第1話
第1話
薪の火が爆ぜ、カイル・ブランの頬を舐めた熱は、次の瞬間には泥の冷たさに呑まれた。
前夜、陣の焚火にかざした掌の感触はまだ指の節に残っている。だがそれは幻だ。いま頬を伝うのは、兜の裏に溜まった結露と、鼻水と、土の滴。火の記憶は、ほんの一秒も持たずに、三月の辺境の冷気に食い尽くされた。
王国暦四八二年、三ノ月六日。辺境サルヴェリアの丘陵は前夜の雨で腐り、兵らの長靴は膝まで土に吸い込まれていた。カイルは右の脛に力を込め、泥から足を抜こうとした。十六度目。左足が抜ければ右が沈む。槍の石突きを支えにしても、革鎧の重さが地へ地へと引いてゆく。吐く息が白く立ち昇り、周囲千数百の兵が同じことをしているから、朝霧が二重になって陣を覆っていた。
泥はただの泥ではなかった。前日まで百姓が麦を植えていた黒土に、秣の腐り、馬糞、そして誰かが撒いたのだろう消石灰の白がまだらに混じっている。踏み込むたび、皮長靴の合わせから冷水が忍び込み、足指は感覚を失いはじめていた。爪先を握ったり開いたりする。十本あるはずの指のうち、動くのは六本。残りは、もうあるのかないのかさえ判らない。脚よりも先に、足が死んでいく。それは、戦う前から削られていくということだった。
(生きて帰る。ただそれだけだ)
腿の内側に食い込むのは、母が仕立て直してくれた下帯の縫い目だった。二度ほどいて三度縫ったと聞いた。ブラン家にはもう新しい具足を誂える金はない。借財の利息だけで年貢の半分が消え、領地の東半分は二年前に抵当へ入った。長兄ユーグは北部戦線で首を落とされ、次兄レイドは胸を貫かれて死んだ。母ミリアンヌは喉を病み、冬を越せぬと町医者が言った。弟トーマはまだ七つ。
出立の朝、弟は玄関の敷石に裸足で立ち、泣きもせずにただカイルの腰帯を引っ張った。「兄様、帰るよね」。返事をしなかった。嘘は大人のやるものだと、どこかで自分に言い訳をした。その手の小ささが、いま、槍の柄を握る掌の熱として残っている。母の手も、別れ際に触れたとき、薄い皮の下で骨が鳴るように軽かった。あの手に、もう一度、温かい匙を握らせてやりたい。それだけで足はまた一歩泥を吸った。
十九歳のカイルが徴兵名簿に自ら印を押したとき、代官は鼻で笑った。「ブラン家の三男坊。武勲一つで家名を立て直す算段かよ」。武勲などいらぬ。徴兵前金、銀貨十二枚。その半分を母の薬代に、残りを弟の読み書きの師匠に。それで足りる。足りねばならぬ。
「おい、貴族殿よ」
左隣、百戦錬磨の古参兵ブロッカが欠伸まじりに声をかけてきた。髭の奥で前歯が二本欠けている。
「その顔色、俺の婆さんの死に顔によう似てるぞ」
「……初陣ゆえ」
「そうだろうよ。誰でも最初はそうだ」ブロッカは泥に痰を吐いた。「だが覚えとけ、小僧。前しか見ぬ奴は早う死ぬ。横目で逃げ道を数える奴が、夕飯にありつく」
ブロッカの痰には朱が混じっていた。長年の戦場暮らしで肺のどこかが傷んでいるのだろう。それでも男は笑った。笑うと、欠けた前歯の向こうに、黄色い牙のような犬歯が覗く。「——あと、貴族殿。冑の顎紐、もう一つ上へ通せ。顎が外れたやつを三人は見た。馬の膝で蹴られてな、舌ごと持っていかれた」。カイルは言われたとおりに革紐をずらした。喉仏に食い込む感触が、かえって呼吸を楽にした。ブロッカは満足そうに頷き、自分の冑の縁を親指で撫でて、どこか遠くを見る目をした。
右隣の新兵ダリオは、先刻から三度吐いていた。麦粥の酸い匂いが霧に溶け、カイルは胃の奥がせり上がるのを、奥歯を噛んで押し戻した。甲冑の下で、肋の間を汗が一筋すべり落ちる。夜明けの風は、鉄と腐葉土と、人の恐怖の匂いを運んできた。
恐怖には匂いがある、とはブロッカの受け売りだった。小便と、鉄と、脂の浮いた汗——それが千人分集まると、風下の鳥さえ寄りつかぬ、と。カイルは初めて、その言葉の意味を鼻の奥で理解した。鼻腔の粘膜がひりつく。頭の芯のほうで、母の煎じ薬の甘苦い匂いが、一瞬だけ立ちのぼって、消えた。
目を上げる。平原の向こう、地平線の縁がゆっくりと黒く染まり始めていた。
ヴェルド王国、鉄騎七千。
黒は染みるように広がり、やがて輪郭を持った。長槍の穂先が朝日を刺し、冑の銀が鱗のように波打つ。旌旗は赤と漆黒、ヴェルド王家の双頭鷲。どよめきが味方の陣を走った。新兵が一人、泣いたのが聞こえる。カイルは喉の奥が凍り、指先から力が逃げるのを感じた。槍を取り落としかけ、泥にめり込ませて支えに変える。
黒の列は、見ている間にも形を変え、伸び、厚みを増した。一頭一頭の馬の、胸甲の輪郭が、霧の向こうで少しずつ鮮明になっていく。馬の鼻息は、まだ耳には届かない。だが空気が震えはじめていた。カイルの指は、自分の腿の外側を意味もなく撫でていた。そこには父の形見の、柄の曲がった短剣が革帯に差してある。これ一本では、鉄騎の胸甲に傷一つつけられぬと、出立前に武具屋が笑った。それでも父が最後の出征に帯びていたものだった。父は帰らなかった。帰らなかった者の短剣を、いま三男が腰に下げている。
本陣の方角から伝令の角笛が短く三度鳴った。第三次フロント会戦——王国軍、総勢四千二百。敵は倍近い。カイルの属する第七歩兵大隊は最前列、つまり最初に刃を受ける位置に置かれていた。
指揮官ロラン卿が馬上から声を張り上げる。
「諸君、我らは王国の壁である。壁が退けば、背後の村々が焼かれる。ひと足も退くな。ひと足も退くな」
ひと足も退くな、とカイルの喉の奥で言葉が反響した。馬鹿を言え、とは口に出せなかった。
かわりに、目だけが勝手に動いた。
視野の縁に、見えないはずの線が走った。錯覚だ、と自分に言い聞かせる暇もなく、景色は静かに裏返った。音が遠のく。ロラン卿の声が綿にくるまれたように鈍り、風の冷たさが薄紙一枚隔てて触れる。瞬きをしたはずなのに、瞼は閉じなかった。閉じたのは、世界のほうだった。
——右翼、沼地に近い。霧は午までに晴れまい。 ——左翼、緩斜面、敵騎兵の速度が落ちる地形。 ——敵中央、鉄騎の密集。重い。しかし補給線は遠く、背後に川。 ——風、北北西から弱。敵の矢は流される。味方の矢も。
頭のどこかが、見たこともない術語で呟いていた。「側背」「突出」「陣形密度」。学んだ覚えのない言葉が、まるで喉元に置かれた暗誦のように、勝手にほどけてゆく。教練の軍曹すら使わなかった語が、自分の舌の上で当たり前のように形を成す。誰の声だ。自分の声ではない。自分の声でしか、ない。
それは気づけば、知らぬ絵として頭のなかに広がっていた。戦場の全体が上から見下ろしたように描かれ、どこが浅く、どこが深いか、水のような明暗で差がつく。カイルは瞬きをした。絵は一瞬で消え、ただ泥と冑と霧が戻った。
(……何だ、今のは)
こめかみに細かい痛みが走る。震える指を見下ろし、カイルは自分が未だ生きていることを確かめた。生きている。まだ。
痛みは針で刺すような鋭さではなく、頭蓋の内側を温水が押し広げるような、厚ぼったい鈍痛だった。目の奥に白い点が瞬く。直後、その点が弾けて、また景色が平らに戻った。幻覚か。いや——ブロッカが言っていた「沼は深い」という場所が、なぜか、まだ踏んだこともない沼の底の温度まで、皮膚感覚として残っている。右翼の湿原の葦が何本折れているかまで、指で数えられそうな気がした。怖かった。敵よりも、自分の頭の中で起きたもののほうが、怖かった。
「ダリオ」彼は右隣の新兵に声をかけた。自分でも驚くほど掠れた声だった。「陣が崩れたら、左へ走れ。沼地でなく、斜面のほうだ」
「……貴族様、何でそんな」
「いい。覚えておけ。沼は深い」
ダリオは口を半開きにし、吐瀉物で濡れた顎を手の甲でぬぐった。その目がカイルを見上げる、その目のなかに、一瞬だけ、縋るような光が灯った。縋られる側に回ったのは、生まれて初めてだった。長兄や次兄の背にだけ、ずっとその光を向けてきた側の自分が、いま、誰かに向けられている。肩が、ひどく重くなった。
ブロッカが片眉を上げてカイルを見た。欠けた前歯の奥で、何か噛みしめるような音がした。
古参兵は何も言わなかった。ただ、腰に下げた革袋から、黒くひしゃげた木の実を一つ取り出し、カイルの掌に押しつけた。「噛んでおけ。舌を噛まずに済む」。木の実は湿って、渋く、土の味がした。カイルは奥歯でそれを割った。割ったとたん、苦みが舌の根を引き締め、散り散りだった思考が、ひと筋に戻っていく気がした。
そのとき、敵陣の鉄騎が動いた。地鳴りが靴底から膝へ、膝から腰へ駆け上がる。味方のどこかで弓兵長が叫んだ。
「構え——!」
カイルは槍を握り直した。掌が汗で滑り、柄に巻かれた麻の目が皮膚を噛んだ。痛い。痛いうちは、まだ生きている。
第三次フロント会戦の第一矢が、灰色の空を割いた。