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識閲のブローカー

第2話 第2話

第2話

第2話

シャープペンのノックボタンが、親指の腹に押されすぎて、プラスチックの縁が柔らかくなっていた。 朝六時、結界の縫い目は、昨夜と違う角度でわずかに閉じかけていた。閉じた、ではない。縫い直された。外側からではなく、内側から。 手帳の最終ページ、午前二時十七分、三時四十八分、五時十二分、同じ座標に書き込んだ妖気反応——三〇二、三〇四、三〇一。第七階梯五体、数は変わらず、位置だけが狂いなく固定されている。朝九時まで、あと三時間。 喉の奥に、ゆうべから張り付いたままの金属の味があった。コンビニで買った水を含むと、舌の上でアルミ缶と鉄錆を混ぜたような味に変わる。恐怖の味は、水では薄まらないらしい。 「蓮くん!」 坂の下から、灯里が駆け上がってきた。白衣の胸元に、紺色のブレザーの上着を羽織っている。考査用の正装だ。 「徹夜したの?」 「うん」 「顔、死人みたい」 「清掃部志望だから、ちょうどいい」 灯里は笑わなかった。代わりに、俺の手首を掴んで、自分の頬に当てた。指先の冷たさが、皮膚越しに伝わる。 「冷えすぎ」 「……」 「今日、絶対、私のそばに居て」 灯里の薬指の、古い絆創膏が、俺の脈に直接触れている。三年前、彼女が小指を切った時、俺が渡した学園売店の安物の絆創膏。彼女はそれを剥がさず、破れたら上から重ねてきた。今、俺の脈は、三年分の重なったガーゼ越しに、彼女の皮膚に届いていた。

第一闘技場は、学園敷地の南西、地表から七メートル沈み込んだ半地下のコンクリート円形ホールだ。入口で学籍番号を読み上げられ、受験生控室に通される。階段を一段降りるごとに、空気の湿度が一段重くなり、壁を伝う地下水の音が耳の奥で低く響いた。換気口から押し出される風は、地上のそれより〇・五度ほど温く、人の体温に近い。結界を張った空間特有の、時間が止まったような気配。 蛍光灯の白がきつい。湿った砂と、霊力触媒の硫黄に似た匂いが鼻につく。天井近くで、青白い光の粒がゆっくり螺旋を描きながら降りてくる——封印式の下準備。俺はその一粒が、自分の手の甲に触れる直前で掻き消えるのを見届けた。 「今のうちに最終調整をしておけ」 教壇の志賀が声を投げた。会場中央、地面に描かれた大きな陣の縁に、受験生三十人が円周状に等間隔で立つ。磐城が胸を反らし、同期が数人、彼の呼吸に合わせて詠唱を重ねる。桜色の光が天井を舐め、周囲の受験生がどよめいた。光が強まるたび、コンクリートの床に受験生の影が四方に伸び、また縮む。歓声の下に、誰かが舌打ちする音。誰かが自分の指を鳴らす音。磐城の周りだけ、空気の密度が違って見えた。 俺は壁際のベンチに座って、手帳を開いた。冷えた金属の脚が制服越しに腿裏を刺す。ページを捲る指先は震えていたが、文字を書く段になると、ぴたりと止まる。三年間、そうやって止めてきた。 ——磐城一馬・第三式六角円陣、展開〇・七秒、右手薬指の第二関節が〇・五度外側に開く癖、展開時の重心が右後方に寄る、対応術式、左側面からの直撃に弱い。 ——瀬田雅人・火系第二式、詠唱時に左肩が五センチ前へ出る、そこを突けば呪文が乱れる。 ——東堂早苗・水系補助結界、展開中は三秒ごとに瞬きが四回、三回目で結界強度が一瞬落ちる。 三十人分、三年間、積み上げてきた項目だ。ページの隅には赤字の注釈——「本人、自覚なし」。志賀の「可」は、彼らのこの欠損を一度も見ていない。見ようとしなかったのか、見えなかったのか。三年のあいだ、俺はその区別をつけないまま観察を続けた。 「蓮くん」 灯里が手帳を覗き込み、小さく笑った。息に、喉飴のミント——今日は少し薄い——が混じる。 「私のところも、書いてるの?」 「書いてるよ」 「怖いな。見せて」 ——芹沢灯里・防御式〇・九秒、最速、詠唱中の吐息がわずかに甘い、舐めている喉飴、緊張時に匂いが強くなる、舌で飴を奥歯へ押し付ける癖、防御は得意、攻撃は苦手、観察力だけは俺と同格。 欄外、赤字で一行。 ——Fランク判定、不当。 灯里の指が、俺の指先を、その赤字からそっと退けた。指の腹が紙の上を滑る音が、俺の耳の奥で、やけにはっきりと残った。 「不当って、書いてくれたの」 「三年前から」 「……ありがと」 彼女の前歯の右側が、少しだけ重なって見えた。笑ったつもりの表情が、途中で止まり、そのまま固まっている。その瞬間、会場の反対側で磐城の予行術式がもう一度発動し、志賀が拍手を一回、やけにゆっくり鳴らした。 俺の指は、もう次の項目を書き足している。 ——志賀、拍手間隔〇・八秒。普段の授業では〇・四秒。今日だけ二倍遅い。 身体が遅いんじゃない。思考が、別の場所に引っ張られている。拍手の音と、志賀の視線の向きが、〇・二秒ずれている。視線の先は、陣の中央——受験票の配布係が立っている場所。

「受験番号順に並べ」 志賀の二度目の声に、三十人が動いた。靴裏が砂を擦る音が、重なり合って短いざわめきになる。俺は立ち上がりながら、視界の隅で天井のドームを追った。蛍光灯の白に、一瞬、別の色が混じって見えた。橙色——逆流する霊気の色。 ——縫合紋様、四重層。 あ。 指先が、手帳の紙端を一瞬だけ潰した。爪が紙に食い込み、三日月の跡が残る。 「どうしたの?」 「……同じだ」 「え?」 「昨夜の、学園上空の縫い目。この会場の天井に、同じ紋様が縫われてる」 灯里が息を呑む音が、俺の手帳の上に落ちた。彼女の唾液のわずかな湿りが、赤字の上で小さく滲む。 柱に貼られた配置図へ、俺は歩み寄った。志賀が今朝、手書きで差し替えた最終版だ。紙の端がまだ湿っていて、インクの匂いが鼻先をかすめた。墨ではなく、安い事務用ボールペン。急いで書き直した証拠。 磐城ら上位三人——東壁寄り。 中位グループ——北壁と南壁。 Fランクを含む下位八名——中央、陣の真下。 受験生の配置は、学園規約では受験番号順が原則だ。過去三年分の資料、どれもそのルールで組まれている。 「志賀先生」 俺は近づいて、声を抑えた。靴底が、教壇前のゴムマットの上で一度だけ滑る。 「今年は、配置が番号順じゃないんですね」 「今年は評価順だ。新方針」 「……新方針」 「底辺は底辺らしく、真ん中に固まっていろ」 冗談めかした口調。だが、冗談を言う人間の目は笑う。志賀の目は、湯呑みの縁を見ていた。 教壇の湯呑みは、昼を待たずに右側へ置かれたままだった。そして、陣の中央から三つ目の点——昨夜、縫合紋様が最も逆流していた座標——に、灯里の受験票を持った係員が立っていた。 「先生」 「まだ何かあるのか、黒瀬」 「陣の真上の縫合紋、第二層が、今、逆流しかけています」 志賀は、俺の方を見なかった。湯呑みの湯気が、志賀の顎のラインで不自然に折れている。空調ではない。誰かの呼気の流れが、そこに割り込んでいる。 「お前は術式の発現もない生徒だ。結界の何が分かる」 「俺は、三年間、毎朝見ています」 「——見るな」 短い、短い声。 湯呑みが一ミリだけ横にずれた。 後ずさったら、三年が全部嘘になる気がした。だから動かなかった。膝の裏が震えているのを、腿の力だけで抑え込む。呼吸を、四秒吸って、六秒吐く——灯里が俺に教えた、結界観測時の整呼法。 灯里が、俺の袖を引いた。 「蓮くん」 「……うん」 「私、壁際に立つ」 「評価順に並べと言われてる」 「最下位なら、壁際でいいです」 灯里がまっすぐ志賀を見た。三年間、教室の後ろの席から一度も上げなかった顎が、今、水平に保たれている。志賀の顎が、わずかに固まる。 「好きにしろ。ただし試験中に動いたら失格だ」 「はい」 灯里は、手帳を持った俺の手を一度だけ強く握った。絆創膏が俺の指の背を擦る。ガーゼの繊維が指の産毛に引っかかり、離れる瞬間、ほんの少しだけ皮膚を持っていく。 「蓮くんも、陣の外にいて」 彼女の瞳は、俺の手帳を三年間信じ続けた時と、同じ色だった。 ——ぜんぶ正確に書いて。私が信じるから。 昨日の紙片が、鞄の中で、音もなく返事をした。

「第三期・卒業考査、実技部門、第一組、開始」 放送が流れる。 天井のドーム結界が、封印式でゆっくり閉じた。試験終了まで、内からも外からも、誰も出られない。 志賀の指が、教壇の下で、目立たない符を一枚、握り潰した。 天井の縫合第二層に、昨夜と同じ亀裂が走り始めた。 朝に閉じ直されたはずの縫い目だ。 ——なら、この亀裂は、この会場の中で、今、誰かが新しく開けている。 手帳を握る指に、冷えた汗が滲んだ。喉の奥で、金属の味が、はっきりと濃くなる。 「——灯里」 呼んだ声は、開始のブザーにかき消された。 陣の中央に立った下位八名の足元、コンクリートが、一ミリだけ、ふわりと、浮いた。

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