Novelis
← 目次

識閲のブローカー

第1話 第1話

第1話

第1話

シャープペンの芯が、手帳の罫線を突き破って止まった。 「清掃部」——その三文字だけが、他のどの観察記録よりも深く紙に沈んでいる。俺の人差し指がインクの滲みを押し返し、爪の際に小さな紫を残した。 「黒瀬蓮、聞いているのか」 桜霊学園第三指導室の空気は、消毒液と古畳の匂いが混ざって鼻の奥で擦れる。教官・志賀の声は、入学から三年、ちっとも角が取れていない。 「Fランクで三年。最終考査を明日に控えて、未だに霊力の発現もない。お前の配属部署は、清掃部だけだ」 机の向こう、志賀の湯呑みの縁には茶渋が三本。左側が一番濃い。左利きの指癖。そんなことばかり記録してきた三年間だった。俺は顎を引く。頷いたというより、首の後ろに浮いた汗を誤魔化した動きに近い。 「……はい」 「霊力測定器に不備があるかもしれん、とお前は十二回も申し出たな」 「十三回です」 「そういうところが駄目なんだ、黒瀬」 志賀が湯呑みを置くとき、底と木の擦れる音が半拍だけ遅れた。俺はそれも覚えてしまう。覚えようとしなくても、勝手に。 「良いか。お前の同期は、すでに全員、警邏部か監査部の内定を取っている。磐城など、本庁・第三課の推薦状まで届いているらしい」 「……磐城、第三課ですか」 「羨ましいか」 「いえ。第三課は、去年の冬、底辺寮の西棟を立ち入り禁止にした部署です。寮生の半分が、年が明ける前に退学になりました」 志賀の眉が、一瞬だけ跳ねた。 「覚えなくていいことを、よく覚える子だな」 湯呑みの残りを一息で飲み干す音。かち、と奥歯が触れる音まで聞こえた気がした。俺は両膝に置いた手の指を、一本ずつ拳の中に畳んだ。手帳の角が、太腿の薄い生地越しに骨を押している。 廊下へ出ると、夕方四時の西日が、床のワックスに鱗みたいに貼り付いていた。

中庭では、三年E組が最後の結界演習をしていた。 「解」——同期の磐城の掌から、桜色の光が立ち上がる。規則的な六角形を刻んで広がる光が、飛来した訓練用妖魔——黒い霧の塊——を上から叩き潰した。周囲から歓声。磐城が前髪をかきあげる。彼の式符には、家紋が二重に縫い込んである。 俺は離れたベンチに腰を下ろして、手帳を開いた。 「磐城一馬。第三式・六角円陣、展開〇・八秒。……今日、〇・七秒になってる」 小さなグラフに点を打つ。三年間で二十六回更新された、彼の最速記録。俺自身は、術式の影すら出せない。 「おい、清掃部」 視界の端で、同じE組の瀬田が、友人と肩を揺らしながら通り過ぎた。 「明日は考査で会場を汚すなよ。拭くのはお前の仕事になるんだから」 周りの笑い声。俺は手帳のページをめくり、瀬田の術式展開時、左肩が五センチ先に出る癖を、いつも通り記録した。書かれた字は震えていない。それだけは、三年間で身につけた唯一の技術だ。 「蓮くん、またサボってるでしょ」 振り向くより先に、白衣の裾が視界の右下に滑り込んできた。芹沢灯里。俺と同じFランクで、同じ清掃部志望で、同じベンチで毎日昼を食べる、唯一の相棒だ。 「サボりじゃない。観察」 「そう言って隠すから、みんな蓮くんを変人扱いするんだよ」 灯里は俺の横に腰掛けて、遠慮なく手帳を覗き込む。彼女の髪からは、朝使ったレモンの制汗スプレーの匂い。右手の薬指に、小学生の頃から貼り替えていない古い絆創膏。俺はそれも、たぶん覚えてしまった。 「……ねえ、磐城くんの今日の円陣、角のひとつだけ内側に歪んでない?」 「歪んでる。右上三十二度、七ミリ内寄り」 「それ、なんで私に分かるのに、先生には分からないの?」 「先生は結果しか見ないから。磐城の評価は『可』で終わる」 灯里が眉を下げて笑う。前歯の右側が少しだけ重なっている。その笑い方が、俺の記録を三年間ずっと「誰より正確」と呼んでくれた、唯一の音だった。 「明日、考査でしょ」 「うん」 「終わったら、同じ清掃部で雇ってもらおうね。隣のロッカー、取っておいてあげる」 灯里の指先が、手帳の「清掃部」の三文字に軽く触れた。志賀のシャープペンが紙の下まで掘った窪みを、彼女は指で埋めるようになぞる。 「ここ、深いね」 「……うん」 俺は鞄から缶コーヒーを出して、ぬるい底を掌に押し付けた。アルミのざらつきが指紋に残る。それだけが、今日の俺の確かな感覚だった。 「蓮くん」 「ん」 「前に言ってたやつ、見せて。西棟の、新しい種類の妖魔」 手帳を後ろから二枚めくる。冬の朝、誰もいない中庭で見た、黒い霧の塊。普通の妖魔と違って、人間の霊力を「吸う側」に向いて動いていた。挙動図と、時系列の吸引量。隣に、赤いボールペンの細い字で、俺の推論。 ——『これは妖魔じゃない。誰かが、妖魔の形をした何かを、飼っている』 灯里はそれを、三分くらい黙って眺めた。 「志賀先生に、見せた?」 「一度だけ」 「なんて?」 「『お前は術式も発現しないくせに、陰謀論だけは一流だな』」 灯里の口の端から、乾いた笑いが漏れた。俺の肩を、軽く、一度、拳で突く。 「でも私は、信じてる」 「うん」 「明日、もし私が間違えたら、蓮くんがちゃんと見ててね。見て、記録して。私、蓮くんの手帳の中でなら、何度でもやり直せるから」 掌の缶コーヒーが、いつの間にか冷たくなっていた。

西門を出たところで、空の一点が妙に見えて、俺は足を止めた。 灯里が二、三歩先で振り返る。 「どうしたの?」 「……結界」 頭上、夕焼けの手前、高度およそ二百メートル。学園を覆う常設結界の「縫い目」が、わずかに揺れていた。 普段なら、結界は空気の歪みとして薄い膜にしか見えない。術式使いでも見分けられる者は少ないと聞いたし、まして俺のようなFランクには見えないはずだと志賀は言う。 でも俺には、毎朝見えている。 今日は、違う。いつもと違う場所で、縫い目が一本、ほつれかけている。 「蓮くん?」 「手帳、貸して」 自分の手帳を握ったまま、つい灯里に頼んだ。灯里は怪訝そうに自分の薄いノートを渡してくる。俺は空を見上げながら、震えそうになる指を紙に押し付けて書きつけた。 ——東南、仰角六十二度。縫合三番、内圧正、外圧負。四重層のうち、第二層のみ逆流の気配。 「……これ、誰かが内側から、開けようとしてる」 「え?」 「明日の考査、会場はこの結界の真下だよな」 灯里の笑顔が止まった。前歯の右側の重なりが、見えなくなる。 西日が校舎の瓦を撫でて、反射した光の角度が、普段より〇・五度ずれる。掌に残っていた缶コーヒーのぬるさが、急に気持ち悪いほどはっきり分かった。 「志賀先生に、言おう」 灯里が鞄から携帯を出そうとする。その指を、俺は反射的に止めていた。 「……志賀先生、今日、湯呑みを右に置いた」 「え?」 「三年間ずっと左に置いてたのに、今日だけ、右手で、右に置いた」 俺の手帳の、最後のページ。 「授業中に窓の外を見る回数、先週から三倍。視線の先、いつも同じ方角——この縫い目の、真下だ」 灯里の顔から、血の気が一段階引いた。 「蓮くん、それって」 「分からない。分からないけど、たぶん、先生には言っちゃ駄目だ」 俺は手帳を閉じて、鞄の奥、灯里が編んでくれた古い巾着袋の中に押し込んだ。小学校六年生のクリスマス会でもらった、下手くそな紅白の編み目。その糸の毛羽を、掌で一度だけ確かめる。 「今夜、一人で見張る」 「一人でなんて」 「君は明日、実技があるだろ」 「蓮くんだってあるよ!」 「俺はどうせ、清掃部志望だから」 冗談のつもりで言ったのに、声の最後が掠れた。灯里は何も言わず、自分のノートのページを破り取り、俺の手帳に挟み込んだ。 そこに、鉛筆で小さく、こう書いてあった。 ——ぜんぶ正確に書いて。私が信じるから。 紙の端に、彼女の指紋の油が丸く残っていた。

その夜、俺は学園裏手の坂道に立っていた。 風は止んでいる。結界の縫い目は、昼よりはっきりと、細い亀裂に育っていた。 亀裂の向こうで、何かが一つ、二つ、三つ——俺の手帳で「第七階梯」と仮に呼んでいる大きさの妖気が、ゆっくりと数を増やしていく。 それが、明日の朝、卒業考査の最中に、真下へ落ちてくる。 喉の奥に、金属の味がした。鼻血ではない。恐怖の味だと、俺は初めて知った。 手帳を開く。シャープペンの先を、空の一点に合わせる。 ——二十二時四十七分。第七階梯相当、現在五体。縫合破断、推定、明朝九時。 書き終えてから、俺は震える指で、今日最後の一行を、自分のためにだけ、書き足した。 ——灯里を、絶対に、あそこに、立たせない。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第1話 - 識閲のブローカー | Novelis