのいた場所は、すでに朱で塗りつぶされていた。朱は、血の色ではなく、敵騎の踏破した経路を示す、なぜか、そういう約束事になっていた。 「聞いてくれ」 カイルは、斜面の陰の十数名に、声を投げた。自分の声とは思えぬほど、喉の奥から、削って出た声だった。声は震えていなかった。震えていなかったことに、カイル自身が、ひそかに驚いていた。 「俺は、ブラン家の三男、カイルだ。指揮権はない。ないが、上の命令は、もう、ない。ロラン卿は落馬された。副官は鞍を失った。本陣の天幕は倒れた」 誰も、口を挟まなかった。兵らの目が、初めて、ひとつの方向を向いた。向けられた十数対の目は、獣のそれに近かった。叱責でも、叱咤でもない、ただ「次の一歩を示す声」を、待っていた。 「ここから、俺の言う通りに動いてくれ。死にとうない者だけで、よい」 「……どこへ、参るのです」片膝立ちの弓兵が、かすれた声を出した。 「湿原の、へりへ」 「湿原は、踏み抜けば膝まで沈むと、昨日、斥候が——」 「だから、行く」 カイルは、ベルナルドの胴を、右腕で巻き直した。ベルナルドは、すでに呻き声も出せぬほど浅い息を繰り返していた。巻き直した腕の下で、胸骨の震えが、小鳥の心音のように、細く、速く、伝わってきた。 「死なぬ場所というのは、敵が入って来ぬ場所のことだ。敵が入って来ぬのは、敵自身が『ここは危うい』と、昨日の斥候の足で、覚えた場所だ。湿原のへりに、葦の折れた一本道がある。馬一騎分の幅がある。そこを辿る」 「我ら、だけで、ですか」 「我ら、だけだ。味方の中央は、まだ崩れきらぬ。中央が粘るあいだに、我らは、湿原のへりを回る。敵の精鋭が、我らを『敗残の尻尾』と見て、追うだろう。追えば——」 カイルは、ひとつ、息を吐いた。吐いた息は、朝の冷気のなかで、白く、長く、尾を引いた。 「追えば、敵は、湿原に足を取られる」 弓兵は、口を半開きにしていた。大腿に矢を受けた伝令が、泥の上で、ゆっくり頷いた。頷く頸が、粘土のように重そうだった。 「——あんた、」ブロッカの口癖を、なぜか伝令が呟いた。「前しか、見ちゃおらぬ、と、思っとったが」 「横目で、逃げ道を、数えた」 「それだよ、貴族殿」 貴族殿、という呼び方には、嘲りの残滓と、けれどかすかな希望の粒が、同じ舌の上で混じっていた。
十数名は、立った。立てぬ者は、立てる者が肩を貸した。カイルは、斜面の陰を、湿原のへりへ向けて、歩き出した。ベルナルドの重さは、もう肩のかたちを覚えていて、痛みが、鈍くなっていた。痛みが鈍くなるのは、怖いことだった。怖いから、歩いた。
四半刻で、一行は葦のへりに出た。葦は腰の高さまであり、折れた葦の道は、たしかに馬一騎分の幅だった。踏めば、薄い氷のような水膜が靴底を包み、その下から、腐葉の青臭い匂いが、冷えて立ち昇った。葦の穂先が、すれ違うたびに頬を撫で、細い切り傷を残した。切り傷は冷気に噛まれて、痛みより先に、痺れに変わった。 カイルは、後方を見上げた。斜面の上、敵騎の一隊が、こちらに気づいた。指揮官らしい鎧の胸板が、朝日に青く光っていた。「敗残を追え」という、遠い号令が、風に乗って、切れ切れに届いた。 ヴェルド精鋭、十二騎。 精鋭は、槍を下ろし、馬を斜面から駆け下ろした。駆け下りの速度で、勢いをつけたまま、葦のへりへ突入してきた。突入してきたときには、もう、速度を緩めるには、遅かった。 先頭の二騎の前脚が、ずぶ、と沈んだ。沈んだ前脚は、抜けなかった。抜こうとした馬体が、横に傾いだ。傾いだところへ、後続が追突した。鉄騎は、鉄と鉄とがぶつかるから、鉄騎であった。泥のなかで鉄と鉄がぶつかると、音だけが、やたら大きく、動きは、ほとんど、なかった。馬の悲鳴が、人の悲鳴より高く、長く、葦の穂の上を滑っていった。 半刻後—— と、誰の声でもない声が、もう一度、カイルの耳の裏で、鳴った。 半刻後、この湿原のへりで、動かぬ鉄騎が、何をされるか。
カイルは、そこまでは、見なかった。 見なかったのは、見たくなかったからではない。見る前に、肩の上のベルナルドの呼吸が、一度、長く、細く、吐き切られたからだった。吐き切った肺は、次を吸わなかった。カイルの肩の上で、重さだけが、少し、軽くなった。軽くなった重さを、カイルは、まだ、下ろさなかった。下ろせなかった、と言ったほうが、正しかった。 葦の穂の向こうで、味方の中央が、まだ粘っていた。粘っている中央の、さらに向こう、斜面の尾根の影から、新たな旗が、ひとつ、覗いた。王国軍の、予備中隊の旗だった。中隊旗は、葦のへりで動かぬ敵騎を、正面から、見ていた。 見ていた、ということは。 カイルの頭のなかで、絵が、静かに、次の紙に切り替わった。